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第5章
予想だにしないこと 2
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二人の間に、微妙な沈黙が流れた。けれど、すぐにハイケがローゼのほうに近づいてくる。
彼女は、ローゼの手を力強く握った。
「奥様、おめでとうございます!」
ハイケが、心底嬉しそうな表情を浮かべながら祝福を述べてくれる。
……その言葉に、ローゼの胸がちくりと痛む。
(この関係が、終わってしまう)
心の中に小さなそんなとげが突き刺さって、ローゼは視線を下げた。
(しっかりと喜べなくて、ごめんなさい)
自身の腹を撫でながら、ローゼは心の中でそう謝罪する。お腹の中の子のことを、上手く祝福出来ない。
そんなことを思って、ローゼが眉を下げる。
「奥様……たくさん、不安ですよね」
ハイケはどうやらローゼの浮かない表情が、今後への不安だと感じ取ったらしい。
確かにそれもある。完全な嘘じゃない。自分自身にそう言い聞かせて、ローゼは顔を上げる。
「ハイケ。……イグナーツ様には、その、私からお伝えしたいのだけれど」
ヴェロニカからでもなく、ハイケからでもなく。執事からでもない。……ローゼ自身の口から、このことはイグナーツに伝えたかった。
ローゼのその気持ちを汲み取ってくれたのか、ハイケは力強く頷く。
「そうでございますね。奥様からお話しされたほうが、いいかと思いますわ」
どうやら、彼女も同じ気持ちだったらしい。
それにほっと胸をなでおろしていれば、寝室の扉が軽くノックされる。……誰だろうか?
「奥様、ハイケ。旦那様が、お戻りになられましたよ」
低い男性の声だった。この声は、間違いなくこの屋敷の執事のものだ。
「……奥様」
ハイケがローゼの指示を仰ぐ。なので、ローゼは笑った。
「こちらに、お呼びして頂戴」
静かな声でそう言えば、ハイケがこくんと首を縦に振って移動する。
ローゼは、寝台から起き上がる。そして、寝台の端にちょんと腰かけた。
(……私が、妊娠)
寝室の外からは執事とハイケの話し声が聞こえてくる。
普段ならば気になるだろうに、今はなんだか気にならない。それどころか、ほかに思うことがたくさんあって。
……まったく、彼女たちに気が向かなかった。
「嬉しいこと、なのよね」
貴族の妻の一番の務めは、跡継ぎを産むことだ。すなわち、妊娠は最も喜ばれることのはず。
……でも、素直に喜べない。だって、そうじゃないか。
「――この関係が、終わってしまう」
イグナーツとローゼの関係が、終わってしまうのだから。もちろん、終わらないで済む方法だってある。彼はローゼを手放すつもりはないので、ローゼが離縁を切り出さなければ夫婦関係は続行されるはず。
ただ……二人の関係が変わるのだけは、確実だった。
「私が望まなければ、終わりはこない。でも、否応なしに変わってしまう」
ぽつりとローゼの口からそんな言葉が零れた。
自分のつぶやきが、脳内に反復する。……こういうとき、どうすればいいのだろうか?
「……エリーのことのも、あるのに」
エリーのことがある以上、つわりとはいえ寝込んでなんていられない。
そう思っても、何とも言えない気分の悪さがこみあげてきて。ローゼは、思わず涙を流してしまった。
「……辛い」
エリーのこと。イグナーツとの関係のこと。そして、なによりも――つわりによる、不調。
精神状態がぐちゃぐちゃになって、めちゃくちゃになって。……もう、おかしくなってしまいそうだった。
「……ダメよ。こんな調子だと、心配をかけてしまう」
ボソッとそう言葉を零すとほぼ同時に、寝室の扉がノックされた。外から「ローゼ」と声をかけられる。
この声は間違いなく、イグナーツのものだ。
「……入ってもいいか?」
彼の声は、ほんの少し震えているだろうか。
そう思いながら、ローゼは「どうぞ」と返事をする。そうすれば、寝室の扉が開いた。
「ローゼ!」
イグナーツがローゼのほうに一目散に駆けてくる。彼のその目は不安そうに揺れており、相当心配していたのだろう。
「ローゼ、大丈夫か? 倒れたそうだな。……どこが悪いんだ? 倒れた際にけがなんて、していないな?」
早口にそう問いかけてくるイグナーツは、その身をローゼのほうに乗り出してきた。
なので、ローゼは彼の胸を押す。
「倒れましたが、大したことじゃありません。それに、倒れた際にけがはしておりません」
「……そう、か」
彼が胸をなでおろしたのがわかった。彼は本気でローゼの心配をしてくれているのだ。
……それに気が付いて、心の中がぽかぽかと温かくなるような感覚だった。
「……あの、イグナーツ様」
呼吸を整えているイグナーツのことを上目遣いで見つめつつ、ローゼは声をかける。
すると、彼はローゼを安心させるように笑いかけてきた。……普段は無表情な彼のこんな表情は、珍しい。
「一つ、お話が」
「……あぁ」
「そ、その、大変申し上げにくいのですが……」
俯いて、身を縮めて。ローゼは言葉を探す。なんと言おうか。直球に「妊娠しました」でいいのだろうか?
(きちんと、言わなくちゃ)
ぎゅっと手のひらを握って、顔を上げる。イグナーツは、真剣な眼差しでローゼのことを見つめていた。
その顔を見ると、何だろうか。安心できた。そのため、ゆっくりと口を開く。
「私……その、お腹に、赤ちゃんがいる、そうなのです」
彼女は、ローゼの手を力強く握った。
「奥様、おめでとうございます!」
ハイケが、心底嬉しそうな表情を浮かべながら祝福を述べてくれる。
……その言葉に、ローゼの胸がちくりと痛む。
(この関係が、終わってしまう)
心の中に小さなそんなとげが突き刺さって、ローゼは視線を下げた。
(しっかりと喜べなくて、ごめんなさい)
自身の腹を撫でながら、ローゼは心の中でそう謝罪する。お腹の中の子のことを、上手く祝福出来ない。
そんなことを思って、ローゼが眉を下げる。
「奥様……たくさん、不安ですよね」
ハイケはどうやらローゼの浮かない表情が、今後への不安だと感じ取ったらしい。
確かにそれもある。完全な嘘じゃない。自分自身にそう言い聞かせて、ローゼは顔を上げる。
「ハイケ。……イグナーツ様には、その、私からお伝えしたいのだけれど」
ヴェロニカからでもなく、ハイケからでもなく。執事からでもない。……ローゼ自身の口から、このことはイグナーツに伝えたかった。
ローゼのその気持ちを汲み取ってくれたのか、ハイケは力強く頷く。
「そうでございますね。奥様からお話しされたほうが、いいかと思いますわ」
どうやら、彼女も同じ気持ちだったらしい。
それにほっと胸をなでおろしていれば、寝室の扉が軽くノックされる。……誰だろうか?
「奥様、ハイケ。旦那様が、お戻りになられましたよ」
低い男性の声だった。この声は、間違いなくこの屋敷の執事のものだ。
「……奥様」
ハイケがローゼの指示を仰ぐ。なので、ローゼは笑った。
「こちらに、お呼びして頂戴」
静かな声でそう言えば、ハイケがこくんと首を縦に振って移動する。
ローゼは、寝台から起き上がる。そして、寝台の端にちょんと腰かけた。
(……私が、妊娠)
寝室の外からは執事とハイケの話し声が聞こえてくる。
普段ならば気になるだろうに、今はなんだか気にならない。それどころか、ほかに思うことがたくさんあって。
……まったく、彼女たちに気が向かなかった。
「嬉しいこと、なのよね」
貴族の妻の一番の務めは、跡継ぎを産むことだ。すなわち、妊娠は最も喜ばれることのはず。
……でも、素直に喜べない。だって、そうじゃないか。
「――この関係が、終わってしまう」
イグナーツとローゼの関係が、終わってしまうのだから。もちろん、終わらないで済む方法だってある。彼はローゼを手放すつもりはないので、ローゼが離縁を切り出さなければ夫婦関係は続行されるはず。
ただ……二人の関係が変わるのだけは、確実だった。
「私が望まなければ、終わりはこない。でも、否応なしに変わってしまう」
ぽつりとローゼの口からそんな言葉が零れた。
自分のつぶやきが、脳内に反復する。……こういうとき、どうすればいいのだろうか?
「……エリーのことのも、あるのに」
エリーのことがある以上、つわりとはいえ寝込んでなんていられない。
そう思っても、何とも言えない気分の悪さがこみあげてきて。ローゼは、思わず涙を流してしまった。
「……辛い」
エリーのこと。イグナーツとの関係のこと。そして、なによりも――つわりによる、不調。
精神状態がぐちゃぐちゃになって、めちゃくちゃになって。……もう、おかしくなってしまいそうだった。
「……ダメよ。こんな調子だと、心配をかけてしまう」
ボソッとそう言葉を零すとほぼ同時に、寝室の扉がノックされた。外から「ローゼ」と声をかけられる。
この声は間違いなく、イグナーツのものだ。
「……入ってもいいか?」
彼の声は、ほんの少し震えているだろうか。
そう思いながら、ローゼは「どうぞ」と返事をする。そうすれば、寝室の扉が開いた。
「ローゼ!」
イグナーツがローゼのほうに一目散に駆けてくる。彼のその目は不安そうに揺れており、相当心配していたのだろう。
「ローゼ、大丈夫か? 倒れたそうだな。……どこが悪いんだ? 倒れた際にけがなんて、していないな?」
早口にそう問いかけてくるイグナーツは、その身をローゼのほうに乗り出してきた。
なので、ローゼは彼の胸を押す。
「倒れましたが、大したことじゃありません。それに、倒れた際にけがはしておりません」
「……そう、か」
彼が胸をなでおろしたのがわかった。彼は本気でローゼの心配をしてくれているのだ。
……それに気が付いて、心の中がぽかぽかと温かくなるような感覚だった。
「……あの、イグナーツ様」
呼吸を整えているイグナーツのことを上目遣いで見つめつつ、ローゼは声をかける。
すると、彼はローゼを安心させるように笑いかけてきた。……普段は無表情な彼のこんな表情は、珍しい。
「一つ、お話が」
「……あぁ」
「そ、その、大変申し上げにくいのですが……」
俯いて、身を縮めて。ローゼは言葉を探す。なんと言おうか。直球に「妊娠しました」でいいのだろうか?
(きちんと、言わなくちゃ)
ぎゅっと手のひらを握って、顔を上げる。イグナーツは、真剣な眼差しでローゼのことを見つめていた。
その顔を見ると、何だろうか。安心できた。そのため、ゆっくりと口を開く。
「私……その、お腹に、赤ちゃんがいる、そうなのです」
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