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# The eleventh case:Banquet of the insectivore.―食虫植物の宴―
蔦、二葉。
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* * * * *
セナが出掛けた後、伯爵邸の前に一台の馬車が停まった。
家紋もなく、質は良いが黒一色に塗られたその馬車から人影が降りる。
長いブルーブラウンを後ろへ撫で付け、細い目に銀縁の片眼鏡をかけた穏やかそうな顔立ちだ。黒に近い紺色のジレとアビ、キュロットはそこそこに質が良く、アビの襟には目立ちにくいが光沢のある黒い糸で刺繍された鴉が一羽いた。
紳士らしく杖を携えたその人物を執事のアランが出迎えた。
「ようこそお越しくださいました」
「いえ、此方こそ急な訪問を受け入れてくださり感謝しております」
どこか余所余所しく儀礼的な会話を交わす。
更に二、三言話してから「旦那様がお待ちしておりますので御案内させていただきます」と先導するアランについて、その人物――……闇市や花街のゴロツキなどこの王都の暗部とも呼ぶべき裏の世界では有力な組織、三つ目鴉の三頭の一人、青は屋敷の中を歩いて行く。
この青が通される部屋はいつも決まっている。
玄関より入って左手にある大サロンを抜けた先の、やや小さな客間だ。
しかし小さいと言っても十畳ほどの広さで、シンプルながらも質の良い革張りの三人掛けソファーが対面して一つずつとローテーブル、植物が彫られた大きな飾り棚と数枚の陶磁器の飾り皿、鳥と花をモチーフにした彫刻のある洒落た暖炉、暖炉の前には窓辺はちょっとしたベンチになっておりクッションが並ぶ。爽やかな寒色で纏められた室内は夏の暑い中であっても涼しげだ。飾り棚の近くに置かれた小さな丸テーブルの上には青と白の花が活けてある。
先触れを出したからか、テーブルの上には茶請けの菓子が並ぶ。
居心地の好いソファーに腰かけて紅茶を嗜みながら暫し待っていれば、この屋敷の主人が姿を現した。
「待たせたな」
クロードの姿を見て青が立ち上がる。
「いえ、それほどではありません」
挨拶代わりに互いに軽く握手をして、席につく。
アランが紅茶を新しいものと交換して静かに部屋の隅に移動した。
クロードも青も、新しく淹れられた紅茶に口をつける。
テーブルにはスコーンやサンドウィッチ、一口サイズのケーキが乗ったケーキスタンドと取り皿も置かれているのだが、どちらも手をつける気配はない。
一杯の紅茶をゆったりと飲み、アランが二杯目を注ぐと、クロードが口を開いた。
「何故お前達が出て来る?」
クロードに届いた手紙には『今朝の新聞の件で相談したい』と書いてあった。
実は数日前にもクロードの下には手紙が来ており、その時には『とある慈善団体の記事が数日以内に新聞に載るので是非読んでみて欲しい』などというふざけた内容だったのだ。
だからこそ今回はその記事に目を向け、セナに調査をさせている。
そもそも三つ目鴉と慈善団体に繋がりがあるとは到底考えられない。
しかし青はカップをソーサーに戻すと軽く肩を竦めてみせた。
「向こうは三つ目鴉のことは知らないとは思いますが、表向きの仕事でいくつか協力しているのですよ。荷運びや粉挽き、店の従業員といったものはどうしても人手が足りませんので」
「いつの間にそんな方面まで……」
「小さな収入源でも数があればそれなりに稼げますから。此方は人手が、向こうは浮浪者が減らせて良い。持ちつ持たれつの関係ですね」
クロードのどこか呆れを含んだ視線を気にせず青が微笑を浮かべる。
実際、荷運びで人を派遣するのも潰れそうな粉挽き屋を買い取って続けさせるのも、利益は少ないが常に需要のある仕事なので少額でも安定して稼げるのだろう。
三つ目鴉の傘下にあるいくつかの店は人気があり、人手を補うのにあの団体は丁度良い。
ただ青に言わせれば浮浪者はある程度使い潰しの利く道具だ。
そのことはクロードも勘付いており、僅かに眉を寄せている。
「それで北方面は『小鳥の止まり木』から定期的に人を紹介してもらっていたのですが、最近、紹介してもらった者が忽然と姿を消してしまうことが多くて……」
困ったように軽く息を吐く青にクロードが淡々と返す。
「劣悪な環境で働かせたのか?」
「まさか。流石にすぐ壊してしまっては色々と面倒ですから、そこそこ良い環境を与えておりましたよ」
青が紅茶を飲み、やっとケーキスタンドのサンドウィッチへ手を伸ばす。
食べやすい大きさのそれには肉と野菜が挟んであり、昼食から大分時間が空いて小腹が空き始めた今時分には嬉しいものだった。
家政婦長特製のハーブソースが暑さで落ちていた食欲を戻してくれる。
それを一つ食べて青が続ける。
「それなのに急に仕事に来なくなるのです。住んでいる家の大家に聞いて、初めて、出て行ったことに気付くという状態なのです。しかも家賃の不払いもない。一度や二度ならば兎も角、もう何度も似たようなことが起こっているのは不自然だと思いませんか?」
二つ目のサンドウッチに手をつける青を前にクロードも考える。
家賃が支払えなくて夜逃げするというのはなくはないが、今回の場合はきちんと家賃を払っているというのだから不可解だ。
しかも働く環境も悪くなく、住む場所もある状態で、突然出て行くなどあるのだろうか。
人間は安定した状況があればそれを好むものだ。
わざわざそれらを捨ててまた元の苦しい生活に戻りたがるとも思えない。
余程酷い仕事でもさせたのかとも考えたものの、目の前にいる男が雇ったばかりの人間に鴉の内情が分かるほど重要な仕事を任せるはずもないと思い直す。重労働だったとしても先ほど言っていた通り即座に潰れてしまうような過酷なものでもなかっただろう。
だとすれば余計に首を傾げてしまう。
「確かに奇妙な話だな」
クロードの言葉に青が頷いた。
「そうでしょう? 此方としましても雇った人間に早々に辞められては困るのですよ。次まで間が空いてしまえば人手不足が解消出来ず仕事が捗らない。そうなると当然ですが利益も上がらない」
「だが逃げた者達を探す程度はお前達でも出来るだろう?」
三つ目鴉は裏ではかなりの権力を握っている。
伝手も多く、それらを使えばすぐにでも行き先が分かりそうなものだが。
けれども青は首を振って軽く息を吐いた。
「それがさっぱり分からないのです。目撃者もいなければ、同僚だった他の者も何も聞いていないと言うばかり。まさしくお手上げ状態でしてね」
「私に逃げた者を捕まえろと?」
「いえ、そのような雑事をアルマン卿にしていただく訳には参りません。出来ましたら行方を調べていただきたいのです。何故逃げたのか、契約を途中で放棄したのかも気になりますし、見付けてもらえたら後は此方で上手く回収致します」
ふむ、とクロードは考えた。
探し出して捕まえて欲しいと言うならば断わるが、探すだけならば構わない。
雇用主と雇用される側とは契約を結んでいるため逃げられるのは、雇用主側としては非常に不愉快であろうし、何故そうしたのか聞きたいと思うのも当然だ。
今はこれと言って急ぎの案件もなく、時間は充分にある。
「やれるだけやってみよう」
依頼を正式に受け入れたクロードに青が頭を浅く下げる。
「よろしくお願い致します」
「調査報告は随時送るが、必要な時は手を貸してもらうぞ」
「ええ、勿論。喜んでお手伝いさせていただきます」
顔を上げて相変わらず穏やかな表情を見せる青に、セナとは違った意味で厄介な男だとクロードは内心で小さく嘆息する。
手にしたティーカップを傾ければ紅茶の程好い渋みが口内に広がった。
その間に青はスコーンへと手を伸ばす。
細い見た目に反して食欲旺盛なのかよく食べる。だが食事の所作は美しく、見苦しさはない。
何とはなしに菓子を食べる青を見ていれば、クロードに観察されていることに気付いたのか手を止めて困った風に眉を僅かばかり下げた。
「ああ、申し訳ありません。頭を使う仕事が多いとつい甘いものが欲しくなってしまって」
それは分かるとクロードは鷹揚に頷いた。
「いや、これは来客のために用意されたものだ。気にせず食べるといい」
「ありがとうございます」
「私も仕事が多いとよくセナに甘いものを勧められるからな。分からんでもない」
そこで思い出した様子で青が目を瞬かせた。
「そういえば今日は彼がおりませんね?」
「この件で『小鳥の止まり木』を調査させている。お前の指定した幾つかの場所も見学してくるだろう」
「そうでしたか、もう動かれていらっしゃるとは流石ですね。……それに彼ならばあの見た目で警戒され難いでしょう」
「そういうことだ」
クロードもやっとサンドウィッチへ手を伸ばす。
静かなサロンで、ほど会話のないティータイムが過ぎていく。
そのまま菓子を楽しんだ青が帰ったのは一時間も後のことだった。
* * * * *
あれからリースさんと『小鳥の止まり木』の活動について話をした。
その流れで実際にどのような支援を行っているか見学へ出る。浮浪者へ安い家賃で部屋を提供している支援者達の下を幾つか回るため、馬車に乗って彼女の言う住所へ向かった。
出掛ける前に伯爵に聞いたが、手紙のやり取りの中で見学する場所は既に決まっているそうなので、わたしはただ連れて行ってもらうだけである。
まず一箇所目は共同住宅。まあ、シェアハウスだ。
馬車から先にわたしが降り、リースさんに手を貸して降りてもらう。
そこは団体が借りているのと似たような家だった。道路に面した部分は小さいが、ウナギの寝床のように奥へ長く、建物は三階建てで、玄関の脇に置かれた花壇を手入れしている老人がいる。
リースさんがその老人へ声をかけた。
「バイロンさん、こんにちは」
明るい声に釣られて振り返った老人が顔を綻ばせる。
「おお、ミレアじゃないか。……うん? 何だ、こんな良い馬車に乗って来おったのか?」
「今日はこちらのソークさんにうちの活動を見てもらおうと思って。送っていただいたの」
「そうか、そりゃあ羨ましい。儂も一度くらいは上等な馬車に乗ってゆっくり街を見て回りたいもんだ」
羨ましいと言うわりには何の陰りもなくカカカと笑う闊達とした気性らしい。
初老の男性は六十を少し過ぎたくらいか、背が高く、歳のわりに体格が良いので体を使う労働を昔は生業としていたのかもしれない。くすんだブラウンの髪には白髪が混じっている。
こちらへ向けられた視線にあまり堅苦しくなり過ぎない程度にお辞儀を返す。
貴族対応のガチガチな礼を取ると高慢な態度に見られ兼ねない。
「初めまして、セナと申します。突然の訪問、お詫び申し上げます。今日は主人に代わり見学させていただきたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」
「儂はバイロンじゃ。見てくのは構わんが……。驚いた、最近のお貴族様はこんな若いのを寄越すのかい?」
また年齢を勘違いされているので「こう見えて今年で十八歳ですよ」と訂正すれば、リースさんとバイロンさんの両方から驚きの声が上がる。
バイロンさんにはまじまじと見つめられた上に「どう見てもうちの孫より年下に見えるが本当に成人しとるのか……?」というお言葉まで頂戴したが、正真正銘生まれて十八年目である。
それに強く頷き返したら、すまなそうに家の中へ案内された。
外装は結構年代を感じさせるけれど、一度改装でもしたのか、中は掃除が行き届いて綺麗だ。淡いモスグリーンの壁と床より一メートルほどの高さである切り替えのダークブラウンの木目が落ち着いた雰囲気を感じさせる。
玄関から入って右手はバイロンさんの居住スペース、左手は厨房と小さな食堂があって、奥がトイレと階段。階段の下はちょっとした物置があるようだ。
「各自の部屋は別だが、家の中の掃除と朝夕の食事は儂が作っとる。そこの食堂で決まった時間に食べることになっておる。昼はそれぞれ仕事があるからな」
そんな、簡単だけど分かりやすい説明を聞きながら二階へ上がる。
二階はほぼ同じ間取りで二部屋あり、三階も同様らしかったが、バイロンさんによると三階にはトイレがないそうだ。二階と三階合わせて四部屋。その四部屋全てに今は同居人がいる。
「赤の他人が家に入ってくることは気にならないのですか?」
わたしがそう聞くとバイロンさんは首を振る。
「数年前に妻に先立たれてから一人で此処に住むには寂しかったからなあ。むしろ誰かいてもらった方が年寄り一人よりは安心だし、家賃ももらえるしで、儂は助かっとるよ。大勢で囲む食卓は楽しいぞ」
「なるほど」
「それにしてもお前さん、聞き難いことをズバッと聞くな?」
「御不快な思いをさせてしまったのであれば申し訳ございません」
頭を下げれば途中で止められる。
「いや、気にしとらんよ。分からないことや疑問を聞くってのは大切なことだ。お前さんの主人もそういう所を見込んで寄越したのかもしれんな」
各部屋を見ることは出来ないので、一階へ戻り、バイロンさんの話を聞く。
此処ではある程度、約束事を決めて生活しているという。
例えば夜に出掛ける時はバイロンさんに言っておくだとか、朝食や夕食の時間だとか、共同で使う食堂や廊下を汚したり私物を置いたりしないなどの比較的大雑把なものばかりだ。
それについて聞くと「男ばかりだから大雑把なくらいで丁度いいんだ」と言われた。
そこで一杯だけお茶を御馳走になり、次の家へ行くことにした。
セナが出掛けた後、伯爵邸の前に一台の馬車が停まった。
家紋もなく、質は良いが黒一色に塗られたその馬車から人影が降りる。
長いブルーブラウンを後ろへ撫で付け、細い目に銀縁の片眼鏡をかけた穏やかそうな顔立ちだ。黒に近い紺色のジレとアビ、キュロットはそこそこに質が良く、アビの襟には目立ちにくいが光沢のある黒い糸で刺繍された鴉が一羽いた。
紳士らしく杖を携えたその人物を執事のアランが出迎えた。
「ようこそお越しくださいました」
「いえ、此方こそ急な訪問を受け入れてくださり感謝しております」
どこか余所余所しく儀礼的な会話を交わす。
更に二、三言話してから「旦那様がお待ちしておりますので御案内させていただきます」と先導するアランについて、その人物――……闇市や花街のゴロツキなどこの王都の暗部とも呼ぶべき裏の世界では有力な組織、三つ目鴉の三頭の一人、青は屋敷の中を歩いて行く。
この青が通される部屋はいつも決まっている。
玄関より入って左手にある大サロンを抜けた先の、やや小さな客間だ。
しかし小さいと言っても十畳ほどの広さで、シンプルながらも質の良い革張りの三人掛けソファーが対面して一つずつとローテーブル、植物が彫られた大きな飾り棚と数枚の陶磁器の飾り皿、鳥と花をモチーフにした彫刻のある洒落た暖炉、暖炉の前には窓辺はちょっとしたベンチになっておりクッションが並ぶ。爽やかな寒色で纏められた室内は夏の暑い中であっても涼しげだ。飾り棚の近くに置かれた小さな丸テーブルの上には青と白の花が活けてある。
先触れを出したからか、テーブルの上には茶請けの菓子が並ぶ。
居心地の好いソファーに腰かけて紅茶を嗜みながら暫し待っていれば、この屋敷の主人が姿を現した。
「待たせたな」
クロードの姿を見て青が立ち上がる。
「いえ、それほどではありません」
挨拶代わりに互いに軽く握手をして、席につく。
アランが紅茶を新しいものと交換して静かに部屋の隅に移動した。
クロードも青も、新しく淹れられた紅茶に口をつける。
テーブルにはスコーンやサンドウィッチ、一口サイズのケーキが乗ったケーキスタンドと取り皿も置かれているのだが、どちらも手をつける気配はない。
一杯の紅茶をゆったりと飲み、アランが二杯目を注ぐと、クロードが口を開いた。
「何故お前達が出て来る?」
クロードに届いた手紙には『今朝の新聞の件で相談したい』と書いてあった。
実は数日前にもクロードの下には手紙が来ており、その時には『とある慈善団体の記事が数日以内に新聞に載るので是非読んでみて欲しい』などというふざけた内容だったのだ。
だからこそ今回はその記事に目を向け、セナに調査をさせている。
そもそも三つ目鴉と慈善団体に繋がりがあるとは到底考えられない。
しかし青はカップをソーサーに戻すと軽く肩を竦めてみせた。
「向こうは三つ目鴉のことは知らないとは思いますが、表向きの仕事でいくつか協力しているのですよ。荷運びや粉挽き、店の従業員といったものはどうしても人手が足りませんので」
「いつの間にそんな方面まで……」
「小さな収入源でも数があればそれなりに稼げますから。此方は人手が、向こうは浮浪者が減らせて良い。持ちつ持たれつの関係ですね」
クロードのどこか呆れを含んだ視線を気にせず青が微笑を浮かべる。
実際、荷運びで人を派遣するのも潰れそうな粉挽き屋を買い取って続けさせるのも、利益は少ないが常に需要のある仕事なので少額でも安定して稼げるのだろう。
三つ目鴉の傘下にあるいくつかの店は人気があり、人手を補うのにあの団体は丁度良い。
ただ青に言わせれば浮浪者はある程度使い潰しの利く道具だ。
そのことはクロードも勘付いており、僅かに眉を寄せている。
「それで北方面は『小鳥の止まり木』から定期的に人を紹介してもらっていたのですが、最近、紹介してもらった者が忽然と姿を消してしまうことが多くて……」
困ったように軽く息を吐く青にクロードが淡々と返す。
「劣悪な環境で働かせたのか?」
「まさか。流石にすぐ壊してしまっては色々と面倒ですから、そこそこ良い環境を与えておりましたよ」
青が紅茶を飲み、やっとケーキスタンドのサンドウィッチへ手を伸ばす。
食べやすい大きさのそれには肉と野菜が挟んであり、昼食から大分時間が空いて小腹が空き始めた今時分には嬉しいものだった。
家政婦長特製のハーブソースが暑さで落ちていた食欲を戻してくれる。
それを一つ食べて青が続ける。
「それなのに急に仕事に来なくなるのです。住んでいる家の大家に聞いて、初めて、出て行ったことに気付くという状態なのです。しかも家賃の不払いもない。一度や二度ならば兎も角、もう何度も似たようなことが起こっているのは不自然だと思いませんか?」
二つ目のサンドウッチに手をつける青を前にクロードも考える。
家賃が支払えなくて夜逃げするというのはなくはないが、今回の場合はきちんと家賃を払っているというのだから不可解だ。
しかも働く環境も悪くなく、住む場所もある状態で、突然出て行くなどあるのだろうか。
人間は安定した状況があればそれを好むものだ。
わざわざそれらを捨ててまた元の苦しい生活に戻りたがるとも思えない。
余程酷い仕事でもさせたのかとも考えたものの、目の前にいる男が雇ったばかりの人間に鴉の内情が分かるほど重要な仕事を任せるはずもないと思い直す。重労働だったとしても先ほど言っていた通り即座に潰れてしまうような過酷なものでもなかっただろう。
だとすれば余計に首を傾げてしまう。
「確かに奇妙な話だな」
クロードの言葉に青が頷いた。
「そうでしょう? 此方としましても雇った人間に早々に辞められては困るのですよ。次まで間が空いてしまえば人手不足が解消出来ず仕事が捗らない。そうなると当然ですが利益も上がらない」
「だが逃げた者達を探す程度はお前達でも出来るだろう?」
三つ目鴉は裏ではかなりの権力を握っている。
伝手も多く、それらを使えばすぐにでも行き先が分かりそうなものだが。
けれども青は首を振って軽く息を吐いた。
「それがさっぱり分からないのです。目撃者もいなければ、同僚だった他の者も何も聞いていないと言うばかり。まさしくお手上げ状態でしてね」
「私に逃げた者を捕まえろと?」
「いえ、そのような雑事をアルマン卿にしていただく訳には参りません。出来ましたら行方を調べていただきたいのです。何故逃げたのか、契約を途中で放棄したのかも気になりますし、見付けてもらえたら後は此方で上手く回収致します」
ふむ、とクロードは考えた。
探し出して捕まえて欲しいと言うならば断わるが、探すだけならば構わない。
雇用主と雇用される側とは契約を結んでいるため逃げられるのは、雇用主側としては非常に不愉快であろうし、何故そうしたのか聞きたいと思うのも当然だ。
今はこれと言って急ぎの案件もなく、時間は充分にある。
「やれるだけやってみよう」
依頼を正式に受け入れたクロードに青が頭を浅く下げる。
「よろしくお願い致します」
「調査報告は随時送るが、必要な時は手を貸してもらうぞ」
「ええ、勿論。喜んでお手伝いさせていただきます」
顔を上げて相変わらず穏やかな表情を見せる青に、セナとは違った意味で厄介な男だとクロードは内心で小さく嘆息する。
手にしたティーカップを傾ければ紅茶の程好い渋みが口内に広がった。
その間に青はスコーンへと手を伸ばす。
細い見た目に反して食欲旺盛なのかよく食べる。だが食事の所作は美しく、見苦しさはない。
何とはなしに菓子を食べる青を見ていれば、クロードに観察されていることに気付いたのか手を止めて困った風に眉を僅かばかり下げた。
「ああ、申し訳ありません。頭を使う仕事が多いとつい甘いものが欲しくなってしまって」
それは分かるとクロードは鷹揚に頷いた。
「いや、これは来客のために用意されたものだ。気にせず食べるといい」
「ありがとうございます」
「私も仕事が多いとよくセナに甘いものを勧められるからな。分からんでもない」
そこで思い出した様子で青が目を瞬かせた。
「そういえば今日は彼がおりませんね?」
「この件で『小鳥の止まり木』を調査させている。お前の指定した幾つかの場所も見学してくるだろう」
「そうでしたか、もう動かれていらっしゃるとは流石ですね。……それに彼ならばあの見た目で警戒され難いでしょう」
「そういうことだ」
クロードもやっとサンドウィッチへ手を伸ばす。
静かなサロンで、ほど会話のないティータイムが過ぎていく。
そのまま菓子を楽しんだ青が帰ったのは一時間も後のことだった。
* * * * *
あれからリースさんと『小鳥の止まり木』の活動について話をした。
その流れで実際にどのような支援を行っているか見学へ出る。浮浪者へ安い家賃で部屋を提供している支援者達の下を幾つか回るため、馬車に乗って彼女の言う住所へ向かった。
出掛ける前に伯爵に聞いたが、手紙のやり取りの中で見学する場所は既に決まっているそうなので、わたしはただ連れて行ってもらうだけである。
まず一箇所目は共同住宅。まあ、シェアハウスだ。
馬車から先にわたしが降り、リースさんに手を貸して降りてもらう。
そこは団体が借りているのと似たような家だった。道路に面した部分は小さいが、ウナギの寝床のように奥へ長く、建物は三階建てで、玄関の脇に置かれた花壇を手入れしている老人がいる。
リースさんがその老人へ声をかけた。
「バイロンさん、こんにちは」
明るい声に釣られて振り返った老人が顔を綻ばせる。
「おお、ミレアじゃないか。……うん? 何だ、こんな良い馬車に乗って来おったのか?」
「今日はこちらのソークさんにうちの活動を見てもらおうと思って。送っていただいたの」
「そうか、そりゃあ羨ましい。儂も一度くらいは上等な馬車に乗ってゆっくり街を見て回りたいもんだ」
羨ましいと言うわりには何の陰りもなくカカカと笑う闊達とした気性らしい。
初老の男性は六十を少し過ぎたくらいか、背が高く、歳のわりに体格が良いので体を使う労働を昔は生業としていたのかもしれない。くすんだブラウンの髪には白髪が混じっている。
こちらへ向けられた視線にあまり堅苦しくなり過ぎない程度にお辞儀を返す。
貴族対応のガチガチな礼を取ると高慢な態度に見られ兼ねない。
「初めまして、セナと申します。突然の訪問、お詫び申し上げます。今日は主人に代わり見学させていただきたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」
「儂はバイロンじゃ。見てくのは構わんが……。驚いた、最近のお貴族様はこんな若いのを寄越すのかい?」
また年齢を勘違いされているので「こう見えて今年で十八歳ですよ」と訂正すれば、リースさんとバイロンさんの両方から驚きの声が上がる。
バイロンさんにはまじまじと見つめられた上に「どう見てもうちの孫より年下に見えるが本当に成人しとるのか……?」というお言葉まで頂戴したが、正真正銘生まれて十八年目である。
それに強く頷き返したら、すまなそうに家の中へ案内された。
外装は結構年代を感じさせるけれど、一度改装でもしたのか、中は掃除が行き届いて綺麗だ。淡いモスグリーンの壁と床より一メートルほどの高さである切り替えのダークブラウンの木目が落ち着いた雰囲気を感じさせる。
玄関から入って右手はバイロンさんの居住スペース、左手は厨房と小さな食堂があって、奥がトイレと階段。階段の下はちょっとした物置があるようだ。
「各自の部屋は別だが、家の中の掃除と朝夕の食事は儂が作っとる。そこの食堂で決まった時間に食べることになっておる。昼はそれぞれ仕事があるからな」
そんな、簡単だけど分かりやすい説明を聞きながら二階へ上がる。
二階はほぼ同じ間取りで二部屋あり、三階も同様らしかったが、バイロンさんによると三階にはトイレがないそうだ。二階と三階合わせて四部屋。その四部屋全てに今は同居人がいる。
「赤の他人が家に入ってくることは気にならないのですか?」
わたしがそう聞くとバイロンさんは首を振る。
「数年前に妻に先立たれてから一人で此処に住むには寂しかったからなあ。むしろ誰かいてもらった方が年寄り一人よりは安心だし、家賃ももらえるしで、儂は助かっとるよ。大勢で囲む食卓は楽しいぞ」
「なるほど」
「それにしてもお前さん、聞き難いことをズバッと聞くな?」
「御不快な思いをさせてしまったのであれば申し訳ございません」
頭を下げれば途中で止められる。
「いや、気にしとらんよ。分からないことや疑問を聞くってのは大切なことだ。お前さんの主人もそういう所を見込んで寄越したのかもしれんな」
各部屋を見ることは出来ないので、一階へ戻り、バイロンさんの話を聞く。
此処ではある程度、約束事を決めて生活しているという。
例えば夜に出掛ける時はバイロンさんに言っておくだとか、朝食や夕食の時間だとか、共同で使う食堂や廊下を汚したり私物を置いたりしないなどの比較的大雑把なものばかりだ。
それについて聞くと「男ばかりだから大雑把なくらいで丁度いいんだ」と言われた。
そこで一杯だけお茶を御馳走になり、次の家へ行くことにした。
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