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# The ninth case:The voice that the devil tempts.―悪魔の囁き―
言、十。
しおりを挟むわたしが何度も息を吐いていたからか、カーラさんが「お屋敷へ戻ったらもう一度お茶に致しましょう」と気遣ってくれたので頷く。
実は侯爵家ではあまり菓子やお茶に手を付けなかった。
悩みがあって食欲が落ちている風を装う目的もあったが、それ以上に、もしも薬を飲み物や食べ物に混ぜられていたらと思うとあまり口にしたくなかったのだ。過剰な防衛だと笑われても仕方がない。
ただ依存性のある薬は経口摂取してしまうことは避けたかった。
幸い、紅茶にもお菓子におかしな点はなく、何の混ぜ物もされていないと分かった時は安心した。
ガタゴトと揺れる馬車の中で考える。
そこまで必死にではないのか、お香でも充分と思ったのか。
だとしたらお香は絶対に焚かないでいよう。うっかりこちらが依存してしまっては元も子もない。
暫く馬車に揺られ、カーテンの隙間から伯爵家の屋敷が見えたら肩の力が抜けた。
馬車は門を潜って敷地に入る。やがて停まると御者の声がした。
ややあって扉が開かれたのでカーラさん、わたしの順に降りる。
玄関を潜ればアランさんがそこにいた。
「ただいま戻りました」
アランさんが目元を僅かに和ませて礼を取る。
「お帰りなさいませ」
「クロード様はどちらにいらっしゃいますか?」
「今でしたら書斎におられるかと存じます」
「そう、ありがとう」
セラフィーナの格好をしている時のわたしは貴族の女性だ。
だから使用人達も客人のように扱う。
脱いだローブはメイドが持って行った。
変な気分のまま玄関ホールの階段を上がり、後ろにカーラさんを連れて二階の廊下を歩いて行く。
伯爵の自室に立ち寄ってみれば今日はアルフさんがおり、小サロンで待つように言われ、先にそちらへ向かう。カーラさんはわたしにバッグを渡すとお茶の用意のために席を外した。
暫しの間を置いて扉が四度叩かれる。
「どうぞ」
声をかければ、開かれた扉から伯爵が姿を現した。
ドレスのままのわたしを見て目を瞬かせる。
「てっきり着替えて来たかと思っていたが……」
まあ、動き難いし、フリルだのレースだのリボンだのと個人的にはファンシーでちょっと苦手なのだけれど、脱ぐには脱ぐで面倒臭いのでこのままにしてる。
伯爵が正面のソファーに腰掛けた。
今日の伯爵の側仕えらしいアルジャーノンさんが黙ってその後ろに立つ。
「時間が惜しかったので」
また扉が叩かれ、入室したカーラさんは手早く二人分の紅茶を淹れ、茶菓子を出すと脇へ下がる。
互いに紅茶に口を付けて気分を落ち着けたところで切り出した。
バッグより取り出した小袋をテーブルの上に置く。
「ウィットフォード侯爵夫人よりいただきました『不安や苦しみを消してくれるお香』だそうです」
伯爵がティーカップとソーサーをテーブルに戻し、代わりにその小袋を手に取った。
橙色の紐を解いて口を開き、中身をテーブルの上へ出す。
小さく折られた薬包紙が五つ。それから折り畳まれたメッセージカード。
カードには使用上の注意と伯爵には気付かれないようにという言葉が綴られていた。
薬包紙を一つ掴んだ伯爵は慎重にそれを開けた。中には白い粉を固めた三角錐の形をしたものが入っており、これがそのお香らしい。使用に関しては上に火を点けて煙を出させるそうだ。
お香に伯爵が顔を寄せて、小さくスンと匂いを嗅ぎ、指先で固められたお香の表面を撫でて付着した白い粉の指触りを確かめる。そしてそれを僅かに舐めた。すぐに紅茶を口に含むと安価な生地のハンカチに吐き出し、それを捨てる。
「大丈夫なのですか?」
「ああ、毒や薬物などある程度のものは味を覚えるために慣らされている。これも体に害のない範囲で何度か口にしているし、そもそも飲み込みはしない」
「それはそうですが……」
飲み込まなくても多少は体内に吸収されてしまうだろう。
それに毒や薬物に慣らされているなんて初めて聞いた。伯爵が然もないことのように言うので、多分貴族社会ではこういうのは当たり前なのかもしれないが、ちょっと不安だ。
「これは間違いなく『幸福』だな。恐らく嵩増ししたものだろう。女性向けにハーブや花の花弁を混ぜてある」
差し出されたそれを受け取り、同様に鼻を近付けて匂いを嗅いでみた。
ラベンダーだろうか? やや強い花の甘い香りだ。人によっては気にならない程度だが、わたしの鼻は思い切り花独特の甘みを嗅ぎ取って気分が悪くなりそうだった。このお香を焚くのは絶対にないな。
顔を引き離して伯爵へお香を返す。
「残りはリーニアスに調べてもらうが構わないな?」
「ええ、勿論ですわ。わたしは数日したら夫人に手紙を出します。お香の感想と、もっと欲しいという旨を書いて送ればよろしいでしょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
薬包紙を全て持ち、空になった袋だけが手元へ戻って来た。
薬物なんて持っていても困るので引き取ってもらえるのはありがたい。
温かな紅茶を飲んでいれば、アルジャーノンさんに薬包紙を預けた伯爵が「それで? 茶会はどうだった?」とわたしへ問うてくる。
純粋に、初めてのお茶会の感想を聞きたがっているらしい。
わたしも特に隠す必要がないので、感じたままに話すことにした。
「作法にあまりうるさくない方ばかりでとても助かりました。皆様、所作も美しくて、お優しいのでお話も楽しかったです。でもこの薬を『貴女を助けたいの』と渡されて、女性は恐ろしいなとも思いましたわ」
優しそうな人が本当に優しいとは限らない。
親切そうな人だからといって相手のことを考えているとは限らない。
裏と表の顔を綺麗に使い分けている人達だった。
「女性に限らず貴族とはそのようなものだ」
「お蔭でお茶もお菓子もあまり喉を通りませんでした」
「図太いお前にしては珍しいな」
わたしだって緊張もすれば何かを怖がりもする。普通の人間だ。
紅茶をもう一度手に取る。屋敷で飲むお茶が一番ホッとした。
* * * * *
伯爵はあの後すぐさま薬を殿下へ送った。
二日後には報告を伝えに伯爵家に本人がやって来た。
報告というのは建前で伯爵の顔を見に来ているだけに思えるのは、リーニアス殿下が伯爵の顔を見るととても嬉しそうに笑うからだ。手紙で済ませられるものをわざわざ自ら持ってくるのだし、そういう部分はあるだろう。
今回もお忍びだけれど先触れが出されていたので混乱も伯爵の怒りもなく、チャリスさんと共にまた髪を染めていた。今日もちょっと良いところの坊ちゃんみたいな恰好であるが前回と衣装が異なった。
そしてサロンに入って第一声がこれだった。
「おや、今日は麗しい花が見当たらないね。セナ君、君の妹はクロードが隠してしまったのかな?」
つくづく伯爵をからかって遊ぶのが好きらしい。
今日のわたしは近侍の格好をしていたのだ。セラフィーナではない。それについて言及しているのだろう。殿下はセラフィーナのわたしの方が好きなのだろうか?
「くだらないことを言っていないでさっさと座れ」
と、伯爵に言われても笑みは崩れなかった。
リーニアス殿下はそのぞんざいな扱いにどこか楽しげにソファーへ腰を下ろす。
メイドがサービスワゴンを押して入室し、手早く紅茶を淹れて、ケーキスタンドなどの用意を済ませると退室した。その足音が遠ざかって聞こえなくなてから殿下が口を開く。
「申し訳ないが世間話は抜かさせてもらうよ。……あれは確かに『幸福』だった。混ぜ物の入った粗悪品だったけれどね」
「やはりそうか。夫人は完全に黒だな。それでは予定通りセラフィーナに手紙を書かせ、売人に紹介させるか?」
「いや、手紙は送ろう。ただし次に会うのは夜会にすれば良い。売人には入れない場所だからね、公爵と夫人に直接ジンデル卿を紹介してもらう方が無駄がない」
「分かった」
顔を突き合わせて話し合う伯爵とリーニアス殿下は淡々としている。
こういう時、この二人は非常に雰囲気が似て、兄弟のようなのだ。従兄弟同士だから顔付や背格好が似ても不思議はないが「本当に血の繋がりがあるのだな」と思うのだ。
会話の途切れたところを見計らって小さく挙手する。
「リーニアス殿下、よろしければ妹に『幸福』の効能や症状についての資料をお貸しいただけないでしょうか? 手紙を書く上で真実味を持たせたいと申しておりました」
お香の匂いを嗅いだだけでは効能や現れる症状までは分からない。
リーニアス殿下はわたしの申し出を快く了承してくれた。
「ああ、そうだね、詳しい報告書があるから後で届けさせよう」
「ありがとうございます。それともう一つ、仕事のために必要なものがあるのですが……」
あまり曖昧にぼかしては使ったかどうか怪しまれてしまうし、手紙には出来る限り詳細な感想を書いて送りたい。使用した際の症状などが一致すれば夫人にも疑われずに済む。
後はどういう薬物なのかという興味もある。
使いたいとは絶対に思わないけれど、知っておいても損はない。
ついでに欲しいものをそっと耳打ちすると、とても愉快なことを聞いたという顔で殿下は頷いた。
「分かった、それはすぐに用意しよう。妹君の手紙にはお茶会ではなく夜会で会いたいと書いてもらえるかい? 社交界デビューに丁度良く、夫人が出席するところへ行きたいと言えば、ウィットフォード卿と夫人がジンデル卿に繋ぎをつけてくれるから招待状をもらえるだろう」
「畏まりました」
「ああ、夜会には私も変装して出席するよ。セラフィーナ嬢とクロードのダンスは楽しみにしているからね。妹君にも頑張って練習して欲しいと伝えてくれ」
からかいと好奇心の覗くエメラルドの瞳と視線が絡む。
その言葉はただの応援のようにも、わたしの力量を試しているようにも聞こえた。
何より、失敗は許さないと言外に宣言された気がした。
「はい、必ず伝えます」
だからそのエメラルドを真っ直ぐに見つめ返した。
ココで逸らしてはいけないと思う。それはわたしの負けみたいで嫌だ。
リーニアス殿下の口元が可笑しそうに弧を描き、機嫌が良くなるのが分かった。
どうやら今のわたしの反応はお気に召したらしい。
紅茶を飲み、少し菓子を摘まんでからリーニアス殿下は去って行った。
パッと現れてパッと去る。しかも去る時は素早い。見送りのために外へ出たが、あっという間に消えていった馬車の方向を眺めながら頭の中に「立つ鳥後を濁さず」という言葉が浮かんだ。
そうして殿下が言った通り『幸福』に関する研究資料が一時間ほど後に届けられた。
資料はまるで本のような厚みだったため、伯爵の書斎で読ませてもらったが全てに目を通すのに一日を要してしまった。これでも簡単に纏めたものなのだろう。内容自体は薬の特徴や症状、使用時の気分の動きなどが細かく書かれていて分かりやすかった。
この『幸福』は苦味や渋みのある植物の根や葉が原料だそうだ。特に細かく刻み、水に一晩さらして沈殿させた――片栗粉の精製と同じだ――根の粉は効き目が強く、依存性が高い。逆に葉を粉にした方は効き目も依存性も弱い。しかし葉は煙草にして直接煙を吸うとそれなりに効能がある。渡されたお香は砕いた葉を花の香と混ぜ合わせたものだった。葉の方は何度か繰り返し使用しないと依存性が現れない。
症状は幾つかの段階に分かれる。
まず初期段階では病や怪我による痛みの軽減、気分の浅い高揚、心労の解消といったものだ。
次の段階で多幸感、眠気や食欲の減退、気分の高揚による疲労感の消失、血圧や体温の上昇、瞳孔の開き、落ち着きがなくなる、薬物が切れると異常に気分が落ち込み不安や孤独感が増す。
そして最終的には薬が手放せなくなり、幻覚や幻聴、体中を虫が這い回るような感覚を覚えるという。
例の喉を掻き毟って亡くなった令嬢は恐らく末期の症状だったのだろう。
貴族の女性は虫などとは無縁なので、全身を虫が這い回る感触はさぞや気持ちが悪く恐ろしいものだったに違いない。幻覚のせいで本当に虫がいると思って必死に喉を引っ掻いた。そして死んだ。
葉を砕いた香はすぐに依存性が出る訳ではないものの、数度使用すれば症状が現れる。
今回、薬包紙を五つ渡されたのはそういうことだ。全て使えば薬の効能として依存性が現れ始め、また欲しいと思わせる量なのだと思う。お香というが実際は部屋に漂う煙を吸うので煙草とそう違いはない。
気付かぬうちに薬物依存の出来上がりという寸法だ。
翌日、カーラさん監修の下でユミエラ様に宛てた手紙を書く。
さっそく使ってみたら良い香りに不安な気持ちが和らぎ元気が出た、気分が良くなった、少し元気になった自分を見てクロード様もホッとしていた。日に一度使っているけれど香りを嗅ぐと心が軽くなる。素晴らしいお香をくれてありがとう。出来ればこのお香を自分も購入したい。
まあ、そんな感じの内容を季節の挨拶から始まった手紙に織り込んで送る。
お香を焚きながら書いたと思わせるために、伯爵から残ったお香を借りて、それを手紙に少しだけ擦り付けた。落ちた粉を払って匂いを嗅げばラベンダーのような花の匂いが良い塩梅に仄かに香る。
返事はすぐに返って来た。季節の挨拶と少しの世間話の後に、お香を気に入ってもらえて良かった、良ければまたお茶会を開いてお香を取り扱っている商人を紹介しようかという問いかけだった。
それに近々どこかの夜会で社交界デビューをしたいので、あまり人が多過ぎない、夫人の出席する夜会でもう一度会いたい旨を伝える。夫人がいれば安心して出席出来ることと、その時にお香の値段や買う方法も知りたいと綴って返す。
またすぐに返ってきた手紙には、それならば丁度良い夜会がジンデル伯爵家で催されるのでそちらで会いましょうと書かれていた。御丁寧にジンデル卿に繋ぎをつけてくれるともあった。
数日後には本当にジンデル伯爵家からクロードとセラフィーナ宛ての招待状が届いたので、あまりに上手く事が進み過ぎて怖いくらいだったが、腹を括ってそれぞれに感謝と出席の意を綴った手紙を送る。
夜会の日まではまだ二週間ほどある。
リーニアス殿下に言われた以上、ワルツの一曲くらいはきっちり踊れるようにしなければ。
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