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# The ninth case:The voice that the devil tempts.―悪魔の囁き―
言、三つ。
しおりを挟む伯爵の横顔をジッと見つめれば、それに気付いた伯爵がチラとこちらを見て眉を寄せた。
物凄く嫌そうな顔をして視線を逸らしたがわたしはめげずに伯爵の横顔を凝視する。
十数秒から一分ほど無言の攻防が続き、そして、伯爵が言う。
「囮は使わんぞ」
「何故でしょうか? このような事件こそ囮で効果的に犯人を釣るべきでは?」
「その囮は誰がやる?」
「当然、言い出したわたしが行うのが筋というものです」
「ダメだ。意味を理解しているのか? 囮になるということは、場合によっては取引の段階で『幸福』を吸う可能性もあるんだぞ?」
「存じております。ですが、わたし一人が少し危険を冒すだけで薬物の売人を捕らえることが出来れば、今後この薬物にて苦しむ人々は減ります。わたしの命と大勢の命、どちらを天秤にかければ良いかは考えるまでもありません」
「馬鹿者、大ありだ! お前は何時も己の身を軽んじるが――……」
不意にプッと吹き出す音が二つ響く。
顔を上げれば女王陛下とリーニアス殿下がそれぞれ小さいながらも声を上げて笑っていた。
ああ、まずい、お二人の前なのに何時もの調子で伯爵と言い合いをしてしまった。
伯爵が更に不機嫌そうに眉を顰めて腕を組み、そっぽを向く。
「失礼致しました」
お二人に頭を下げれば、リーニアス殿下に手で制される。
そうして殿下は伯爵へ顔を向けた。
「いや、良いものを見させてもらったよ。まさかクロードがこうもムキになるとは」
「なっていない」
「なってるじゃないか。第一、セナ君を囮にしたことが何度かあったとお前自身の口から聞いたぞ? 今更何を気にしているんだい?」
「それは……」
伯爵が言い淀むのは珍しく、ブルーグレーがわたしを見遣る。
わたしは何となくアレが関係しているのかなと思った。
そうだとしたら嬉しくない。むしろ嫌だし不愉快だ。
思わず伯爵から視線を逸らしてしまう。
「あら、何か事情があるみたいね。此処は一度、お互い頭を冷やすべきよ」
女王陛下の言葉に伯爵もわたしも頷いた。
多分、今は伯爵の顔を見て冷静には話せない。
「ではブライアン、セナ君にギャラリーでも案内してきてくれるかい?」
「畏まりました」
頷いたわたし達を見たリーニアス殿下が従者へそう言った。
そしてその従者の視線に促されて場を離れることにする。
「御前を失礼させていただきます」
女王陛下に「ええ、また後で」と声をかけられ、退室した。
部屋を出る一瞬、伯爵が此方を見たような気がしたけれど、扉を閉めてしまったのでそうであるかどうかの確認は出来ない。そのまま控えの間か応接室らしき部屋を抜けて廊下へ出る。
従者が「此方です」と歩き出したのでそれへついて行く。
廊下を歩きながら考える。
どうにも、あの日以降、伯爵との関係がギクシャクしてしまっている。
嫌いになったとか、気を遣ってるとか、そういうのではない。
何と言うか、お互いにお互いの腹の内が分からなくて探るような感じなのだ。
一年と数ヶ月の間、ほぼ毎日を共に過ごしてきて伯爵の考え方や行動を少しくらいは理解しているつもりだったが、今は伯爵が何を思っているのか全く掴めない。
それが怖い。でも伯爵の思いを知るのも怖い。
やはり教会に行けと言われたら?
そう考えるだけで血の気が引く。
伯爵家はわたしにとって『全て』と言っても良い場所だ。
同僚も、友人も、可愛い弟分もいて、そこは職場でもあり家でもあり、わたしの居場所があって……――――そして伯爵がいる。他人から見ればあまりにも狭い世界だろうけれど、安心して過ごせる場所は伯爵家を置いて他にはない。
それこそ、伯爵自身に追い出されない限り、居続けたい。
「此方がギャラリーとなっております」
その声にふっと思考が途切れる。
目の前の背についてぼんやり歩いている間に到着したらしい。
軽く頭を下げて礼を述べてから扉を潜る。
「うわあ……」
視界いっぱいに広がる室内に感嘆の声が漏れてしまった。
ギャラリーという名に相応しい、様々な絵画や壷などの美術品が並んでいた。どれもこれも素人目にも高そうだと分かる代物ばかりで、ギャラリーに入ってすぐで足が止まってしまう。
「どうかされましたか?」
「その、わたしは美術品には疎いのですが、ココに飾られた物が全て高価だということは分かります。それで、あまり近付いてもしものことがあったらと思うと怖くて……」
正直に白状すれば殿下の従者は吹き出した。
「失礼……」と言いながらも笑いは収まらないようだ。
あまりにも笑うのでわたしはまじまじとその男性を見た。茶の混じったくすんだ金髪に青い瞳の従者は整った顔立ちである。リーニアス殿下や伯爵の中性的な美しさとは違い精悍な顔付きで、それまで少し強面だと感じていたものが笑うと途端に少年みたいに幼く見えた。
……この人も女性に人気がありそうだなあ。
リーニアス殿下や伯爵は言うなれば美青年で、この従者はどちらかと言えば美丈夫だ。
「……申し訳ありません。ああして柵を設けてあるので大丈夫ですよ」
わたしが少々不躾な視線を向けていることに気付いて従者が一つ咳払いをして取り繕う。
まあ、いいけどさあ。どうせ庶民的な感覚しか持ってないし、実際そうだし。
「でも不安なので離れたところから見ても構いませんか?」
「ええ、お好きなように御覧ください」
という訳で、わたしは柵に触れず、万が一転んでも問題なさそうな通路のド真ん中を陣取って歩く。
そもそも柵はポールに紐をかけた程度のもので触ったらあっさり倒れるだろう。倒れたポールがぶつかったり、紐が引っかかったりしたらどうなるか考えるだけでも恐ろしい。弁償出来ないぞ。
通路のド真ん中から左右を眺めるわたしの後ろに殿下の従者も続く。
後ろから空気の揺れる感じがあるので恐らく声を出さずに笑っている。
「笑いたければ声に出してくださって結構ですよ。こういう時は我慢される方が嫌なので」
僅かに棘を含ませて振り返らずに言えば背後から咳払いがまたした。
「すみません。貴方は他国の貴族の出だと聞いておりましたので、まさかあのような心配をするとは思いもよらなかったのです」
……ああ、そういえば伯爵が入国申請書にそんなようなことを書いていたっけ。
「我が家は清貧を尊ぶと言えば聞こえは良いですが、美術品を幾つも買って並べられるほど裕福ではありませんでした」
もっと言えば小遣いが欲しくてアルバイトもしていたけれど。
別に貧しい家でも、裕福な家でもなく、ごく一般的な家庭だったと思う。
元の世界での日常を思い出して少し切なくなった。
「祖国に帰りたいと思いますか?」
狙ったような問いかけに苦笑が漏れる。
「帰りたくとも帰れないのですよ」
視線を美術品に向けたまま考える。
きっと今、伯爵は女王陛下とリーニアス殿下にわたしのことを説明しているだろう。
それは必要なことだと理解してる。もしも教会が王家を通じてわたしを差し出せと言って来た時、女王陛下が何も知らなければ伯爵に王命が出されるかもしれない。
ならば最初から事情を説明してあった方が良い。
王家に取り込まれる可能性も考えられるけれど、現状、既に王家の血筋である伯爵家にいるのでわざわざ取り込む必要などない。むしろ使徒かもしれないわたしを教会に渡せばあちらの権威が王家を大幅に上回ってしまう。
ただでさえ国教は影響力が大きいのだ。これ以上強くさせるのは悪手だと思う。
この従者はリーニアス殿下が傍仕えにするほど信を置いている。
伯爵の話を殿下を通じて知るか、わたし本人から聞くかの違いしかない。
例え伯爵が話していなかったとしても、この話が殿下を通じて女王陛下に届き、わたしの意思が多少なりとも伝わればそれでいい。
「馬鹿なことをとおっしゃられるかもしれませんが、わたしはこの世界の人間ではありません」
「それはどういう……」
案の定、訝しげな声音に問い返されて振り返る。
わたしの容姿が見えるように両手を広げて笑いかける。
「黒髪に黒に近い瞳、肌は黄色みを帯び、顔立ちは年齢を問わず幼く、若々しい姿」
笑みが自嘲に変わるのが自分でも分かった。
本当はこれを一番最初に打ち明けるのは伯爵にしたかった。
「お前は異なる世界から来たのか」と一言問われれば、わたしは躊躇いなく「はい」と答えただろう。
あんなことがあったにも関わらず伯爵はわたしに何も問わず、それが余計に不安を掻き立てる。
「女神によって、神々の世界より七人の黒を纏いし使徒が遣わされた」
訝しげな青い瞳がハッと驚愕に見開かれる。
あの時、伯爵もこんな顔をしていたのだろうか。
「……使徒の瞳は深淵の如き色をし、その深き知識により心を覗き込まれるために人々は畏敬の念を抱いた……」
伯爵が以前教えてくれたものを目の前の従者が口にする。
揺れた青い瞳に浮かぶのは疑念か、畏敬か、それとも拒絶なのか。
それを問う勇気はわたしにはなかった。
「これは教会の神父様に指摘されたので事実かと。実際、わたしの故郷はこの世界には存在しません。しかしわたしは使徒ではありません。同郷であるのかも分かりません。そしてそれらの真偽に関係なくわたしは伯爵家にいたいと望んでいます」
出来れば使徒でも同郷でもないと良いのだけれど、外見的特徴の一致を考えると否定する方が難しい。
「……教会に行けば働かずとも何不自由ない暮らしが出来るでしょう」
みんな、同じことを言うんだな。
確かに何不自由なく生きていけるかもしれない。
でもそこに本当に自由はあるのだろうか?
生活面の不自由はなくとも教会に縛られてしまうのでは?
「あなたがもし、わたしと同じ立場にあれば教会へ行きますか?」
「いいえ、私はリーニアス殿下にお仕えすると決めています」
「そうでしょう。……どこの馬の骨とも知れぬ者を拾い、居場所を、存在意義を与えてくださった方に恩をお返ししたい。わたしがこうして笑って生きていられるのは旦那様のお蔭なのです。わたしが伯爵家を離れるのは、追い出された時か、死んだ時。そう、わたしも決めているのですよ」
流石に面と向かって伯爵にココまで言うことはない。
気恥ずかしいし、生真面目な性格だから重く受け取られるのも嫌だ。
それでもこれは紛うことなきわたしの意思で、願いだ。
「何故、私にこのような重要な話をしたのですか?」
どこか警戒する従者にわたしは広げていた手を下ろす。
隠すことも、警戒されるようなことも何もない。
「今頃、旦那様は女王陛下とリーニアス殿下にもわたしの事情を話していることでしょう。もし話していなくとも、あなたを通じてお二人にわたしの事情と意思が伝わればそれで良いのです」
「私が他言するかもしれませんよ」
「その時はわたしの見る目がなかったと諦めます。しかし、あなたは側に控えさせるほどリーニアス殿下に信頼されていらっしゃる。殿下が信を置く方をわたしも信じます」
従者が困ったような、してやられたという顔で首を緩く振った。
「……殿下の名を出されては他言など出来るはずもない。なるほど、確かに貴方はアルマン卿が言った通りの人物ですね」
それはどんな内容だったのだろう。
性質が悪い、腹黒い、捻くれ者、狡賢い、我が強い……。
何だって良い。第三者がわたしを見て伯爵の言う通りだということは、それだけ伯爵がわたしを理解しているということだ。好きな相手が自分を分かってくれているのは嬉しい。
「だからどうか、わたしから伯爵家を奪わないでください。特別視しないでください。わたしはセナという一人の、異国生まれのただの人間なのですから」
「分かりました。そうお伝えしましょう」
「ありがとうございます」
心からの感謝を伝えるために頭を精一杯下げた。
そんなわたしに従者が正式な礼を取る。
「そういえば名乗っておりませんでしたね。私はブライアン・メイナード=チャリスと申します。光栄なことに、リーニアス殿下の側仕えに任じられております。……部下と護衛も兼ねていますが」
その自己紹介に顔を上げたわたしも同じく礼を返す。
「わたしこそ名乗り遅れてしまいました。セナ・シェパード=ソークと申します。幸いなことに、アルマン伯爵家にて近侍を務めさせていただいております。……旦那様の仕事上では助手も兼ねています」
その言葉を言い終え、顔を見合わせたわたし達はどちらからともなく吹き出した。
この人ならきっと大丈夫だ。
最初に打ち明ける人間が伯爵ではないことに感じる、一抹の寂しさとも悲しさともつかない気持ちにフタをする。この気持ちはわたしの我が儘だ。
ギャラリーを一通り見終え、従者――……チャリスさんの案内で元来た道を戻る。
やっぱり覚えきれない道順で廊下を歩き、女王陛下達のいる部屋に着く。
チャリスさんが扉を叩けば最初と同じく侍女が顔を覗かせ、中へ招かれた。控えの間だか応接室だかを抜けて侍女がもう一つの扉を叩き、そちらの部屋の侍女が出て来てチャリスさんを見ると扉を開けた。
丁度、こちらも話が終わったのだろうか。
室内にいる人々の視線が部屋を出る時と今とでは違うことを肌で感じた。
伯爵はバツが悪そうにわたしを見たので、怒っていないと、分かっていると気持ちを込めて微笑み返せばくすんだブルーグレーが微かに見開かれ、そして揺れた。
伯爵家のメイドの一人が「旦那様は表情の変化が少なくて分かり難い」と零していたけれど、この人はまさしく目は口ほどに物を言うタイプなのだ。
「只今戻りました」
チャリスさんが礼を取ったのでわたしもそれに倣う。
それから、わたし達はそれぞれの主人の後ろへ戻った。
「どうだったかしら? ギャラリーは楽しめて?」
「はい、どれも素晴らしいものでした。ですが、あまりにも高価そうで何か粗相をしてしまったらと思うと落ち着かなくて、通路の真ん中を歩いて鑑賞させていただきました」
「まあ! その様子を直に見てみたかったわ!」
コロコロと笑う女王陛下にわたしは苦笑を返すしかなかった。
本気で落ち着かなかったのでもう王城のギャラリーは遠慮したい。
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