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# The ninth case:The voice that the devil tempts.―悪魔の囁き―
言、二つ。
しおりを挟むリーニアス殿下は振り返らなかったが伯爵がどうやらその背を睨んだらしい。
見た感じ従兄弟同士で長い付き合いなのだろうし、お互いのこともよく知っている風だ。
長い廊下を右に左に曲がったり階段を上り下りしたり、迷路みたいな宮殿内を迷いなく歩く長身達の背について行く。一人になったら絶対に迷子になる。廊下には所々に衛兵が立っているがお世話にはなりたくないので、伯爵とリーニアス殿下の世間話を聞きながらもはぐれないよう気を付ける。
延々と続くのではないかと思われた廊下は唐突に終わった。
どこをどう進んできたのか分からないけれど目の前には観音開きの重厚な扉があった。
それは木製で、見るからに分厚く、咲き乱れる花々の中に舞い踊る小鳥達の彫刻は春を思わせる。
それだけでもどれほどの価値があるか。
扉の両脇に立つ衛兵はチラとこちらを見たが動くことはない。
リーニアス殿下は扉の前へ立つとそれを叩いた。中まで音は響かないのではと思われたが、不思議なことに内側から侍女らしき女性が顔を覗かせた。殿下と伯爵を見て中へ招き入れられる。
恐らく控えの間か客間なのだろう部屋は広く、そこを抜けると侍女がもう一つの扉を叩いた。
中から別の侍女が現れて扉を開けた。
そうして招かれた室内は驚くほどに広くて豪奢だった。
まず目を引いたのは部屋全体に敷かれたビロードの絨毯だ。廊下に敷かれた絨毯は端が金糸で縫われ、タッセルが連なり、四方には四季を模したらしい刺繍が刺してある。
次に大きく切り取るように作られた窓、その枠や壁、柱に施された巧みな彫刻は木々や植物、花、隙間から可愛らしい小鹿や小鳥が顔を覗かせていて、まるでそこは森の小さな空き地のようだ。天井には晴れた空に浮かぶ太陽と月、そして流れる雲まで彫られている。
太陽と月の丁度中間に大きなシャンデリアが一つ吊り下がり、窓から差し込む陽光でキラキラと輝く。
室内には四人の人影があった。
わたし達を招き入れた侍女、扉の両脇にリーニアス殿下と従者と同じ服装の衛兵が二人。
そして、扉の正面にある執務机を挟んだ向こう側に一人の女性が腰掛けていた。
伯爵が室内に足を踏み入れたのでわたしも続いたが、すぐに目を伏せて女性と視線を合わせないようにする。自分の身長と同程度先の床辺りに視線を向け、それ以上は顔を上げないことを心掛ける。
「陛下、アルマン卿をお連れ致しました」
リーニアス殿下の言葉に体が震えそうになるのを何とか抑え付ける。
視界の端で女性が頷くのが僅かに見えた。
執務机の前に置かれたソファーとローテーブルの手前まで進み、伯爵が立ち止まった。
わたしもその一歩後ろで足を止め、伯爵と共に丁寧に礼を取る。
両手を左右へ広げつつ左足を一歩下げることで上半身を折り、それに合わせて指を揃えた右手を左胸に当てる。焦ってはいけない。ゆっくりと、優雅に、指や足の先の神経までしなやかなイメージで。
伯爵よりも深くお辞儀をした状態で止まる。
身分の低いわたしが伯爵よりお辞儀が浅くてはいけない。
「ご苦労でしたね、リーニアス。……さあ二人共、顔をお上げなさい」
ゆったりと諭すような口調だが、深みのある美しい声音が紡ぐと不思議な色香が滲む。
伯爵が顔を上げたのを視界の端で確認し、顔を上げ、陛下を一瞬見る。
目の前に座る女性は美しかった。
滑らかな白磁の肌も、惜しげもなく巻き流された蜂蜜のごとく透き通った金髪も、どんな高価なエメラルドよりも鮮やかで濃い色の瞳も、小さな顔に配置された目鼻立ちの正確さは伯爵をも凌ぐものだった。椅子に座っていてもドレスの下にある体の曲線美は悩ましいほどだ。
宝石よりも輝きを持つ瞳と視線が合う前に思わず目を伏せてしまう。
伯爵を見た時でも見目の良すぎる人だと感じていたが、女王陛下はそれ以上だ。
見続けていたいと思う気持ちとは裏腹に目が眩みそうな美しさが直視を許さない。天は二物を与えずと言うけれど、こうも違い過ぎると嫉妬どころか羨望すら沸き起こらない。もはや同じ人間とは思えないほどの美女だ。
結局、女王陛下の顎の少し下に視線を落ち着かせるしかなかった。
「まあ、話に聞いていたよりも従者は随分と若いのね。十四、五だったかしら?」
「いいえ、幼く見えますがこれは既に成人しております。名はセナ・シェパード=ソークと申します」
やや笑いを押し殺した風に低めの声で受け答える伯爵にハッと我へ返る。
少しだけ頭を上げ、挨拶のようにもう一度頭を垂れる。
視線を動かして右斜め前を見れば上質な生地に覆われた肩が笑いに揺れていた。
何もこんな時にまで笑うことないだろう。
「お前は何歳になった?」
背を向けたまま伯爵に問いかけられて答える。
「旦那様に良くしていただき、無事先月で十八歳を迎えることが出来ました」
「十八? とてもそうは見えないわ。顔立ちの幼さもあるけれど、髪もお肌もとても綺麗ね。何か特別なお手入れでもしているの?」
女王陛下に直に質問されて返答に困ってしまった。
リーニアス殿下が即座に「陛下への直答を許す」と許可をくれたためホッとした。
「特別なことは何もしておりません。わたくしの生まれ故郷の人間は皆、彫りの浅い顔立ちをしております。それ故に外つ国の方々からは若く見られることが多くございます。手入れと申しましても、入浴後や洗顔後にオリーブの実から絞られた油を薄く髪や肌に塗っている程度でございます」
日本人は小柄で彫りが浅く、それらは海外の人にとっては幼く見える。
逆にわたしから見れば海外の人は発育が良すぎるように見える。
女王陛下が「そう、羨ましいわ……」と残念そうに呟いたが、既に絶世の美女である彼女がこれ以上美しさを追求する必要など全くない気がする。
「その肌の色は日焼けで黄色くなってしまったの?」
「いいえ、こちらも人種の差によって異なるのです。わたくしは生まれながらに黄色みを帯びた黄色人種であり、皆さまのような美しい白い肌ではございません」
「そうなのね。でもそのお肌、蜂蜜を垂らしたみたいで甘くて美味しそうよ。髪もまるで夜空を切り取ったようで、どちらもとても素敵な色だわ」
元の世界では外見の違いで差別する人もいる。
この世界でもわたしの外見は珍しがられるが、こうして正面から褒めてもらえるのは嬉しい。
わたしは自分の生まれた国が好きだし独特な黄色みを帯びた肌や黒髪も気に入っている。
だから自然と笑みが口元に浮かんだ。
「お褒めに与り、光栄に存じます」
己と違う存在を許容するのは難しい。
誰しも自分と異なる相手には不安や警戒心を覚えるものだ。
何故か伯爵の動きが停まったような気がしたが、女王陛下の心底可笑しそうにクスクスと笑う声に意識が引き戻される。
「なるほど。クロード、貴方も大変ね?」
どこか茶化す口調に伯爵が「陛下」と少し責めるように言う。
けれども女王陛下は笑い、そして静かに席を立ち、執務机を迂回してソファーへやって来る。
「そろそろ来ると思ってお茶の用意をさせておいたのよ」
「どうぞ、座って」という言葉に伯爵はソファーまで行く。
先に女王陛下が腰を下ろし、伯爵とリーニアス殿下が座る。
わたしは伯爵の左斜め後ろに待機した。定位置に心が落ち着く。
ふと顔を上げればリーニアス殿下の従者は彼の右後ろにいるため、まるで鏡に映したような配置にわたし達はいた。一人掛けの正面のソファーに女王陛下が、右手ソファーにリーニアス殿下、左手ソファーに伯爵といった具合に座っている。
侍女が静かに動いて三人分の紅茶を淹れてそれぞれの前へ置き、下がった。
ローテーブルの上にはクッキーの入った皿、チョコが入った皿、ケーキスタンドとジャムとクリーム、他にもキャロットケーキやチョコレートケーキ、コーヒー味のケーキにふんだんにナッツが使用されたものなど、この国のティータイムの定番が所狭しと並ぶ。
ケーキスタンドには上から一口サイズのケーキ数種類、スコーン、サンドウィッチが載る。
「クロードの可愛い従者さんも座ってちょうだいな」
伯爵の横を示されて複数の視線が集まり、ギクリと体が強張る。
「恐れながら、わたくしは女王陛下と席を共に出来る身分ではございません」
「温石と足元クッション、だったかしら? あれのお蔭で今年は執務も捗って、政務中も仕事に集中することが出来たのだもの。それに手足の冷えに悩む女性にも大好評で勧めただけなのに私は大変感謝されたのよ」
「これは私から貴方への感謝の気持ち。だから遠慮せず座ってちょうだい」と再度勧められてしまえば断ることなど出来るはずもなく、わたしは伯爵の右隣に座らせてもらうことになった。
女王陛下にその子息である殿下、そして女王陛下の甥という|錚々(そうそう)たる顔ぶれの中でわたし一人だけが妙に浮いている気がした。地位的にも物理的な顔面偏差値的にも。
女王陛下が紅茶を口にしたことで茶会は始まった。
伯爵に目線で示され、サンドウィッチを取り皿へ移して伯爵の前へ置く。
わたしも同じものを取る。
リーニアス殿下と女王陛下はそれぞれの従者と侍女が行う。
サンドウィッチをカトラリーで一口サイズに切り、手で口へ運ぶ。ローストビーフだろうか。パリパリのレタスとチーズ、ローストビーフのソースが柔らかな白パンに挟まり、食べるとまずは仄かに甘みのある白パンの食感と風味が、そして噛み締めるとローストビーフの肉汁が染み出してくるが、チーズがそれによく合い、レタスが重くなりがちなそれらを上手に整えてくれる。シャキシャキとした食感も楽しい。
サンドウィッチでこれなのだがら、相当腕の良い料理人がいるのだろう。
幾つでも食べたい美味しさだけれど残念ながらわたしの胃には容量があるので仕方がない。
よく味わって食べていれば女王陛下に声をかけられる。
「お気に召してもらえたようね」
わたしは即座に頷き返した。
「はい、とても美味しいです。素晴らしい料理人の方々がこの宮廷にはいらっしゃるのだなと感動しておりました。幾らでも食べられそうなほど、本当に美味しいです」
「そう、伝えておくわ。これらを作った料理人達はとても喜ぶでしょうね」
「ありがとうございます」
サンドウィッチを食べ終える頃には緊張も大分消えていた。
伯爵が言うように女王陛下は寛大で、優しく、それでいて伯爵に似た雰囲気もある。
落ち着いた女性かと思えば、好奇心旺盛でわたしの故郷について根掘り葉掘り聞いてきたり、伯爵の普段のことや近侍として働くのはどんな気分なのか、結婚する気はないのかというかなり個人的なことまでグイグイ質問された。
まあ、聞かれて困ることでもないので伯爵のこと以外は包み隠さず答えた。
何故伯爵のことだけは控えたのかと言うと、横にいた本人が自分の話題になると不機嫌になったからだ。見た目や雰囲気では分かり難いが紅茶やクッキーを口にする回数が増えたので、少し嫌だったのだろう。
年頃の男の子が母親に干渉されてちょっと苛々してるみたいで可愛いと思ったのは秘密だ。
「陛下、そろそろ本題に入りたいのですが」
話のタイミングを見計らって伯爵が言う。
女王陛下もリーニアス殿下もそれに頷き返す。
「ええ、そうね。セナとのお喋りがとても面白くてつい夢中になってしまったわ」
「わたくしめも女王陛下との楽しい一時を過ごせる栄誉を賜り、天にも昇る心地でございました」
伯爵が眉を顰めてわたしへ振り向く。
「お前はまたそういう……。まあいい、戻れ」
「畏まりました」
軽く手を振られたので席を立ち、一礼して自分の使ったティーセットと取り皿をサービスワゴンへ下げてから伯爵の後ろの定位置へ戻る。
その間、女王陛下とリーニアス殿下はおかしそうに小さく笑っていた。
わたしが戻ると伯爵は口を開く。
「『幸福』の販売経路が判明したことは報告書の通りです。主にそれを貴族に売りさばいているのは、ジンデル卿であり、販売期間はこの社交の時期、販売場所は晩餐会やパーティーなどで狙われているのは子息令嬢ばかりです。ある程度『幸福』に依存させると友人や知人を紹介させて販売の手を伸ばしているようです」
それはまた、典型的な違法薬物の売買の仕方だな。
リーニアス殿下が「ちょっといいかな?」と軽く挙手する。
「実はシャーロットも知り合いから元気になれると『幸福』を試してみないか誘われたそうだ。幸い断ったが、此処まで来ると悠長なことは言っていられない」
伯爵が不愉快そうに息を吐く。
「王女殿下にまでついに魔の手が伸び始めたのか……」
それは由々しき事態である。
貴族だけではなく王族にまで薬物が広がれば、最悪、そのジンデル卿とかいう奴が国を牛耳ることも出来てしまうのだ。それくらい薬物依存というのは恐ろしい。
やってはいけないと理解していても自分では抑えが利かなくなり、それを手に入れるためなら、やがて何でも行うようになってしまう。簡単に犯罪に手を染めてしまう。
そして体も心もボロボロにさせられる。
「これは早急に事態を収める必要があるわね。しかし邸に踏み込んでも証拠は出るかしら?」
「それは流石に……。彼方も自分の手元に証拠を残しておくほど愚かであれば、もっと早い段階で簡単に捕らえることが出来ていたでしょう」
「でも現行犯で捕らえるのも厳しいわ。警戒していることもそうだけれど、報告書を見る限り、自分で販売は滅多にしない主義の方だから現行犯では無理かもしれないわね……」
三人が神妙な顔で考え込む。
何でそんなに悩んでいるのだろう?
こういう時にこそあれをやるべきじゃないのか?
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