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# The eighth case:Weight of the life.―命の重み―
雫、六滴。
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警察署を出て行ってから三時間ほどで伯爵達は戻って来た。
何故か後ろを歩くアンディさんの手には大きめのバスケットが二つ提げられている。
そのせいでクロークの裾が広がって不格好に見えた。
部屋に入り、地図の下まで来た伯爵が脇にある掲示板を見て振り返る。
「これはお前がやったものか」
それに「ええ」と頷き返し、手で掲示板をポンと軽く叩いてみせる。
「犯人の動向が一目で分かるようにしたかったので。よくお分かりになりましたね」
「お前の書く字は少し癖があるからな」
以前からそれは感じていた。文字は兎に角お手本を見ながら練習するしかないのだが、間違えないことを第一にしているのでわたしの文字は所々に滲みやバランスの悪さが出て癖のある字体になってしまう。
しかも元々の癖で右上がりになる。
罫線のない紙に文章を綴っていくとほんの僅かだが右上に文章がズレていくのだ。
お蔭でわたしの書いた文字は見れば一発で分かるそうだ。嬉しくない。
「ところで、ここに来てから食事は摂ったか?」
唐突な話題の転換と内容にわたしは目を瞬かせた。
食べてない。懐中時計を見ると午後の二時半になる頃だった。
首を振って否定したわたしに伯爵が「やはりな」と呆れた風に呟く。
エドウィンさんが「途中で食事に出掛けなかったのか?」などとこちらを見る。そういえば三十分ほどエドウィンさんの姿が見えない時があったが、あれは昼食を食べに出ていたのか。
そうしてアンディさんが持っていたバスケットのうちの一つを空いている隅のテーブルに置き、テキパキと慣れた様子で中身を取り出していく。サンドウィッチとタルトといった軽食に簡易のティーセットだ。布に包まれた陶器の細長い筒を開け、底の深いカップに注がれたのはスープである。
「私は一度屋敷へ戻ったが『セナは忘れているだろうから』とベティが心配して用意したものだ。早期解決を目指してはいるが、食事を忘れる癖はいい加減直せ。身が持たん」
冷めても美味しそうな軽食に空腹感が胃を刺激する。
「そっちで食べていろ」と手を振って追い払われる。
代わりにアンディさんに手招きされてテーブルに寄った。「スープ、ちょっと冷めてるかも」と小声で言われたけれど、ほんのりと良い匂いが漂ってくるのでまだ多少は温かいようだ。コンソメに近い匂いに釣られてしまう。
伯爵の方を気にしつつも空腹に負けて席についた。
両手の指を組んで声に出さずに食前の祈りを捧げる。
それからサンドウィッチへ手を伸ばした。中身は日持ちさせるために塩漬けされたキャベツと肉が入っている。手に持てるよう包んであるそれを一口齧ると酢の効いたしょっぱさが肉の旨味と脂でほど良く和らげられ、よく噛んで飲み込めば途端に空腹感が増した。
ひたすら黙ってサンドウィッチに齧り付くわたしにアンディさんが小さく笑う。
「相当腹減ってたんだな」
ほら、と差し出されたスープ入りのカップを、サンドウィッチを置いて受け取り、一口飲む。
言われた通り冷めてはいたけれど人肌より少し温かいくらいなので、むしろ飲みやすい温度だった。小さく刻んだ野菜と肉の味が染み出した優しい味のスープがじんわりと内側から体を温めてくれる。
カップに口を付けつつ伯爵達の方を見遣る。
三つ目鴉との交渉は上手くいったようで早ければ今夜か明日にでも何かしら情報が集まるだろうと伯爵が説明し、エドウィンさんはその顔に安堵の色を少しだけ滲ませた。
伯爵達が戻って来るまで、目ぼしい情報が全く手に入らなかったのだ。
わたしはココにいても時系列にヘレン=シューリスの行動を掲示板へ貼り付けたり、雑多に纏められた書類を内容別に仕分けて整理したりといった雑務のみしかない。あとはランタン持ちの証言が適当だったことを指摘したくらいか。
エドウィンさんは巡回する警官からの報告を受け、巡回の強化や道の変更、人員の補充管理など忙しそうにしていたものの、全く情報が集まらずに苦戦を強いられていた。
「ん? ここにあったメモはどうした?」
地図の一箇所を示した伯爵にエドウィンさんが「その証言はランタン持ちが他の者から聞いた曖昧なものだったため除外しました」と説明する。
それに伯爵が小さく息を吐いて「そうか」とだけ返事をした。
信用出来ない証言は残しておいても邪魔になることは全員が分かっている。
気を取り直して話す伯爵達に任せて、さっさと食事を済ませてしまおう。
空になったカップにスープを注いでくれたアンディさんに顔を向け、サンドウィッチを代わりに齧りながら、先ほどから感じていた疑問がつい零れた。
「アンディさんは何でクロークを着たままなんですか?」
思い返すと最初にココへ来た時もそうだった。
本来、屋内では脱ぐのがマナーだ。それに足首近くまである丈が邪魔だろう。
聞くと、アンディさんがそっとクロークの前袷を開いた。
……うわあ、三丁も拳銃入ってる。
口元が引き攣りかけたわたしにアンディさんが小さくウィンクを飛ばす。
「使ってる最中に装弾するのが嫌なんだ。隙が生まれるだろ? だから装弾しなくてもすぐに次を撃てるように、こうして何丁か身に付けてるのさ。まあ、常にこんなに携帯してる訳じゃないけどな」
そう言われれば合理的だけど。
「重くありませんか?」
「そんなのもう慣れたよ。これでもう五年はやってるから。たまに旦那様の狩りに連れて行ってもらって猪や鹿も獲るんだぜ。あいつらの相手は時間との勝負だから良い練習になるんだ」
「練習……」
伯爵がアンディさんを呼んだのはこれを知っていたからか。
まあ、脱獄した死刑囚相手に手加減だの無傷で逮捕だの言わないだろう。
いざという時は殺してでも逃がすなと射殺許可が出ているのかもしれない。
ゴクン、とサンドウィッチの最後の一口を飲み込んだ。
* * * * *
その日はそれ以上の進展もなく、仮眠から戻った刑事さんに後を任せて屋敷へと戻った。
着替えを済ませた伯爵は二階の大サロンで遅めのティータイムを楽しんでいる。
夕食までの時間が短いからか普段よりも食べる量が少ない。
伯爵が人心地ついた頃を見計らって声をかけた。
「失礼ながら、一つお伺いしても宜しいでしょうか?」
脇に立っているため、伯爵は顔を正面に向けたまま返事をする。
「何だ」
「どのような交渉材料を使って三つ目鴉と取引を?」
一口サイズのサンドウィッチを口に運び、咀嚼して飲み込む。
それから紅茶を手に伯爵は答えた。
「情報料か税の一部免除、今後も情報を寄越すならば品の規制緩和を提示した。今回に限り情報料の支払いもある。税は三割、スパイスとハーブを緩和したが、ハーブのみ此方で精査し違法でないものだけ許可を出すこととなった」
少し冷めた紅茶を飲み干し、差し出されたカップを受け取る。
新しい紅茶を注ぎ入れてテーブルへ戻すとすぐに手が伸ばされた。
「それは随分と思い切ったことをされましたね。勝手にそのようなことを決めて大丈夫ですか?」
「問題ない。闇市に関してはある程度の裁量権を陛下より預かっている。あの方は清を良しとするが、必要悪もまた理解し、それ故に闇市や貧民街を完全に潰そうとはしていない。どちらにも軽微な犯罪を繰り返す者が多い。しかしそういった者達は滅多に外では仕事をしないものだ。潰して流出させるよりも決まった範囲で適度に遊ばせておく方が全体で見れば治安が維持される」
「なるほど」
話を聞いて女王陛下への興味が一層強くなる。
女性だから透明性のある清く正しい政を執り行うとは限らない。
伯爵の話す様子からしてもかなり理性的な女性なのだろう。
同時に新たな疑問がふと浮かんできた。
「旦那様はよく登城なさいますが、それほど頻繁に陛下と謁見出来るものなのでしょうか?」
国の頂点ともなればそう気軽に会うことは出来ないはずだ。
だとしたら呼び出されている? 他にも上位の貴族がいる中で伯爵ばかりを呼ぶというのは些か不自然だ。何より他の貴族からのやっかみも受けそうである。
そこで漸く伯爵が顔を動かしてこちらを見た。
その顔は驚いたような、呆れたような、どこか納得した表情をしていた。
「女家庭教師から聞いていないのか?」
「?」
小首を返すわたしに伯爵が小さく息を吐く。
その眉が珍しく困ったように少しだけハの字に下がった。
「私の母は王妹だ。女王陛下と私は伯母と甥という関係なんだが」
王妹? それってこの国では女王陛下の妹君に当たるということか。
その王妹が伯爵の母親で、伯爵は女王陛下からみれば甥っ子になる訳で。
つまるところ伯爵は王族の血筋でもあるということで――……
「ま、待ってください、じゃあ伯爵は王家とお父君側の伯爵家の血を引いていらっしゃる……?」
「いや、違う。先々代の女王陛下の兄君が侯爵家に婿入りして生まれた三兄弟の末子《まっし》が伯爵位を得て我が家の初代となる。それが祖父だ。そこに同じく先々代の女王陛下の妹君の一人娘が嫁入りし、二人の間に生まれた兄弟の兄である父が二代目となり、父の下へ先代女王陛下がお産みになった姉妹の妹君が嫁ぎ、その二人の間に生まれたのが私だ」
「何かややこしいですね?!」
ええっと、先々代の兄の末っ子が伯爵位を得て、先々代の妹の一人娘――従兄妹同士だな――で結婚して兄弟が生まれ、兄であり伯爵の父親である人が二代目となり、その父親が今度は先代の生んだ姉妹の妹――現女王陛下の妹君――と結婚して伯爵が生まれたということか。
……ん? 伯爵の父親には弟がいる?
「その、伯爵のお父君には御兄弟がいらしたのですか? ですが今まで一度もお会いしたことは……」
伯爵が顔を正面に戻して紅茶を一口飲む。
「叔父は跡目争いを起こし、父に討たれて死んだ」
「……失礼致しました」
あまり聞かれたくないことに触れてしまったのかもしれない。
苦味を含んだ横顔は、けれどすぐにフッと苦笑した。
「この程度のことは貴族ではよくあることだ。母は体が弱く、私を生んで暫く後に少々事情があり儚くなった。だが下手に兄弟が生まれていたら父達と同様に争いが起きたかもしれないと想像する度に、私一人で良かったのだと思っている」
「そうですか……」
「ちなみに先々代女王陛下の兄君が婿入りしたのはリディングストン侯爵家であり、血筋で言えば我が家は王家とリディングストン侯爵家の血筋を引いている伯爵家ということになる」
「更に混乱する情報を追加しないでください! じゃあグロリア様とキース様とは遠戚なのですか?!」
「そうだな」
貴族の血筋って物凄くややこしい!!
でも何故三代しかない続いていないアルマン伯爵家が名門と言われるのか分かった。
家の存続した長さではなく、その血筋からそう呼ばれるのだろう。
……しかし伯爵がまさか王族の血を結構濃く受け継いでいるとは。
「一時期は王女と私の婚姻の話も出たものの、流石に血が濃くなり過ぎるということで立ち消えた。他の公爵家や侯爵家も王家の血の関係で婚姻出来ず、男爵や子爵では爵位が合わず、伯爵家ならばと思っても我が家に嫁ぎたがる者がいない」
「それはまた難儀なことで……。平民は論外でしょうし」
「……どうだろうな。陛下の許しを得られるなら可能かもしれん」
チクリと僅かに胸が痛む。
伯爵とわたしではあまりにも血筋と爵位に差があり過ぎる。
何となく沈黙が落ち、伯爵が手持無沙汰な風に一口大のケーキを取って食べる。
……諦めるしかないのかなあ。
チラと盗み見た横顔は無表情に同じ動作でケーキを食べている。
外見も好きだけど、美形だからというより、全体的に青みを帯びた色が好きなのだ。微妙にくすんだ銀髪にくすんだブルーグレーの瞳、日焼けの少ない色白の肌はさながら南極の氷山みたいだとずっと思っていた。
冷たくて触れれば切れてしまいそうな外見とは裏腹に、実は情が厚くて頭が良くて何でもそつなくこなすけど面倒臭がりで、仕事上ではどうしたって見ることになる血が苦手という一般人に近い感覚があって、集中すれば我慢出来るけど極力見たくないし触りたくないというヘタレな部分がちょっと可愛い。
甘いものがそんなに得意でないことも、考える時に顎に手を当てる仕草も、すぐに溜め息を零す癖も、何か思うところがあると片側の眉を上げる器用さも、死んでるような寝相も。
好ましい理由は幾らだって見付けられるのに、諦めるための理由は血筋と家柄の二つだけだ。
元の世界にいた時に彼女のいる男子を好きになってしまった友達がいた。
わたしはただ泣きそうな顔で話す友達の話を聞いて、安っぽいありきたりな言葉で慰めることしか出来なくて、散々話して少しだけ泣いた友達は二年後に優しい彼氏と出会った。
あの子はその時、どうやって恋心を諦めたのだろう。
「良縁の相手が早く見付かるといいですね」
絞り出すように言えたのは、やっぱりありきたりな言葉だった。
伯爵はケーキを食べる手を止めて「全くだ」と呟いた。
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