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# The fourth case :The people who took the wrong choice.―間違った人々―
道、五路。
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* * * * *
――――ああ、また寝落ちしちゃったか。
微かに冷たい空気が漂う部屋のベッドで目を覚ます。
昨夜伯爵から借りた本が案外面白くて夢中になってしまい、我に返ると深夜二時を過ぎており、眠気に耐え切れずに倒れるようにベッドに入った。
文字通り倒れ込んだため緩く履いていたブーツは片足が抜けていたが、もう片足は履いたままだった。
しかし集中しただけあって本は半分近く読めた。
起き上がって寝間着から仕事着に着替え、髪をブラシで梳いて緩く編んで左肩へ流す。
一年で随分と伸びた髪はそろそろ毛先くらい整えるべきかもしれない。どうせ纏めてしまうので前髪のみベティさんに切ってもらう程度だったが、伸びて鬱陶しくなってきた。
何時も通り懐中時計のネジを巻き直し、服装に乱れがないかを確認したら本館の階下へ向かう。
途中で会ったアランさんに「今日は貴女が新聞にアイロンをかけてみなさい」と言われ、洗濯物のアイロンがけを行う部屋の一角で新聞にアイロンをかけた。
けれど練習用の新聞紙とは違い、一度アイロンをかけて乾かなかったら困る。ついつい長めに当ててしまい、薄っすらアイロンの跡が出来てしまった。
アランさんは「要練習ですね」と苦笑した。
その後、一階の厨房へ上がりモーニングティーのセットが載ったサービスワゴンを受け取る。アランさんは伯爵の着替えを用意するために分かれており、途中で合流した今日の書斎付きの従僕はアルフさんだった。三兄弟で上手くローテーションしてるらしく日によって書斎に来る従僕が変わる。
「おはようございます」
「おはよう」
近侍のわたしは伯爵の側にいなくてはならないが、彼らは予定に変更がなければ書斎かその前室の寝室に詰めている。機密文書も置かれる書斎へのルートは寝室を横切るものしかないので、そこに詰めることで他の使用人達が勝手に立ち入れないようにとのことだ。
アルマン伯爵家の使用人にその手の者は滅多にいないそうだけれど、稀に金欲しさに自分が仕える家の内情を他家に流す使用人がいる。情報が漏れた時に使用人全てを疑う必要もなくなるので伯爵家では人手を割かれてもこのやり方を変えない。
伯爵の寝室に着き、アルフさんが扉を叩くと、間を置いて静かに開けた。
わたしもそれに続き、サービスワゴンを押しながら室内へ入る。
アルフさんにモーニングティーの準備を任せてわたしはカーテンを開けて回る。
全ての窓のカーテンを開ける頃、衣類の確認を終えたアランさんも来た。
「旦那様」
天蓋付きのベッドで死んだように眠る伯爵へ声をかけた。
閉じられた瞼がピクリと動く。
「旦那様、御起床のお時間です」
決して大きな声ではないがもう一度声をかければ瞼が開く。
何度見ても人形染みた動きだけど、そういうものだから仕方がない。
数度瞬いた後に上半身を起こす伯爵に挨拶をする。
「おはようございます」
「……ああ」
頷いた伯爵にアランさんがすかさず目覚めの紅茶を差し出した。
やや眠そうな目でそれを見た伯爵が受け取り、一口飲む。
次に新聞が手渡される。薄っすらアイロンの型が付くそれに伯爵が眉を片方上げてわたしを見た。肯定と謝罪の代わりに片手を胸に当てて軽く頭を下げると、気にしないという風に新聞を持つ手が小さく揺れる。
三人で静かに寝室を出て、朝食を摂るために使用人食堂へ向かう。
「今日の新聞はセナが?」
食堂の前に立ち、他の上級使用人を待っていればアルフさんに話しかけられる。
「はい、失敗してしまいました」
「あれは難しいよな。俺も最初の頃は何回もアイロンの焼き印したよ」
「でもアルフさんもアランさんに負けないくらいお上手でしたよね?」
「俺は弟達やセナより長く勤めてる分、練習回数が多いだけだから。セナも練習を重ねれば上手くなる」
「はい、精進します」
そうこうしている間に上級使用人が集まった。
食堂に入り、席に着く。切り分けられた料理が載った皿をバケツリレーよろしく回していくのも慣れた作業である。無言の朝食を終えたら再度伯爵の寝室へ向かう。これから身支度の手伝いなのだ。
寝室に向かい、伯爵から空のティーカップなどを回収し、洗顔を済ませたらアルフさんが顔剃りを行う。
アランさんが衣裳室から持ってきた服をアルフさんとわたしとで伯爵に着せ、髪もアルフさんが整え、身支度が終わった。
そうしてアルフさんは寝室に残り、伯爵とアランさんは食堂へ、わたしはモーニングティーのセットを片付けに厨房へ立ち寄り、食堂へ行く。
目立たないよう食堂へ入ったら壁の花だ。
軽いメニューの朝食を終え、アランさんと一日の予定を擦り合わせたら伯爵は席を立つ。
その後ろにわたしは付き従い、書斎へ。
アルフさんの詰める寝室を抜けて書斎へ入ると伯爵は机の向こう側に腰を下ろす。
「セナ」
書類に目を通しながら急に名を呼ばれて一瞬反応に遅れる。
「……何でしょう?」
「昨日メモを渡した本はどうだった?」
「正直に申し上げれば、かなり血腥い内容でしたが明日の見学には必要な知識が書かれておりました」
面白かったが、この世界の本にしては図解付きで中身もグロテスクな表現の多い医学書だった。
しかし文章から想像しやすく、専門用語が出てもそれの言わんとするところも読み取りやすい良い本だ。
「もう読み終わったのか?」
「まさか。まだ半分ほど残っておりますよ」
確かに面白い内容だが、わたしにはまだ読めない単語もあり、医学書ともなればその数は更に増す。
図や前後の文章から読み解いていくと、どうしても時間がかかってしまったのだ。
「そうか。もし分からない単語があれば聞きに来い」
伯爵もそこに思い至ったらしい。
「ありがとうございます」と返したが、聞きに来るとしたら夜になってしまうし、そう言われると意地でも自分で読み解いてやるという気になってしまう。
書類を読んでいた伯爵が不意に顔を上げる。
机の引き出しから封筒を出し、何やら書類を数枚引き抜くと席を立った。
「少し外へ出る。お前は減ったものを補充したら、後は自室に戻って本の続きでも読んでいろ。側仕えにはアルジャーノンを連れて行く」
「畏まりました」
何故わたしではなくアルジャーノンさんなのかという疑問はあるけれど、伯爵の采配ならば特に不満はない。
寝室へ出て行く背中を見送り、机の上のインク壺にインクを足したり羽ペンの歪み始めたペン先を交換したりといった細々とした作業をする。
粗方の作業を終えて、最後に机の端に常に何枚かストックされている地図の写しが数えたら一枚足りないことにも気が付いた。
……もしかして、伯爵にも依頼が来てる?
先ほど出掛けて行ったのは依頼のためだとしたら、何で一言も言わないのだろう?
いや、わたしがキースの依頼に着手しているから敢えて黙っていたのかも。
話を聞いてしまえば多分、そちらにも首を突っ込んでしまう。
それを見越して言わずにいるのなら、納得出来る。
「……本当、人のことよく見てるなあ」
行動を先回りされているようで苦笑してしまった。
机の上にはさしたる書類もなく、これ以上調べても行き先に繋がる手掛かりはなさそうだし、さっさと自室に戻って本の続きを読むとしよう。
交換したペン先などを持って書斎を出る。
寝室にはアルフさんがいて、そこを通り抜けて廊下へ出たら、階下に下りてゴミを纏めて置いておく倉庫にペン先などを置いていく。
ちなみに書斎から出る紙類は全て焼却処分するため、ゴミとして捨てることはない。
使用人棟に戻り、自室に入る。
まだ昼間は暖炉を使うまでもないので大判のショールを肩にかけ、窓際に椅子を置き、借りた本の表紙を開く。
伯爵の方も気になるが、明日のためにも読書に集中しよう。
「伯爵に負けないよう、わたしも頑張らないとね」
気持ちを引き締め、医学書の古い手書きの文字が綴られるページに視線を落とした。
* * * * *
馬車から降りようとしていたクロードはふと名前を呼ばれた気がして顔を上げた。
今いる区画の付近に知り合いはいない。気のせいかと首を捻って地面に足を付ける。
御者に待つように言い付けた後、アルジャーノンより受け取った地図を見ながら線が折り重なる場所に向かう。その区画は金銭的にあまり余裕のない者達が暮らしており、古びた家々が身を寄せ合うが如く軒を連ねている。
傍にあった小さな雑貨屋の扉を押し開く。
こじんまりとした店内は棚が並び、世辞にも良品とは言い難い質素な生活用品が置かれていた。日用品を扱う店なら客も多い。失踪者も恐らく日々の生活に必要な物を求めて訪れたはずだ。
扉の開く音を聞き付けたのか、やや痩せ気味の女が奥から顔を覗かせる。
「あらまあ! 申し訳ありませんが、うちは貴族の方にお売り出来るような品は扱っていないのですが……」
驚く女にクロードは軽く手を振って否定した。
「いや、すまないが客ではない。少々尋ねたいことがあって来ただけだ」
「はあ……? ええと、聞きたいこととは何でしょう?」
「此の中に見覚えのある人物はいないか?」
手にしていた封筒から紙を数枚出し、店の机の上に中身を広げて見せた。
十数枚のその写真は失踪者達のものだ。
女は一枚一枚丁寧に見ていき、大量の写真の中から三枚ほど選び出す。
「この三人は見覚えがあります」
「この三人について何か思い出せる事は?」
「うーん……大分前に二、三回ちょろっと来ただけの人らでしたから。長時間いたのに冷やかしだったんで追い出したってことくらいしか」
返された写真はそれぞれ年老いた女一人と男二人。
黙って後ろに控えていたアルジャーノンからペンを受け取り、インク壺に先を浸して写真の裏側の隅に雑貨屋の名前を書き、それを軽く乾かし封筒に戻す。
「朝早くに失礼した。協力に感謝する」
「いえ、特にお役にも立てず。何かの事件の捜査みたいですけど、警察にも貴族の方がいらっしゃるんですねぇ」
「まあ、そうだな」
封筒を懐へ入れながら答えたクロードに「何時もお疲れ様です」と労いを含んだ声音で女性が言う。
貧民街とまではいかずとも生活にあまり余裕のない暮らしぶりでは新聞なども買えず、得られる情報も少ないなだろう。多少情報通な人間であればクロードが何者かはすぐに気付く。
礼代わりに数枚銀貨を机に起き、雑貨屋を出た。
脇に挟んでいた地図を広げ、次の場所を探す。
通りから路地へ入らなければいけないようだ。
狭い場所は好きではないが仕方ない。
地図を仕舞って細い路上へ歩き出す。
昼間でも薄暗いそこを歩いていると脇の店から数人の男達が出て来て、クロードに気付かぬまま道の先へ消えて行く。少々千鳥足の背中達を見送り、男達が出て来た店を見遣る。
地図をもう一度広げて確認した。
此処は酒場か。
その扉を開ければ濃い酒気が漂う中に一人か二人ほど客が残っている。朝なので殆どは帰ったのだろう。
「すまんね、もう店仕舞いの時間なんだ。それにお貴族様にお出し出来るほど良い酒もない」
シャツ姿の中年の男がカウンター越しに言う。
やや刺のある言葉だが慣れたものだ。
「酒を飲みに来た訳ではない。この中に覚えのある人物はいないか?」
封筒から写真を出してカウンターに広げても男は見向きもしない。
アルジャーノンに目配せをして銀貨を三枚ほどカウンターに乗せると、男はやっと写真を眺めた。
何度か視線を写真の上に滑らせた後、一枚を指差す。
「この人は何度か来たよ」
「ではその人物に関するもので何か思い出せることはないだろうか?」
「そうだな…」
男性は悩んだ風に視線を宙へ投げかけた。
暫く虚空を見ていたが、不意にグラスを拭く手が止まる。
「来る度に、酔い潰れるまで飲んでいたね。でも近くに住んでるだか泊まってるだかで、閉店ギリギリまでよく居たよ」
「そうか」
ペンで写真の裏側に店の名前と男の話を書き込み、並べていた写真を素早く封筒に入れる。
ガタリと立った音に振り返れば、酔い潰れた客が寝てしまったらしい。
「邪魔をした」
カウンターに追加で銀貨を置いて酒場を出た。
路上で一度大きく息を吸い、吐き出す。
朝から酒の匂いは辛い。再度深呼吸をして新鮮な空気を肺に取り込んで、やっと地図を見る。
まだ酒臭さが残っている気がして眉を顰めたが、肺の中の息を全て吐き出してから地図を閉じた。
脇道へ入り真っ直ぐ進めば別の路上へ出る。左右を確認し、右手側の道を行く。そこを暫し歩いた左手側に店はあった。店先の看板には閉店を示す文字が下げられていたけれど、中で人の動く気配を感じる。
扉を開けて入れば恐らく夫婦だろう若い男女がいた。
気付いた男が胡乱な眼差しを隠そうともせずに近付いて来る。
「まだ店は開いてないんですが」
体格の良い男の声は固い。
それ以上警戒させぬよう、ゆっくり歩み寄る。
「生憎私は客ではない。少々聞き込みをして回っているのだが、協力してもらえないだろうか?」
「聞き込み?」
「ああ、この中に見覚えのある人物はいないか?」
封筒から写真を出して男に渡す。
男はジッと写真を見、首を傾げて店の奥から此方の様子を窺っていた女を手招いた。
傍に来て写真を覗き込んだ女は「ああっ!」と声を上げて写真に齧り付く。
「この人って、あそこのホテルに泊まってた人じゃない? こっちの人も」
「ホテル?」
「二つ先の路地にある小さなホテルよ。この人達が何度か食事しに来た時に『あそこのホテルはあまりきれいじゃないし対応も雑で酷いけど、その分安いから仕方ない』ってぼやいてたもの! この人達、見かけなくなったけど何があった?」
「おい、止さないか! すみません、うちのは少々お喋りでして…」
「いや、有益な情報に感謝する」
写真を受け取り、代わりに銀貨を渡せば小躍りしそうなほど女は喜んだ。
手元の写真にこの店の名前と女の話を書き込む。
……ホテルか。今から行ってみるか?
そう考えていたクロードに女が声を潜める。
「もしあのホテルに行く気なら止めた方がいいわ。気味の悪い噂ばっかりだし……」
「どのような噂だ?」
「それは……」
問い返すも、途端にバツが悪げに口を噤んでしまい聞き出すのは無理そうだった。
――――ああ、また寝落ちしちゃったか。
微かに冷たい空気が漂う部屋のベッドで目を覚ます。
昨夜伯爵から借りた本が案外面白くて夢中になってしまい、我に返ると深夜二時を過ぎており、眠気に耐え切れずに倒れるようにベッドに入った。
文字通り倒れ込んだため緩く履いていたブーツは片足が抜けていたが、もう片足は履いたままだった。
しかし集中しただけあって本は半分近く読めた。
起き上がって寝間着から仕事着に着替え、髪をブラシで梳いて緩く編んで左肩へ流す。
一年で随分と伸びた髪はそろそろ毛先くらい整えるべきかもしれない。どうせ纏めてしまうので前髪のみベティさんに切ってもらう程度だったが、伸びて鬱陶しくなってきた。
何時も通り懐中時計のネジを巻き直し、服装に乱れがないかを確認したら本館の階下へ向かう。
途中で会ったアランさんに「今日は貴女が新聞にアイロンをかけてみなさい」と言われ、洗濯物のアイロンがけを行う部屋の一角で新聞にアイロンをかけた。
けれど練習用の新聞紙とは違い、一度アイロンをかけて乾かなかったら困る。ついつい長めに当ててしまい、薄っすらアイロンの跡が出来てしまった。
アランさんは「要練習ですね」と苦笑した。
その後、一階の厨房へ上がりモーニングティーのセットが載ったサービスワゴンを受け取る。アランさんは伯爵の着替えを用意するために分かれており、途中で合流した今日の書斎付きの従僕はアルフさんだった。三兄弟で上手くローテーションしてるらしく日によって書斎に来る従僕が変わる。
「おはようございます」
「おはよう」
近侍のわたしは伯爵の側にいなくてはならないが、彼らは予定に変更がなければ書斎かその前室の寝室に詰めている。機密文書も置かれる書斎へのルートは寝室を横切るものしかないので、そこに詰めることで他の使用人達が勝手に立ち入れないようにとのことだ。
アルマン伯爵家の使用人にその手の者は滅多にいないそうだけれど、稀に金欲しさに自分が仕える家の内情を他家に流す使用人がいる。情報が漏れた時に使用人全てを疑う必要もなくなるので伯爵家では人手を割かれてもこのやり方を変えない。
伯爵の寝室に着き、アルフさんが扉を叩くと、間を置いて静かに開けた。
わたしもそれに続き、サービスワゴンを押しながら室内へ入る。
アルフさんにモーニングティーの準備を任せてわたしはカーテンを開けて回る。
全ての窓のカーテンを開ける頃、衣類の確認を終えたアランさんも来た。
「旦那様」
天蓋付きのベッドで死んだように眠る伯爵へ声をかけた。
閉じられた瞼がピクリと動く。
「旦那様、御起床のお時間です」
決して大きな声ではないがもう一度声をかければ瞼が開く。
何度見ても人形染みた動きだけど、そういうものだから仕方がない。
数度瞬いた後に上半身を起こす伯爵に挨拶をする。
「おはようございます」
「……ああ」
頷いた伯爵にアランさんがすかさず目覚めの紅茶を差し出した。
やや眠そうな目でそれを見た伯爵が受け取り、一口飲む。
次に新聞が手渡される。薄っすらアイロンの型が付くそれに伯爵が眉を片方上げてわたしを見た。肯定と謝罪の代わりに片手を胸に当てて軽く頭を下げると、気にしないという風に新聞を持つ手が小さく揺れる。
三人で静かに寝室を出て、朝食を摂るために使用人食堂へ向かう。
「今日の新聞はセナが?」
食堂の前に立ち、他の上級使用人を待っていればアルフさんに話しかけられる。
「はい、失敗してしまいました」
「あれは難しいよな。俺も最初の頃は何回もアイロンの焼き印したよ」
「でもアルフさんもアランさんに負けないくらいお上手でしたよね?」
「俺は弟達やセナより長く勤めてる分、練習回数が多いだけだから。セナも練習を重ねれば上手くなる」
「はい、精進します」
そうこうしている間に上級使用人が集まった。
食堂に入り、席に着く。切り分けられた料理が載った皿をバケツリレーよろしく回していくのも慣れた作業である。無言の朝食を終えたら再度伯爵の寝室へ向かう。これから身支度の手伝いなのだ。
寝室に向かい、伯爵から空のティーカップなどを回収し、洗顔を済ませたらアルフさんが顔剃りを行う。
アランさんが衣裳室から持ってきた服をアルフさんとわたしとで伯爵に着せ、髪もアルフさんが整え、身支度が終わった。
そうしてアルフさんは寝室に残り、伯爵とアランさんは食堂へ、わたしはモーニングティーのセットを片付けに厨房へ立ち寄り、食堂へ行く。
目立たないよう食堂へ入ったら壁の花だ。
軽いメニューの朝食を終え、アランさんと一日の予定を擦り合わせたら伯爵は席を立つ。
その後ろにわたしは付き従い、書斎へ。
アルフさんの詰める寝室を抜けて書斎へ入ると伯爵は机の向こう側に腰を下ろす。
「セナ」
書類に目を通しながら急に名を呼ばれて一瞬反応に遅れる。
「……何でしょう?」
「昨日メモを渡した本はどうだった?」
「正直に申し上げれば、かなり血腥い内容でしたが明日の見学には必要な知識が書かれておりました」
面白かったが、この世界の本にしては図解付きで中身もグロテスクな表現の多い医学書だった。
しかし文章から想像しやすく、専門用語が出てもそれの言わんとするところも読み取りやすい良い本だ。
「もう読み終わったのか?」
「まさか。まだ半分ほど残っておりますよ」
確かに面白い内容だが、わたしにはまだ読めない単語もあり、医学書ともなればその数は更に増す。
図や前後の文章から読み解いていくと、どうしても時間がかかってしまったのだ。
「そうか。もし分からない単語があれば聞きに来い」
伯爵もそこに思い至ったらしい。
「ありがとうございます」と返したが、聞きに来るとしたら夜になってしまうし、そう言われると意地でも自分で読み解いてやるという気になってしまう。
書類を読んでいた伯爵が不意に顔を上げる。
机の引き出しから封筒を出し、何やら書類を数枚引き抜くと席を立った。
「少し外へ出る。お前は減ったものを補充したら、後は自室に戻って本の続きでも読んでいろ。側仕えにはアルジャーノンを連れて行く」
「畏まりました」
何故わたしではなくアルジャーノンさんなのかという疑問はあるけれど、伯爵の采配ならば特に不満はない。
寝室へ出て行く背中を見送り、机の上のインク壺にインクを足したり羽ペンの歪み始めたペン先を交換したりといった細々とした作業をする。
粗方の作業を終えて、最後に机の端に常に何枚かストックされている地図の写しが数えたら一枚足りないことにも気が付いた。
……もしかして、伯爵にも依頼が来てる?
先ほど出掛けて行ったのは依頼のためだとしたら、何で一言も言わないのだろう?
いや、わたしがキースの依頼に着手しているから敢えて黙っていたのかも。
話を聞いてしまえば多分、そちらにも首を突っ込んでしまう。
それを見越して言わずにいるのなら、納得出来る。
「……本当、人のことよく見てるなあ」
行動を先回りされているようで苦笑してしまった。
机の上にはさしたる書類もなく、これ以上調べても行き先に繋がる手掛かりはなさそうだし、さっさと自室に戻って本の続きを読むとしよう。
交換したペン先などを持って書斎を出る。
寝室にはアルフさんがいて、そこを通り抜けて廊下へ出たら、階下に下りてゴミを纏めて置いておく倉庫にペン先などを置いていく。
ちなみに書斎から出る紙類は全て焼却処分するため、ゴミとして捨てることはない。
使用人棟に戻り、自室に入る。
まだ昼間は暖炉を使うまでもないので大判のショールを肩にかけ、窓際に椅子を置き、借りた本の表紙を開く。
伯爵の方も気になるが、明日のためにも読書に集中しよう。
「伯爵に負けないよう、わたしも頑張らないとね」
気持ちを引き締め、医学書の古い手書きの文字が綴られるページに視線を落とした。
* * * * *
馬車から降りようとしていたクロードはふと名前を呼ばれた気がして顔を上げた。
今いる区画の付近に知り合いはいない。気のせいかと首を捻って地面に足を付ける。
御者に待つように言い付けた後、アルジャーノンより受け取った地図を見ながら線が折り重なる場所に向かう。その区画は金銭的にあまり余裕のない者達が暮らしており、古びた家々が身を寄せ合うが如く軒を連ねている。
傍にあった小さな雑貨屋の扉を押し開く。
こじんまりとした店内は棚が並び、世辞にも良品とは言い難い質素な生活用品が置かれていた。日用品を扱う店なら客も多い。失踪者も恐らく日々の生活に必要な物を求めて訪れたはずだ。
扉の開く音を聞き付けたのか、やや痩せ気味の女が奥から顔を覗かせる。
「あらまあ! 申し訳ありませんが、うちは貴族の方にお売り出来るような品は扱っていないのですが……」
驚く女にクロードは軽く手を振って否定した。
「いや、すまないが客ではない。少々尋ねたいことがあって来ただけだ」
「はあ……? ええと、聞きたいこととは何でしょう?」
「此の中に見覚えのある人物はいないか?」
手にしていた封筒から紙を数枚出し、店の机の上に中身を広げて見せた。
十数枚のその写真は失踪者達のものだ。
女は一枚一枚丁寧に見ていき、大量の写真の中から三枚ほど選び出す。
「この三人は見覚えがあります」
「この三人について何か思い出せる事は?」
「うーん……大分前に二、三回ちょろっと来ただけの人らでしたから。長時間いたのに冷やかしだったんで追い出したってことくらいしか」
返された写真はそれぞれ年老いた女一人と男二人。
黙って後ろに控えていたアルジャーノンからペンを受け取り、インク壺に先を浸して写真の裏側の隅に雑貨屋の名前を書き、それを軽く乾かし封筒に戻す。
「朝早くに失礼した。協力に感謝する」
「いえ、特にお役にも立てず。何かの事件の捜査みたいですけど、警察にも貴族の方がいらっしゃるんですねぇ」
「まあ、そうだな」
封筒を懐へ入れながら答えたクロードに「何時もお疲れ様です」と労いを含んだ声音で女性が言う。
貧民街とまではいかずとも生活にあまり余裕のない暮らしぶりでは新聞なども買えず、得られる情報も少ないなだろう。多少情報通な人間であればクロードが何者かはすぐに気付く。
礼代わりに数枚銀貨を机に起き、雑貨屋を出た。
脇に挟んでいた地図を広げ、次の場所を探す。
通りから路地へ入らなければいけないようだ。
狭い場所は好きではないが仕方ない。
地図を仕舞って細い路上へ歩き出す。
昼間でも薄暗いそこを歩いていると脇の店から数人の男達が出て来て、クロードに気付かぬまま道の先へ消えて行く。少々千鳥足の背中達を見送り、男達が出て来た店を見遣る。
地図をもう一度広げて確認した。
此処は酒場か。
その扉を開ければ濃い酒気が漂う中に一人か二人ほど客が残っている。朝なので殆どは帰ったのだろう。
「すまんね、もう店仕舞いの時間なんだ。それにお貴族様にお出し出来るほど良い酒もない」
シャツ姿の中年の男がカウンター越しに言う。
やや刺のある言葉だが慣れたものだ。
「酒を飲みに来た訳ではない。この中に覚えのある人物はいないか?」
封筒から写真を出してカウンターに広げても男は見向きもしない。
アルジャーノンに目配せをして銀貨を三枚ほどカウンターに乗せると、男はやっと写真を眺めた。
何度か視線を写真の上に滑らせた後、一枚を指差す。
「この人は何度か来たよ」
「ではその人物に関するもので何か思い出せることはないだろうか?」
「そうだな…」
男性は悩んだ風に視線を宙へ投げかけた。
暫く虚空を見ていたが、不意にグラスを拭く手が止まる。
「来る度に、酔い潰れるまで飲んでいたね。でも近くに住んでるだか泊まってるだかで、閉店ギリギリまでよく居たよ」
「そうか」
ペンで写真の裏側に店の名前と男の話を書き込み、並べていた写真を素早く封筒に入れる。
ガタリと立った音に振り返れば、酔い潰れた客が寝てしまったらしい。
「邪魔をした」
カウンターに追加で銀貨を置いて酒場を出た。
路上で一度大きく息を吸い、吐き出す。
朝から酒の匂いは辛い。再度深呼吸をして新鮮な空気を肺に取り込んで、やっと地図を見る。
まだ酒臭さが残っている気がして眉を顰めたが、肺の中の息を全て吐き出してから地図を閉じた。
脇道へ入り真っ直ぐ進めば別の路上へ出る。左右を確認し、右手側の道を行く。そこを暫し歩いた左手側に店はあった。店先の看板には閉店を示す文字が下げられていたけれど、中で人の動く気配を感じる。
扉を開けて入れば恐らく夫婦だろう若い男女がいた。
気付いた男が胡乱な眼差しを隠そうともせずに近付いて来る。
「まだ店は開いてないんですが」
体格の良い男の声は固い。
それ以上警戒させぬよう、ゆっくり歩み寄る。
「生憎私は客ではない。少々聞き込みをして回っているのだが、協力してもらえないだろうか?」
「聞き込み?」
「ああ、この中に見覚えのある人物はいないか?」
封筒から写真を出して男に渡す。
男はジッと写真を見、首を傾げて店の奥から此方の様子を窺っていた女を手招いた。
傍に来て写真を覗き込んだ女は「ああっ!」と声を上げて写真に齧り付く。
「この人って、あそこのホテルに泊まってた人じゃない? こっちの人も」
「ホテル?」
「二つ先の路地にある小さなホテルよ。この人達が何度か食事しに来た時に『あそこのホテルはあまりきれいじゃないし対応も雑で酷いけど、その分安いから仕方ない』ってぼやいてたもの! この人達、見かけなくなったけど何があった?」
「おい、止さないか! すみません、うちのは少々お喋りでして…」
「いや、有益な情報に感謝する」
写真を受け取り、代わりに銀貨を渡せば小躍りしそうなほど女は喜んだ。
手元の写真にこの店の名前と女の話を書き込む。
……ホテルか。今から行ってみるか?
そう考えていたクロードに女が声を潜める。
「もしあのホテルに行く気なら止めた方がいいわ。気味の悪い噂ばっかりだし……」
「どのような噂だ?」
「それは……」
問い返すも、途端にバツが悪げに口を噤んでしまい聞き出すのは無理そうだった。
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2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
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30年待たされた異世界転移
明之 想
ファンタジー
気づけば異世界にいた10歳のぼく。
「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」
こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。
右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。
でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。
あの日見た夢の続きを信じて。
ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!
くじけそうになっても努力を続け。
そうして、30年が経過。
ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。
しかも、20歳も若返った姿で。
異世界と日本の2つの世界で、
20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。
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