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# The fourth case :The people who took the wrong choice.―間違った人々―
道、四路。
しおりを挟む器具はどれも丁寧に洗浄されており、血がこびり付いているなんてホラー映画的展開はなかった。
しかし教授が親切に語ってくれる解剖の流れを聞いていると、脇腹付近に表現し難い違和感を覚えた。
どうやらわたしは死体を見るよりも、こういった医療器具を見たり使い方をきいたりする方が苦手らしい。つい想像してしまうのが悪いのかもしれない。
よほど変な顔をしていたのか粗方説明を終えた教授に「外に出ようか」と背を押された。
廊下に出てから先ほど教授が出て来た部屋に入るよう促され、何とも言えない感覚がまだ残る腹部を擦りながら勧められた椅子に腰掛ける。
「……すみません、医学を学びたいと言ったのに」
厚意で中を見せてもらった上に、気まで遣わせてしまった。
「誰にだって苦手は付き物だ。私も最初の頃は血がダメでね、器具に触れるのも時間がかかって、苦労したものだよ」
慣れた様子で小さなアルコールランプに火を点け、湯を沸かし出す教授が懐かしげに言う。
へえ、と意外に思った。教授にまでなれるような人が元は血がダメだったとは。大変だっただろうな。
湯が沸くとシンプルな白いティーポットとカップに湯を注ぎ、ポットの湯は捨て、茶葉を入れると湯を再度ポットに注ぐ。すぐに蓋をして蒸らす。数分後に湯を捨てたティーカップへ注がれた紅茶は僅かに黄色味を帯びた柔らかなオレンジ色をしていた。
渡されたカップに口をつける。
温かく美味しい紅茶に気持ちがホッとする。
「落ち着いたかな?」
「はい、ありがとうございます。とても美味しいですね」
「そう言って貰えると淹れた甲斐があるねえ」
テーブルを挟んだ対面のソファーに教授も座り、優雅にティーカップを口元に運ぶ。
穏やかな雰囲気はとても心地が良い。
カップの中身を飲み切る頃、思い出したように話を切り出された。
「解剖も見学してみるかね?」
「えっ?」
顔を上げれば目尻を下げて微笑を浮べた教授がわたしを見ていた。
言われた内容を理解し、殊更驚いてしまう。
解剖の見学って、学院生でもないのに良いの?
「明後日行う予定だから、もし気になるなら見に来ると良い。君みたいに学ぶ意欲の高い子は将来良い医者になれる。だから是非、入学後にうちの学部に来て欲しくてね」
「……少し、考えてみます」
またとないチャンスであるけれど、器具が苦手だと判明した後では少々二の足を踏んでしまう。
それにわたしはあくまで調査のために来ているのであって、もし入学したいと思っても出来ないだろう。
近侍としての仕事もある。年齢的にも無理だ。
教授もそれ以上は何も言わずに空になったカップへ紅茶を注いでくれる。
……伯爵にも相談してみよう。
温かい紅茶にもう一度口を付けつつ、今はその柔らかな香りを楽しむことにした。
* * * * *
屋敷に戻ったわたしはその足で伯爵の書斎へと向かう。
今はアフタヌーンの時間なので話す時間は充分にあるだろうと見当を付けてのことだ。
伯爵の寝室に近いサロンの扉を叩けば、すぐに入室の許可が下りる。扉を開けると伯爵は椅子に腰掛けてゆったりと軽食を口にしていた。
「ただいま戻りました。ティータイムのお邪魔をしてしまい申し訳ございません。少々相談したいことがあるのですが……」
「相談?」
言葉を濁すわたしにブルーグレーが物珍しげに瞬き、側へ寄れと視線で示されて扉から離れた。
きちんと聞いてくれるらしく手を止めた伯爵が「それで?」と先を促した。
まずは今日学院の外っ見たことを話し、教授と会って解剖の見学に誘われたことも告げる。その際、教授はわたしが伯爵の近侍のセナであると気が付かなかったことも言っておいた。
それらを話し終えると、伯爵は顎に手を添えてお決まりの考えるポーズで僅かに眉を顰めた。
「お前はどうしたいんだ?」
「内情を知る絶好の機会なので行くべきかと。……ただ私的な気持ちを言うならば、あまり気が乗りません」
「だろうな。解剖など私も好き好んで見たいとは思わん」
「あー……その、ええっと、何と言いますか。解剖云々というより、それに使われる器具を見る方がわたしは苦手みたいでして……」
「……何だそれは」
ブルーグレーに意味が分からないと言われ、わたしも眉を下げる。
器具を見ると使用方法を想像してしまって気分的に体のどこかに違和感を覚えるのだと明かしたら、若干呆れた顔をされた。死体を見たり触れたりするのは平然と行う癖に、医療器具の類いを見るのが苦手だなんて自分でも情けなく感じているので、あまりそういう顔をしないでもらいたい。
無意識のうちに脇腹辺りを擦ってしまっていることに気付き、手を離せば、溜め息が漏れる。
「本当に苦手なようだな」
伯爵が苦笑混じりに呟く。
わたしは黙って頷き返した。
「とりあえず、行くだけ行ってみてはどうだ? 教授はお前のそれを分かっていて誘ったのだ。様子を見て、どうしても無理ならば外へ出ればいい」
言われて、それもそうだと考える。
解剖なんて喜んで見たい訳ではないが逃すには惜しい機会だ。どうしてもダメだったら、申し訳ないが途中退室させてもらえば何とかなるだろう。
「お前にも苦手な物があるのだな」
感慨深げな声音にジロリと睨み上げる。
「……その言い方だと、まるでわたしは何事にも動じない人間みたいに聞こえますが」
「違うのか?」
「全然違いますよ。苦手な物や嫌いな物もありますし、感情的にだってなる、ごく普通の人間です」
「ああ、確かにそれはあったな」
何かを思い出した様子で可笑しそうにクツクツと笑われる。
随分機嫌が良いようだが、逆にわたしは面白くない。鼻を鳴らして少し顔を背けてみても余計に笑いを助長するだけだった。あんまりにも笑うので「旦那様?」呼んで咎めると「すまん」と漸くその笑いを収める。
人の弱点がそんなに面白いのか。この人は。
ブルーグレーの瞳はまだ愉快げに細められている。
苛立ち紛れに留めていたピンを外し、緩く編んだ髪を解いていく。乱雑に解いている姿に見兼ねたらしく伯爵に手招きされたので解きながら脇へ立てば、指で屈むよう指示される。
その場で膝をついて屈むと伯爵の手袋をはめた手が髪に触れた。丁寧な仕草で編んだ髪を解き、逆立てた髪を手櫛で梳く。ある程度髪の癖が消えるとわたしの左肩に髪を流して緩く三つ編みにする。
最後に髪紐で纏めれば普段の髪型の完成だ。
何でわざわざ伯爵が元に戻したんだ?
「出来たぞ」
「ありがとうございます……?」
とりあえず礼を述べて髪に触れてみる。
やや編みが甘過ぎる気もしたが、まあいいか。
「髪色を戻して来い。お前にはやはり黒が一番しっくり来る」
わたしを見て一言、感慨深げに伯爵は言った。
* * * * *
セナが部屋を出て行き、足音が聞こえなくなってからクロードは机の引き出しを開ける。
一番上に置かれていた大きな封筒を掴み、取り出した書類には幼馴染みであるグロリアの署名が書かれていた。それは先日屋敷に訪れたキースから受け取ったものだった。
彼の話を聞いた段階でそちらはセナに一任させ、グロリアからの依頼は自身で済ませるつもりだった。
目を落とした書類には数十人分の失踪届と依頼の要約が記されている。
失踪者の大半は身寄りがなかったり地方出で周囲に縁者がいなかったり、ともかく孤立無縁の者ばかり。しかし借金や貧困を苦に行方を晦ます者も少なくないので当初は事件性はないと思われていたようだ。
だが最近は街の者まで失踪し始めたため、警察も重い腰を上げたのだろう。
けれど失踪者の明確な数も行方も分からず仕舞い。
最終的に警察のトップであるリディングストン家が介入し、此方へ事件を移すように命を下したといった流れだった。
「此れだけで解決せよとは無茶を言う」
手元にあるのは届けが出された失踪者の名簿と、彼らが失踪前に立ち寄った店や目撃場所の情報などが書かれた報告書の束。何度か目を通したものの大した内容はない。
セナならば或いは何か見い出すかもしれないが、今は手伝わせるつもりはない。
あちらはあちらで友人の依頼があり、それを中途半端に止めさせるのはセナ自身の信頼や立場に関わる問題だ。任せた以上はやり遂げさせなければならない。
だからこそ、友人思いの近侍にあの案件は任せたのである。
少々四苦八苦している様子ではあったけれど、本当にどうしようもなくなれば言ってくるだろう。
近侍の件は頭の除けて面倒が山積している手元の依頼に無意識に唸ると書類を机に並べ、失踪者が目撃された場所を照らし合わせて地図へ書き込んでいく。
何か得られるものがないか読み直しつつ、粗方書き終えて地図を眺める。
失踪者が行方を晦ます直前の行動に関連性はない。
けれども何かが引っ掛かった。
机の上に並んでいる書類を読み直していく内に、ふっとクロードの脳裏に一つの可能性が生まれる。
考えるよりも先にペンを持った手が動く。それは幾重にも繋がり、互いに折り重なり、頭に浮かぶ可能性をより一層強めた。何度もペン先をインク壷に浸しては飽きることなく動かし続け、最後の一辺に至るまで線を引き終えたクロードは息を吐いて体を起こす。
トンと軽い音を立ててペン立てにペンを入れる。
地図上には、失踪者が消える直前に出入りしていた場所や目撃場所が全て結ばれ、歪な線の重なりが出来上がっていた。
一見すると何の繋がりもなさそうだが、線を引くと面白いほどそれらは別の姿を現した。
「……これが糸口になれば良いが」
線はある区画周辺を頻繁に通っていた。
線は一つ一つは四方へ散っているというのに、その周辺だけは酷く密集して、まるで蜘蛛の巣のような広がり方だ。
何故失踪者達がこの区画を頻繁に通ったのか調べる必要がある。偶然で済ませるには違和感を拭えないそれにクロードは翌日の予定を思い描く。
と、不意に扉が叩かれた。
手早く地図と書類を引き出しへ押し込み、鍵をかけてから入室を許す。
アルフが書斎に入ってくる。
「夕食のお時間ですが、今日は書斎でお召し上がりになりますか?」
時計を見遣れば夕食の時間に近い。
書斎から出て来ないので確認に来たようだ。
「いや、食堂で摂る」
「畏まりました」
席を立ち、扉の傍へ行くと「あ」と小さな声がした。
視線を向けたクロードの袖をアルフが示す。
「袖にインクが飛んでしまっております。宜しければ、着替えてから向かわれてはいかがでしょう?」
指摘された場所を見ると確かにインクの擦れた跡があった。暗い色味の服なので目立たないが、気付いてしまったものは仕方がない。
寝室にいるアルジャーノンに食堂へ行く時間が少し遅れる旨を伝えに行かせ、アルフに着替えを手伝わせ、戻ったアルジャーノンに汚れた服を任せて部屋を出る。
食堂では既にアランが待機しており、クロードが席に着けばすぐに夕食が始まり、アランが給仕を行う。
食堂の壁際に髪を黒く戻したセナが控えていた。
前菜を食べ、次の料理の合間に口を開く。
「後ほどメモを渡す。許可を出すから、蔵書室で探して読んでおけ」
「どのような本ですか?」
「明後日のために苦手を克服出来る本だ」
「……畏まりました」
歯切れの悪い返事にクロードは小さく吹き出した。
そんなに医療器具が苦手なのか。
並べられた主菜にナイフを刺し入れつつ、斜め横から向けられる非難の視線を受け流す。
「だがお前らしい気もする」
「褒めておりませんよね、それ」
「さあ、どうだかな。なかなかに面白い本だが、明後日に響かぬようにしておけよ」
「はい、寝不足にならない程度に読ませていただきます」
拗ねた風に言って料理を口に運ぶセナに、クロードはまた声もなく笑った。
負けず嫌いはやはり変わらないようだ。
会った当初から変わらぬ気の強さは長所であり短所でもある。時々空回りしてしまうのが玉に疵(きず)だが、飾らない性格なのは好ましい。
勝手を言えばもう少し淑やかに出来ないものかと思わないでもないけれど、此ればかりは本人の性格次第だから仕様のないことだ。
すぐに不機嫌を隠して澄ました顔で口を噤んだ近侍を視界の端に映しつつ、クロードも止まっていた手を動かした。
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