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# The third case:Remembrance.―想起―
夢、八夜。
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翌日、イルフェスが変な臭いがしたと言った橋周辺の下水道を捜索した警察から、切り刻まれた身元不明の遺体が新たに発見されたと報告が届いた。
ついでに、一晩かけて被害者の手の指を集めて数えたところ四十三本あったらしい。
人間は両手で指が十ある。そのまま考えれば五人。しかしバラバラにされているため、汚水に遺体の一部が流されていれば被害者の数が少なく見えてしまう。その可能性も考えておかねばなるまい。
指の特徴が似ているもの同士で纏めて更に被害者の数を断定するよう手紙をしたためた。
地図を見る限りでは発見場所に共通点はない。橋の下であったり、川への排水溝付近であったり、かと思えば街の中心部付近であったりと様々だ。
いくら何でも手がかりがなさ過ぎる。
一縷(いちる)の望みをかけてみるか、とソファーから立ち上がればサロンの隅のテーブルで読み書きの練習をしていたイルフェスがパッと顔を上げた。その目は「どこかに行くの? ボクも行く!」と言わんばかりに輝いている。
「アンディを連れて行く」
「でも!」
「駄目だ、今日は大人しくしていろ」
何せ今から向かうのは遺体安置所なのだ。
イルフェスに仕事を慣れさせていく上で今朝、セナと話し合って幾つか取り決めをした。その一つに『残忍な殺され方の死体は普通の死体に慣れるまで見せない』というものがある。
最初から衝撃的なものを見てトラウマになっても困る故、クロードもそれに否やはない。
今日は連れて行ってしまうと‘残忍な殺され方をした死体を見せない’という約束に反してしまうので留守番をさせるしかなかった。
不満げに返事をするイルフェスの頭を軽く叩いて窘め、クロードは自室へ寄り、手紙に封蝋をして今日の側仕えを担うアンディへ任せる。
そのまま外出着に着替え、出掛ける前にセナには一応話しておこうと自室を出て三階の客室へ向かう。
アンディは馬車の準備を御者へ伝えるために側を離れた。
階段を上り、廊下を抜けて客室へ着く。扉を叩けばすぐに入室の許可を告げる声が聞こえてくる。クロードはそれに反応してドアノブを回した。
「お出掛けですか」
服装で察したのか開口一番に問うてくる。
「ああ、被害者の検分に安置所まで足を運んで来る。遺体はバラバラに刻まれているからな、流石にイルフェスは留守番だ」
「分かりました。しっかり検分なさってくださいね」
しっかり、の部分で妙に強調された言葉にクロードは思わず眉を顰め「お前、他人事と思って……」と呆れ気味にぼやいた。
バラバラになった遺体の検分ほど嫌なものはない。死体というのは人の形をしていても気味が悪いというのに、原型を留めていないものなど本来ならば見たくもない。
自然と吐き出された溜め息は自身が思っていたよりも重たいものだった。
「お前もきちんと骨休めをしておけ。間違っても仕事をしようなどとは思うなよ。気にして動かれては困るからな、事の顛末は話しに来る」
「はい、お気を付けて」
「……行って来る」
笑うセナに見送られて部屋を出、玄関へ向かう。
玄関にはアランとアンディが待機していた。並ぶと似ているのは親子だからか。アンディを伴い外へ出る。
玄関から馬車まではほんの数歩の距離だが、照り付ける日差しに汗がじんわり滲みそうになる。
馬車へ乗り込めば扉が閉められ、やや間を置いてからゆっくりと走り出した。
ガラガラと鳴る車輪に合わせて伝わる揺れを感じつつ、何とはなしに車窓を見やる。
セナが倒れ、そういう時に限って厄介な事件が舞い込むという喜ばしさの欠片もない状況に、また溜め息を零してしまいそうになった。溜め息を吐くのが癖になっていることに気付き、喉元まで上がりかけていた溜め息を今度は飲み込む。
話し相手になりそうな者はいるが、安置所は近い上に、これから遺体の検分を行うと考えると会話を楽しみたい気分でもない。
馬車の中は酷く静かだ。
車窓を眺めているうちに、ふと頭に浮かんだのはセナと出会った当初の記憶だった。
今でこそ丁寧な口調と落ち着いた様がある程度定着しているが、一年程前は手に負えないくらいのじゃじゃ馬娘で、クロードだけでなく屋敷の使用人達もヤンチャな様に苦笑を零していた。
ただ気が強いだけならば難ありと言えるが、あれは観察眼も優れており、行動力もそれに劣らない。
そのせいで気を失って警察署から帰って来たあの日の翌日から、何度も屋敷を脱走されたものだ。
いや、その前にも二度ほど脱走していたか。
兎にも角にも、帰る当てがないことは知っていたので何処かへ行ってしまっても戻って来るだろうとは理解していたが、何の許可も取らずに姿を消しては日が落ちて漸く帰るのだから私がそれに苛立ちを募らせるのも当然だった。
三階の窓から屋敷の壁を伝い降り、塀をよじ登って柵を越えて敷地の外へ行く。帰りは逆に塀をよじ登って敷地に入り、やはり壁を伝って部屋へ戻る。その様を報告された時は本当に女性なのかと問い質したくなった。
それこそ手綱のない馬の如く自由に出掛けて行き、その癖にクロードや使用人が声をかけると硬い表情で口を閉ざしてしまう。戻って来たセナに「私に何か言うことはないか」と聞いたら「ない」と強い口調で素気《すげ》なく返されて憤慨したこともある。
あの時は手のかかる子供のようだと思うばかりで、何故そんな行動を取るのかも、何を考えているのかも知ろうともしなかった。だからこそ屋敷を抜け出すようになって一週間と少し経った頃に警察署から突然人が訪ねて来た時はついに何かやらかしたと呆れたが、内容を聞いて己の耳を疑った。
「黒髪に黒い目の異国風の顔立ちをしたセナという少年を保護致しました。アルマン伯爵家に身を寄せている者だと聞き、お伝えに参りましたが、それがその……」
「何だ?」
「彼によって殺人事件の犯人が判明し、逮捕という運びになりまして……」
「…………は?」
伝えられた内容を最初は理解出来なかった。何がどうなって殺人事件なんぞに首を突っ込んだのか。まさかそんなことに関わっていたとは露ほども思っていなかったので、驚きはすぐさま困惑へと変わる。
迎えに行ってみれば警察署の一室で椅子に座ったままぼんやりと己の手元を見つめるセナが数人の警察達に遠巻きにされており、よく見ればその手には一本の薪が握られている。
黒を基調として着せておいた服は右袖が派手に裂け、皺が寄り、顔には小さな切り傷があった。黒い瞳は伏せられて、光を宿さぬ暗い瞳で唇を噛み締め、警官が話しかけても反応はない。
「……お前は一体何をしていたんだ」
黒い瞳が酷く緩慢な仕草で此方を見た。
闇の深淵を覗き込んでいるかのように仄暗いそれに一瞬気圧される。
噛み締められていた唇が思い出したように戦慄いた。
「……なんで、気付かないんだよ……」
脈絡のない言葉にクロードだけでなく警察の面々も首を傾げた。
まるで親の仇でも見るかの如く、暗い瞳が室内にいる者達を睨み付ける。
そこに浮かぶ激情は怒り、嘆き、憎み、苦しみ――……人間が持つ負の感情の大半が詰め込まれているように感じられた。握り締められた拳は力を込め過ぎたのか微かに血管が浮かぶ。
「遺体を見て、誰もおかしいと思わなかった訳? こんな簡単なこと、なんで分かんないの?」
「落ち着け。どの事件のことを言っているんだ?」
「っ、殺されたあの女の人の話だよ! この間、ココに来た時に見た!!」
――この間。それは一月前にセナが偶然見てしまった遺体のことか。
あの翌日に犯人が逮捕されたと新聞で取り沙汰されていたが、己とは無関係の事件だったため大した興味も湧かず、新聞の記事では犯人はその後に全財産を没収された上で絞首刑に処されたと載っていたはずだ。
だがセナにとっては終わってなどいなかったのだろう。
同時に屋敷から抜け出ていた理由を知る。
恐らく、あの日に見てしまった遺体の事件を独自に調べていたのだ。
「犯人だって言われてたヤツは絞首刑になる前に左手でサインをしたって新聞を読んでくれたベティさんが言ってた。正面から左利きの人間が人を刺したら、普通ナイフが刺さるのは右じゃないの? でも殺された女の人は左脇腹を刺されてた。処刑された人も最期まで無実を訴えてた。その人の家族や友人にも聞いてみたけど全員『左利きだった』って話してた。……なあ、ホントにちゃんと調べた? そうだと言い切れる証拠はあった? 最初に死体を見つけたからって犯人とは限らないだろ? そこは女の人に恨みを持ってそうなヤツがいないか調べるのが定石《じょうせき》じゃん?」
捲し立てられて驚いた。
セナは文字が読めない。それなのに聞いた新聞の記事の内容と自身の記憶から違和感を覚え、右も左も分からぬ街で一人、事件を追いかけていた。その事実に衝撃を受ける。
手に握られた薪には何かで切り付けられた跡がある。そして裂けた裾から覗く右腕には薄っすらと痣が出来ている。もしも殺人犯を探し、それと対峙するなら身を守るものが欲しかったはずだ。
「何故、誰にも頼らなかった? 一人で捕まえる気だったのか?」
宥めるために触れた肩は冷え切り、見た目よりずっと薄い。
「言ったさ! ああ、言ったよ! 警察署に来て話した!! でも誰も相手にしてくれなかったんだ!!」
「なら、私に言えば良かっただろう」
「保護者面すんな! わたしのことなんかホントはどうでも良いくせに!! 抜け出した理由を聞きもしないで『何か言うことはないか?』って冷たい目で責めただけだ!! 拾って、外に出さずに家の人間に世話させて、わたしが自分の意思を持って動いたらいけないのか?!」
手を振り払い、浴びせられる言葉に何も返せなかった。
勝手に屋敷を抜け出すセナを心の何処かで面倒だと感じていたし、何故そうするのか考えるよりも、勝手に行動されることに苛立ちを感じていた。
確かに、もう勝手にしろと放って向き合おうともしなかった。
息を詰めた音が聞こえたのか、血色の悪い唇が噛み締められる。
「話を聞いてくれないヤツなんか、頼れる訳ないっ!!」
ぽたりと淡い黄色味を帯びた拳の上に雫が落ちた。
俯いた表情は窺えないが、留まることなく落ちて行く雫は拾ってから初めて見る涙だった。
椅子にぐったりと凭れて項垂れる姿は迷子の幼子のように小さく痛々しい。
いや、まさにセナは迷子だった。雨の中、行く当てもなく、自分がどこに居るのかも分からず呆然とするしかない幼子そのもので。そんな状況に陥ったら殆どの者は不安に駆られて泣くだろう。
だがセナは泣くどころか己の感情すら口にしなかった。
一週間と少し、誰に頼るでもなく事件を追いかけながら孤独と不安に独りで耐えていたのか。
衣食住を与え、それで拾った者としての責務は充分果たしたのだと思い込んでいた。読み書きも出来ない、一般常識も分からない他国出身だと理解した気になって、その実は適当に対応していただけだ。現に拾ってから顔を合わせた数は両手の指ほどもない。
どうせ使用人達が教えるだろう。そのうち覚えるだろう。
甘えとも言えるそんな考えのまま他人任せにしていた自分にクロードは愕然とした。
そしてそれ故にセナは自分にも屋敷の者にも何も言わなかった。当たり前である。話をする前から背を向けられている状態で、その人間に助力を乞う者などいない。
思えば見かける姿は何時も、どことなく俯き加減だった。
生きるのに必要な物を与え、分からないだろうと世話をする者を選び、けれどそれらは何一つとしてセナの意思など顧みていない。ただ押し付ける一方だ。
屋敷を抜け出す暴挙は私がこの国の常識を知らぬから外へ出すなと言ったからだ。
しかしそれ以上は行動をしなかった。常識が分からないのであれば側に付く使用人に一般的な常識を教えておけと言うだけなのに、それすらもしなかった。
一体どのような思いで今まで日々を過ごしていたのか。
片膝をついて俯く顔を覗き込み、更に己の失態を思い知った。
これまで見た無表情でも、嫌そうな顔でも、苛立ち怒った顔でもない。傷付き、苦しみ、それでも縋るものもなく耐える――……捨てられた子供に似た表情《かお》だった。
「……すまない」
考えるよりも先に出たのはありきたりな謝罪。
涙を拭うために伸ばした手は顔を背ける形で拒絶される。
それでも構わず頬に触れて、幾筋も伝う雫を指で拭った。
「最初に手を差し出したのは私だったというのに、お前の意思を何一つ考慮していなかった。理解しようともしていなかった。……それはただの自己満足に過ぎない」
許してくれとはなんて傲慢で甘い考えか。
「私を信じられないというのなら、信じなくても構わん。だが、一人で抱え込もうとするな」
そうすることで最も傷付き、疲れ果てるのは目の前にいるセナ自身だ。
このまま心を磨り減らしていけばやがて壊れてしまうのは想像するまでもない。
自らの危険すら顧みず、見知らぬ誰かのために真実を追求する、痛いほどに真っ直ぐなその心を失くさないで欲しい。己が幼い頃に自ら捨ててしまったその真っ直ぐさが羨ましかった。
「今こんなことを言うのは虫が好過ぎると思うだろうが、少しずつでも良い。お前のことを話してくれ。感じたこと、考えたこと、気になっていること、それ以外でも。セナという人間を私に教えてくれ」
ピクリと涙で濡れた拳が動いた。
それをゆっくり開かせ、右手に持つ薪を手放させ、ハンカチで拭ってやると布地に薄っすら赤《あか》が付く。薪を持たぬ左手は握り締め過ぎて手の平に爪が食い込み、そこから血が滲んでいた。
俯いたまま背けられていた顔が此方を向き、視線が交わる。
「……知って、どうすんの……」
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