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# The third case:Remembrance.―想起―
夢、七夜。
しおりを挟む粉薬を口の中へ入れれば独特の苦みとえぐみが舌を襲った。昔あった不味くてドロリとした青汁の濃縮液を粉末にしたらきっとこんな酷い味になる。慌てて水を含んで胃に流し込んだ。薬ってこんなに苦いものだっただろうか。先に甘いものを食べていたから余計に苦味が強く感じられるのかもしれない。
何とか飲み込んでホッとしていれば伯爵の手によって口の中に何かが転がり込んだ。
カラリと口内のものを動かしてみると甘い味が薬の苦さを緩和してくれる。
…………これは飴?
伯爵を見れば「口直しに丁度良いだろう?」と何もかもお見通しのようだ。
それにしても拾われた当初の夢を見たせいか今の状況は酷く落ち着かない。
あの頃のわたしは伯爵をあまり信頼していなかったし、多分伯爵もわたしのことは偶然拾ってしまった他国の子供くらいにしか感じていなかったと思う。
人生何が起こるか分からないという言葉があるが、まさにそれだ。
ベッドに横になり、口の中にある飴を噛み砕きつつ椅子に座り直した伯爵を眺めてみる。
変わったことと言ったら何故か過保護さが発揮されたとか一緒に行動するようになったとか。一年程度ではお互いに見た目に変化もない。伯爵が無表情なのだって相変らずだ。
「……どうかしたのか?」
本を手に取ったものの、わたしの視線に気付いた伯爵がこちらを見る。ついでに言うと無作法にガリガリと飴を噛み砕く音も気になったらしい。
特に理由は無かったので首を振れば少し変な顔をされた。
それが可笑しくて声もなく笑ったわたしに伯爵は軽く息を吐き、毛布を肩まで引き上げてくれる。
「さっさと寝てしまえ。起きていては治るものも治らないだろう」
額に冷たく冷えたタオルを乗せられ、その気持ちの良さにわたしは目を閉じた。
* * * * *
セナが眠ったのを確認するとクロードはふっと短く息を吐いた。
夢の中でも事件を追っているようでは過労というより心労で倒れたのではなかろうかと、歳のわりに幼さの残る寝顔を見つめてしまう。
たった一年。されど一年。
自分にとってこの一年近くは今までとほぼ大差がなかった。
しかしセナからしてみれば波乱万丈な日々だったに違いない。
突然異国に連れて来られ、幸い言葉は通じるものの何故そこに自分がいるのかも分からず、身を寄せる当ても頼る者もおらず、落ち着ける場所を提供したつもりが予想外のことにクロードもついセナの事情を忘れてしまった。
後になって年頃の女性が男に扮して年上の男に仕えながら、血腥い事件に首を突っ込まざるを得なくなった状況に気付いて頭を抱えた。多少なりとも罪悪感を覚えたが、セナ自身も興味があるようで自ら突っ込んでいく場合が多く、一概に自分のせいだけとも言い切れないが。
何にせよ今回の件でクロードは自身の行いに少々反省していた。
基本的に口も性格も、一癖どころか二癖も三癖もあるわりに肝心なことは口にしないセナ。一年近くも傍らにいたのに倒れるまで体調を崩していたことに気付いてやれなかった自身も充分、不甲斐ない。
音を立てないように食器の載った盆を持ってセナの部屋を出た。
すぐ脇の壁に寄りかかっていただろうイルフェスが此方を見上げてくる。
部屋に行くなと言ったからか、入らずに外で待っていたようだ。
「一度起きたが食事を薬を飲んだ後はまた眠ったぞ」
クロードの言葉にイルフェスは小さく頷いた。
それからパッと何かを思い出した様子で顔を上げる。
「あ、刑事さんがいらっしゃってます! バジョットさんだそうです!」
「刑事が? まだ居るのか?」
「はい。えっと、一階の応接室にいらっしゃいます」
他の使用人に頼まれた伝言なのだろう。やや片言に聞こえる言葉に「分かった」と頷き、イルフェスの頭へ軽く手を置いた。柔らかな茶髪の感触に布を濡らすために外した手袋の存在を思い出す。
それよりも、あの刑事が来たということは大抵何かしらの事件へ協力要請だ。ただでさえセナが倒れたというのに時機が悪い。たまには此方の力に頼らず難事件の一つくらい解決して欲しいものだと内心でぼやいた。
通りかかった使用人に『セナの様子を見ていてくれ』とベティへの言付けを頼み、一階に向かう。
軽い足音が後ろをついて来た。
……良い機会だ、イルフェスも今回は参加させるか。
そういう予定であったのだ。問題あるまい。
セナがいればそれこそ「事件の内容如何という話では?」と半眼で言いそうだが、生憎、今此処にはいない。大事にするのは良いが甘やかしては何時まで経ってもイルフェスの目標には届かない。
「イルフェス、今回は私の傍仕えとしてついて仕事を見ていろ」
「いいの?」
「ああ。だが言葉遣いを忘れるな」
「あっ、申し訳ありません!」
実はセナの心配を他所《よそ》にイルフェスは何かと仕事について来たがっていた。
今回様子を見て問題がなければ今後も少しずつ手伝わせれば良い。駄目だった時は使えるようになるまで教養と知識と度胸を叩き込むまでだなどと空恐ろしいことをクロードが考えているとは露知らず、イルフェスは主人の背中を追いかける。
看病のために少し捲っていた袖を戻し、ポケットに入れていた手袋をはめて襟元を正す。
その様子を見ていただろうイルフェスが真似するように自身の身形を整えた。
それにチラリと一瞥し、一階の応接室に辿り着いたクロードは躊躇うことなく扉を開ける。
室内には顔馴染みとなった刑事が一人、我が物顔でソファーに座っていた。一般男性よりも大柄で熊のような男は本人の忙しさを物語っているような少しよれた服を着て、しかし此方に視線を向けるとサッと素早い身のこなしで立ち上がる。
「突然すんませんね」
全くだと愚痴を零したくなったが、男の目の下に出来た隈を見てしまえば言葉はすぐに胸の内から消え去った。この体力が取り得と言わんばかりの男がこうも疲れた顔をするとは珍しい。
クロードがソファーに腰掛けると相手も座り直す。
「構わん。それで、今回は何だ?」
「それがまた面倒な事が起きてまして――って、そっちの坊主は?」
「ああ、新しい使用人だ。今回はこれも同行させる予定だ」
「……こう言っちゃあ何ですがね、あんまり子供ばかり側仕えにしていると妙な噂が立っちまいますぜ?」
頬を引きつらせる男とは正反対に、明るい声が「初めまして、イルフェス=ハーパーと申します。よろしくお願いいたします」と挨拶を告げる。そういえば教会の事件にこの刑事が関わっていたことを伝えていないので知らないのだろう。
「いや、それは知ってるけどよ」と困惑気味の男をクロードは暫し眺めた。
自分に対してどんな噂が流れているかくらい知っている。
セナを拾い、近侍として頻繁に側へ置き始めてから私は『少年趣味』だとくだらない噂が実しやかに流れているのだ。実年齢よりも幼い顔立ちのセナを見て、伯爵家をよく思わぬ者が言い出したデマだ。
「これもなかなかに頑固でな。何度追い払っても諦めん」
クロードの言葉に男が感心半分、呆れ半分といった表情でイルフェスを見た。だが当の本人は欠片も悪意のない笑みを浮べて教育通り、クロードが座るソファーの一歩後ろに立つ。
刑事はそれ以上追及することはなかった。
この話は終わりだと軽く手を払えば、男の背筋が伸びる。
「で、改めて問おう。今回は何だ?」
「実は此処数日、下水から死体が何回も見つかっているんですがね。ちょっとこれを見てください」
男はテーブルの上に街の地図を広げる。
それほど大きくもないそこには幾つか赤いインクで×が描かれていた。
全体に目を通してその印の位置に規則性がないことを確認し、顔を上げる。
「五ヶ所か。被害者が多いな」
「いえ、困ったことに被害者の人数がハッキリとは分からないんですよ」
「?」
印が付いているのに被害者の人数が分からない?
思わず眉を顰めれば、すぐ後ろからも不思議そうな雰囲気が感じられた。
しかしセナにきちんと教えられているのか口を挟むことはない。
クロードが問いかける前に刑事がやや重たげに口を開いた。
「どれが誰のどの部分なのかすら判別出来ないくらい、全員バラバラに刻まれてるんですよ」
「なるほど。発見した遺体はどうしている?」
「分かるモンは分けてますが、判別不可能なモンは纏めてあります」
「なら手の指か足の指だけ探して数えろ。人間の手足の指は基本、十しかない。拾い残しがあろうがなかろうが、それで大まかな人数は分かる」
男が酷く嫌そうな顔で「見るだけでもキツイって言うのにアレに触って来いって言うんですかい?」と口元を手で覆ってぼやく。
話の流れでその光景を想像してしまい釣られて眉間に皺が寄る。
溜め息を零して肩を落とす刑事に内心で同情したが、やらなくても良いとは言わなかった。
不意にクッと斜め後ろから服を微かに引っ張られる感覚がして視線を向ければ、イルフェスがクロードの服の裾を掴んでいた。
何か言いたげな様子で此方を見つめてくる瞳に注意をするべきか、話を聞いてやるべきか悩み、結局両方を取って声をかける。
「客人との会話に立ち入るな」
「申し訳ありません……」
「以後気を付けろ。それで、どうした」
問い返すと嬉しそうに表情が明るくなり、それから真面目な顔で地図を指差した。
「今日ここでヘンな臭いがしました」
「変? どんな臭いだったか覚えてるか、坊主」
「ええっと、くさい……嫌な臭い……」
イルフェスの言葉に、そういえばリディングストン家からの帰り道にこの辺りを馬車で通ったなとクロードは思い出す。確かにあの時、声を上げていた。
セナが何も臭いはしないと言っていたので気にも留めなかったが、今思えばあれは体調を崩して鼻が利かなかったのかもしれない。
必死で思い出そうと悩むイルフェスに視線を向ければ茶色の瞳がパッと瞼を押し上げる。
「あっ、食べ物が腐った時みたいな、です!」
「だ、そうだ」
分かるような、分からないような、そんな微妙な例えに刑事が小さく唸る。
「腐った食べ物の臭い、ねぇ」
「此の橋の近辺も調べておいてくれ」
「分かりました。伯爵の指示とあれば、溝だろうと下水だろうと喜んで探させて頂きますよ」
「ほう、それは頼もしいな」
皮肉とも冗談ともつかない言葉に笑いながらクロードは立ち上がる。
刑事も立ち上がり、一度握手を交わして客間を出て行った。外に控えていただろう使用人と共に去って行く刑事の足音が聞こえなくなってから、イルフェスが息を吐く。
かなり緊張していたようで、何度か小さく深呼吸を繰り返した。
騒がず、必要以上に口を挟まず、あまりに緊張して言葉が出ないといった様子もなく、セナから人見知りをすると聞いていたが初めて客人の前へ出たにしては上出来だ。
「本当にお前もセナのようになるかもしれんな」
そう言ったクロードに、イルフェスは無邪気な笑顔で返事をした。
* * * * *
「イルフェスがわたしの代わりに、ですか?」
医者が処方した薬のお陰か、少し熱も落ち着いたセナが体を起こしながら目を丸くした。
そうは言えども、まだ大分顔は赤い。
シャツにカーティガンを羽織っただけの格好なので見る者が見れば、すぐに性別がバレてしまうだろうが、幸いこの屋敷は余程のことがない限りお抱えの医者であっても無断で立ち入ることは許されない。
上階の此処まで人に忍び込まれる心配もない。
「そうだ」
「……事件に同行するのは内容次第という話では?」
予想通り眉を顰めて半眼を向けられたが、弱っている人間に睨まれても怖くも何ともない。
無視してその手へミルク粥の入った皿を載せると渋々といった体でスプーンを口に運ぶ。
丈夫なのが取り得と言っていただけあって、一日ぐっすり眠ると一人で問題なく食事を摂れる程度にまで体調は戻っていた。しかし、だからといって仕事をさせるつもりはない。
使用人達もセナが部屋から出ると即刻連れ戻しているらしく、本人は不満げだ。
「本人は喜んでいたぞ」
「ですが、まだついて行けないと思います」
「だとしてもお前のようになりたいと言い出したのはイルフェス自身だ。此処にいて、お前を目標とする以上、嫌でも慣れるしかない」
アルマンの名の下にいる限り、どう足掻いても血腥い事件はやってくる。
セナもそれを分かっているのか口を噤んだ。
「無論、易々と危険に晒すつもりはない。だが絶対に守ってやるとも言えん。それでも出来うる限りイルフェスの身の安全には気を配るつもりだ」
「……そう言われては、わたしは頷くしかありませんね。伯爵の責任感の強さは筋金入りだって身を以《もっ》て知っていますし」
苦笑と共に告げられた言葉に厚い信頼を感じてむず痒い気持ちになり、それを誤魔化すようにクロードは乱れてもいない襟元を正す。
普段は捻くれている癖に、賞賛する時は直接的な表現を使われると少々気恥ずかしい。
「大丈夫だとは思いますが目を離さないでくださいね。あの子、ああ見えて意固地ですから」
「それは既に理解している」
それに関しては雇い入れるまでの経緯という前例があるからな。
目の前にいるセナを見つつ言うと赤い顔が苦笑した。
しかし直ぐさま人の悪い笑みに取って代わり、口を開く。
「まるでヤンチャな我が子を心配する夫婦みたいですね」
「妙な例えをするな。私はもう行く」
いきなり変なことを言い出すセナに嫌な予感がして早々に部屋を出てしまおうと立ち上がったけれど、向こうの方が早かった。
「イルのことをお願いしますね、旦那様」
誰が父親だ、この性悪め。
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