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# The third case:Remembrance.―想起―
夢、六夜。
しおりを挟む早く自分の居場所の把握と帰る当てを探さなければ。
漏れそうな溜め息を飲み込むと同時に扉が叩かれる。「どうぞ」と声をかければ一週間ぶりに男が姿を現した。同じ屋根の下にいてもこれだけ広ければ会う機会も少なくなると知った。
男は近付いて来たものの甘いものを好まないのか少し眉を顰めて菓子に視線を落とし、それから此方へ向き直る。
椅子に座り見上げるわたしにブルーグレーの瞳が細まった。
「少しは慣れたか?」
全然慣れる訳がない。ここはテレビも携帯も、電気すらない生活だ。
基本的に外出は出来ないし、屋敷内をふらふらする訳にもいかないし、何もすることがないのでベティさんに頼んで何冊か本を読んでもらったり、思考の海に沈んだりしていた。
そうやって一週間も過ごしてしまえば嫌でもこの世界がわたしの生まれた世界とは似て非なる別の世界なのだと思い知らされた。時間や日にちの単位、一年の長さなどは同じでも、世界地図や国名、文化、物などに様々な差異があると思い知らされた。
わたしは世界で独りぼっち。
泣いて、叫んで、思うままに暴れられたらどんなにラクか。
だけどそうしたところで何の意味もない。
世話になっているだけでも問題なのに、暴れて泣き叫んで余計に迷惑をかけて‘手に負えない’と見捨てられてしまったら右も左も分からないこの世界でわたしは生きていけないだろう。
男は手袋に包まれた手の指でテーブルを軽く叩いた。
「返事ぐらい出来ないのか? ……まあ、いい。明日は出掛ける。ベティ、そのつもりで支度をさせろ」
「はい、畏まりました」
男は言いたいことを言って返事も聞かずに居間を出て行く。
離れていく足音が酷く冷たいもののように聞こえた。
ベティさんが気遣わしげに視線を向けてきたけれど、椅子に背を預けて深く息を吐き出す。
……帰りたい。何でわたしはココにいるのだろう?
その日は夕食を全く口に出来なかった。
浅い眠りと覚醒を繰り返して迎えた翌日、わたしを起こして朝食を食べさせるとベティさんは今まで着ていたものより少し上等な服を用意した。これまでは控えめだった刺繍がベストやコート全体に施されていて目立つ。
それに着替えてベティさんの案内で廊下に出ると、丁度執事がこちらへ歩いて来るところだった。目が合うと好々爺然とした笑みを向けられたので「おはようございます」と挨拶をすると同様に返された。
そうして「お迎えに上がりました。ホールへ参りましょう」とわたしの背を軽く押した。
促されてついて行くと男が玄関ホールに立っていた。
わたしの格好を見た男に「寒くないか?」と聞かれ、別段寒くなかったので頷き返す。
お互い似たような恰好だが実は重ね着でもしているのだろうか?
男について屋敷を出て、拾われた時のように馬車へ乗る。
何か話をするでもなく男は馬車が動き出すと本を読み出しだ。それを眺めているのも気まずかったので、カーテンの隙間から見える街の景色へ視線を移す。昼間の街は賑わっている。
一般人の服はあまり綺麗とは言い難い。何度も洗い、繕い直して着ているせいか、色が落ちていたり擦れていたりと随分着古している感じがあった。ココではそれが普通なのだと脱走した二度の外出で理解した。
それに比べたら目の前で優雅に読書をする男の服も、わたしが着ている服も、着古した感じはほとんどない。思い起こしてみると屋敷で働く人々が着る服もくたびれた感じはなかった。
何となく視線を正面へ戻すと何時の間にか相手もわたしを見ていた。
「もうすぐ着く」
「……どこにですか」
「警察署だ」
「え?」
もしや警察署に身柄を移すつもりか?
そう聞くと変な顔をされた。
意図せずと言っても不法入国してるわたしは逮捕されても仕方がない。
しかしそういう訳ではないようで、男は顎に手を添えて考えるような仕草をした後に「入国に関してお前に責任はない。だがこのままでは問題があるので入国の手続きをしに行くだけだ」と言った。
あ、逮捕されないんだ。良かった。
でもそうだとしたら、わたしは何時まで男の世話になるのだろう?
疑問を口にする前に馬車が停まり、目的地に到着する。
目の前に建つ建物が恐らく警察署だと思う。警察署にしては洒落た外観だが、それはわたしがそう感じているだけかもしれない。左隣にも似た建築の建物が並んでいるが、そちらは人気がなく閑散としていた。
馬車から降りて男の後を追って警察署の中へ足を踏み入れると、ホールはやはり吹き抜けで、各所に受付のようなものが幾つも設置してある。入ってきた人々は自分の用事に従って決められた受付に向かうらしい。そこは元の世界のものと変わらないな。
男は全く人のいない受付に歩き出した。
その受付にはやる気のなさそうな中年の男性が一人座っており、わたし達を見て興味津々な眼差しを隠しもせずに向けてくる。
「入国申請の用紙を一枚」
「畏まりました。お持ち致しますので奥へどうぞ」
男は好奇に満ちた視線を完全に無視して手で示された方へ向かう。
そして幾つかある扉の一つに歩み寄り、扉にかけられた板をひっくり返して中へ入る。板は使用中を示すためのものだろう。生憎わたしには読めない文字だった。
中には大きな丸テーブルと複数の椅子があった。調度品の絵画やら壺やらも見えるが席につく。正面に座ろうとしたのに、有無を言わせず隣に座らせられた。
少しして先ほど受付をしていた男性が書類を、初めて見る女性がティーセットを運び、テーブルの上へ並べて一礼して出て行った。
それからテーブルに備え付けられていた羽ペンを持ち、インク壺に先を浸しながら男がしてくる質問に答える遣り取りを何度か繰り返した。
質問内容は生年月日、年齢、性別、教育の有無、職業、家柄、入国理由、犯罪歴など様々だ。
中でも年齢に関して一悶着が起きた。
「本当に十六歳だってば」
「いや、国が違えば歳の数え方が違うということも……」
「ない! 生まれて十六年経ってるから!」
元の世界ではきちんと年相応に見えていたはずだ。
年齢の欄で十六と答えたわたしに疑いの目が向けられるものだから思わず隣りに座っていた男を睨み付けてしまう。聞いてみたところ十二、三だと思っていたというのだから民族的特徴の童顔は馬鹿にならない。
生年月日は月と日にちだけ答えたので、年齢から逆算したのか男は生年の部分へ数字らしき文字を書き込む。それはほぼ形が変わらないので何とか読めたけれど読み書きの勉強は必須だ。
教育の有無に関しては出身国で約十年学校に通っていたことを話したため「有」、家柄も一般と言ったが長期で教育を受けるだけの余裕と教育を受ける義務があることから「貴族」の扱いにしたらしい。
やっと書類を書き終え、テーブルの上にあったベルを鳴らせばティーセットを持ってきた女性がやけに大きな物を運び入れ、書類を受け取って不備がないかの確認をした。席についたまま運び入れた物に向きを変えさせると、それにかかっていた布が外された。
大型のカメラだ。古い。三脚で立っていて上は箱である。
「動かないでくださいね」
と前置きしてやけに強いストロボを焚かれて目がチカチカする。
影の焼き付いてしまった視界のまま視線を動かすと何かが男に手渡される。
「お前の入国許可証だ。滞在許可証でもある。絶対に失くすな」
何枚かある紙から渡されたのは一枚の鉄のプレート。
そこには番号と何かの文字と花の絵が彫られていた。
驚いて男を見上げれば丸めた書類で軽く頭を叩かれる。
「拾った以上、私にはお前の世話をする責任がある。交流のない国より連れて来られたとすれば非合法なやり方だろう。酷な話だが交流もなく聞いたこともない国へお前を返す方法はない。……だが行く当てがない以上は屋敷に置いてやる」
男はそう言って書類を持ち、女性に何かを手渡すと部屋の出入り口へ向かう。
呆けてしまっていたがハッと我に返り慌ててその背中を追いかけた。
ちょっと冷たい男だと思っていたが、実はそうでもないのかもしれない。少なくとも、わたしは警察に引き渡されることも放り出されることもなさそうだ。
前を行く男と共に警察署を出て階段を下りていると、不意に隣りの建物の前に馬車が停まった。
他の馬車と違い簡素で、黒塗りで、やや後ろに長い形になっている。左右に扉はなさそうだ。御者台に乗っていた男達と馬車の後ろに掴まるようにして乗っていた男達が後ろの扉を開けて数人がかりで中から何かを引っ張り出す。
長い板のようなものに載せられた何かは中身を隠すように布がかけられていた。
……何だ、あれは?
立ち止まって男達が運ぶものを凝視していたからか、男に名前を呼ばれる。一度正面へ向いたものの、数歩ほど歩いてからやはり気になってしまい振り返った。
不意にそれを運んでいた男達が声を上げた。
誰かが躓いたのかバランスが崩れて板の片方が地面に落ちる。そのせいで、かけられていた布が外れて中身が露わになった。
「っ!?」
「見るな!」
怒声にも似た男の声と共に視界を塞ぐように手袋をした手が伸ばされる。
でも一歩遅かった。ハッキリと目に焼き付いた光景が瞼の裏に映り、脳へ送られる。それが一体何なのか理解した瞬間、込み上げてくる嘔吐感に思わず口元を押さえた。
人間の成れの果て――――……死体だった。それもただの死体ではない。
左腹部を真っ赤に染め上げ、苦悶の表情で息絶えた中年の女性は肌が紙のように白い。閉じられていない濁ったアンバーの瞳と目が合ってしまった。気のせいだと分かっていても悪寒が走る。
男達が慌てて布をかけ直して建物へ運び込む。
……そうか、ココは遺体安置所なんだ。だから人気がなかったのか。
遺体安置所を設けるなら警察署の隣は確かに色々と効率的である。
そんな事を頭の片隅で考えながらも、襲って来た眩暈《めまい》に耐え切れずわたしは意識を手放した。
* * * * *
鼻腔をくすぐる甘く優しい香りに自然と目が覚めた。
見慣れない天井が視界いっぱいに広がっていて、一瞬ココがどこなのか分からなかった。
視線を天井からゆっくり横へ動かしていけばベッドの傍らで椅子に座って読書をする伯爵がいた。
何気なく本を脇のテーブルに置き、こちらを向いたブルーグレーの瞳が驚いたように見開かれ、椅子から立ち上がった。額のタオルが外されると温い空気が額を抜けていく。
まだ夢の途中なのだとぼんやりした頭が勘違いした。
「……あの人は……?」
わたしの問いに伯爵は不思議そうに「あの人?」と聞き返してくる。
そう、あの遺体安置所に運ばれていった女性のことだ。
そこでやっと今さっきまで見ていたものが夢だったのだと気付く。
一年近く経ったのにあそこまで鮮明に覚えているということは、わたしにとってあの時の記憶は忘れ難いほどに印象が強かったのだろう。生まれて初めて人に殺された人間の遺体を見た瞬間だった。
伯爵は少しの間、視線を斜め上へ向け、それから何かを思い出した様子で「……ああ」と呟く。
「随分懐かしい夢を見ていたようだな」
「はい、もう一年近く経つんですね」
「あの時は受け止めたから良かったものの、もし階段から転げ落ちたら怪我どころでは済まなかったぞ?」
どこか憤慨した様子の伯爵に小さく謝っておく。
あの後、目を覚ましたわたしは伯爵に先ほどと同じ問いかけをしたのだ。
亡くなった女性はどうなったのか、と。記憶が正しければあの遺体は親族に引き取られ、ひっそり埋葬されるだろうと聞いたはずだ。
今になって思い出すだなんて熱のせいで本格的に参っているのかもしれない。
喉の渇きにサイドテーブルの水差しへ手を伸ばせば、伯爵が水差しからグラスへ中身を注いでくれる。まだ怠い体に力を入れて起き上がり、少し背を支えてもらいながら水を飲む。渡されたそれは冷たく、ほのかに果物の味がした。
「消化の良い物を用意させたが、食欲はあるか?」
先ほどから香っていた良い匂いは食事らしい。本当はあまり食欲はないけれど、食べなければ薬も飲めないので頷く。伯爵はわたしの様子を見つつテーブルに置かれていた食事を盆ごと持って来てくれた。
ミルクにパンと砂糖を入れて柔らかく煮込んだミルク粥かな。
体が疲れているせいかミルク粥の甘い匂いが酷く魅力的に感じる。
器を受け取ろうとすれば「まだ熱いから直に触るな」と何故か遠ざけられた。そして自身の膝の上に盆を置き、スプーンで粥を掬った伯爵は、何度かそれに息を吹きかけて覚ますとわたしの口許へスプーンを寄せた。
誰かに食べさせてもらうなんて十七年間の中で覚えている間には一度もない。
あるとしたら物心つくかどうかの幼い頃くらいだろうな。
恥かしさに顔を背けてしまいたかったが、食べろという無言の圧力と、漂う匂いの誘惑に負けて渋々口を開く。スプーンが差し込まれ、口を閉じれば慎重にゆっくり引き抜かれる。
温かさと共に甘く柔らかなミルクとパンの味が口の中に広がった。砂糖を使っていると思っていたが微かに蜂蜜の匂いがする。自分が思っていたよりも空腹だったようで、飲み込めば胃の辺りが凹むような感覚がした。
差し出されるままミルク粥を消費し、あっと言う間に食べ終えてしまった。
「これだけ食欲があれば問題ないな」なんて微苦笑されつつ、今度は白い小さな紙に包まれた薬と水を手渡される。錠剤なんてものはないので当たり前だが中身は粉薬だ。
「……粉ですか……」
「我慢しろ。薬なんて大抵そうだろう?」
「錠剤作ってもらいましょうよ。……こう小さな粒になっていて、苦味もないから飲みやすいやつ。伯爵から作るよう言ってください」
「こんなことで一々伯爵の地位を使おうとするな。粉薬くらい文句を言わずに飲め」
きちんと飲むか確認するつもりなのだろう。ジッと見つめられては諦める他ない。
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