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# The third case:Remembrance.―想起―
夢、四夜。
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「――――…ナ、セナ」
肩を控えめに叩かれて意識が浮上する。
重い瞼をこじ開けると伯爵がわたしを覗き込んでいた。
「医者が来たぞ」
視線を動かしてみれば、伯爵の隣りに見覚えのある初老の男性がいた。
拾われた当初から何度も検診に来てくれている医者だった。
伯爵の主治医であり、わたしが女だと知る数少ない人物でもある。患者の情報を漏らすくらいなら医者を辞めて首を括ると豪語するだけあって伯爵の信頼も厚い。
「こんばんは。もし話せるのなら具合を教えてもらえるかな?」
ゆっくりと穏やかな口調で問い掛けられる。
少し休んだからか、眠る前よりも頭痛や吐き気は軽くなっていた。
「頭痛と、吐き気があります……」
「そうかい、そうかい。何時頃から体調は悪かったんだい?」
「多分、午後からです。……昼食の後、珍しく転寝をしてしまって……」
「ふむふむ。じゃあ口の中を見せてもらおうかねぇ」
促されて口を開けると喉を覗き込まれ、それから思い出したように振り返る。
「申し訳ないのですが、暫し後ろを向いていただけますかな」と伯爵に背を向けさせ「ちょっと失礼するよ」とシャツの前を開けて困った顔をされた。
お手製のノースリーブ型ステイズ――コルセットのことだ――を下に着ているため、これも脱がなければ触診も打診も出来ない。
伯爵は背を向けているしいいかとシャツを脱ぎ、ステイズの紐を緩める。
緩めたその隙間に手が当てられた。
何度か確かめるように触れ、手の平越しに胸部と腹部を軽くトントンと叩かれる。
「痛みはあるかな?」
「……いえ」
「そうか、それは良かった。さあ、もう服を着ていいよ。ああ、でもその肌着は緩めたままでね」
「はい……」
わたしが首を振ると、シャツの前を素早く留め、毛布をかけ直してくれた。
振り返っていいと許可を得た伯爵が此方へ向く。
眼球を確認した後、医者は伯爵に言った。
「恐らく過労ですな」
「……風邪ではないのか」
「ええ、喉も痛めておりませんし鼻も出ておりません。お腹を下したり関節を痛めている様子もありません。他所の国から来て慣れない環境で疲れが溜まったのでしょう。心配は要りませんよ、疲れが表に出るということは慣れてきた証です。きっと気が緩んでしまったんですね。熱が下がるまではしっかり休ませてあげてください」
「一応熱を下げる効果のある薬を出しておきますね」と医者が鞄の中から薬を取り出した。
伯爵が用法用量を確認しているのが、どこか遠くに感じる。
……そんなに疲れているつもりはなかったのにな。
気付かない間に疲労が溜まっていたところに、夜更かしして読書をしたのが祟ったのだろうか。健康が取り柄の一つだっただけに、疲労で倒れるなんて思いもよらなかった。まるで働き過ぎたサラリーマンである。
そっと頭に触れられた手に視線を向ければ、目尻を下げた医者がわたしを見ていた。
「疲れた時にはきちんと言わないと駄目だよ。君は確かに身寄りもなくて、頑張らないといけないのかもしれないけれど、もっと自分の体を労ってあげなさい」
「……ごめんなさい……」
「分かればよろしい。暫く仕事はお休みして疲れを取るように」
「……はい」
ニッコリと好好爺の笑みを浮かべて医者は立ち上がった。
伯爵が礼を述べ、見送りのために連れ立って出て行く。
わたしだけになった部屋の中で溜め息が零れた。
迷惑をかけないようにしていたはずなのに、こんな形で逆に迷惑をかけることになるなんて…。
しかもお姫様抱っことかどんな羞恥プレイだ!
絶対使用人全員に知れ渡っているに違いない。
数ヶ月前の事件が頭を過ぎり枕に顔を埋めて呻く。
「あー……、消えろ、忘れろ、思い出すなー……」
「何をだ」
「!?」
驚いて顔を動かすと、丁度伯爵が扉を閉めるところだった。
呟きをバッチリ聞かれていたらしい。
「それで、何を忘れたいんだ?」
温くなった額の布を取り替えてくれながら問い掛けられる。
「な、なんでもないデス。過労で倒れるとか、働き過ぎのオッサンみたいですよね」
「酷い言い様だな」
「だって、わたしは丈夫さが取り柄だったのに……」
伯爵は可笑しかったのかクツクツと笑うが、全然笑いごとじゃない。
肩を揺らす伯爵を睨めば軽く咳払いをして誤魔化される。
「考えてみれば、碌に休みを与えていなかったな」
「事件がなければ近侍としての仕事だけでしたし、それも苦ではないですよ」
変な言い方ではあるけれど、わたしはこの仕事が好きだ。
ミステリーや刑事モノが大好きだったので、地道に証拠を集めて犯人に辿り着く探偵みたいな伯爵の仕事は不謹慎だがワクワクする。疲れなんて感じないくらいには今の生活を気に入っているんだと思う。
伯爵がわたしの頭に触れた。不器用な手付きで髪を撫でる。
時々こうやって伯爵はわたしを子供扱いする。嫌いではないけれど、十七歳を子ども扱いするのはどうだろうか。この世界では成人済みだぞ。そしてそういう時は決まってブルーグレーの瞳が見守るように細められるので、何時も少しバツが悪くなる。
「子供扱いしないでください」
「お前の生まれた国では、十七はまだ子供なのだろう?」
「でも、ここでは大人です。それから、いくら何でも横抱きで運ぶなんてどうかしてます。男色の気があると勘違いされてしまいますよ?」
「歩かせる訳にはいかなかったからな。それに此処の使用人達はそのようなくだらぬ噂は流さん」
頭を撫でていた手が離れ、これで会話は終わりだと言わんばかりにまた瞼の上に乗せられる。
喋って疲れたのか、目を閉じると眠気が押し寄せてくる。
促されるまま、わたしは意識を手放した。
* * * * *
セナが眠ったのを確認し、クロードはゆっくりと瞼から手を離した。
熱のせいかやや早い呼吸ではあるが疲れていたようで深く眠っている。
看病なら家政婦長のベティにも出来た。彼女はセナと同性で気心も知れた、世話焼きな性格なので任せても問題ない。だが倒れるまで働かせ、それに気付かなかったのは自分の責任なのだから、看病は自分がして然るべきだとも何故か頭の中で声がした。
普段よりも幼い寝顔を見る。
――…お、下ろしてください……!
熱だけではないだろう、顔を赤くして慌てて離れようとする姿がふと重なった。
常だと性別なんてこれっぽちも意識していないのに、偶にああして異性であることを自覚されるとクロードの方も変に意識してしまいそうになる。
十七と言えどクロードから見ればセナは小柄で童顔でまだまだ子供っぽい部分があり、そういった対象として見てはいないし、見る予定もない。そのはずなのだが――……
「もう少し、自覚を持て」
なだらかな頬を軽く指で突けば、うるさそうに眉を顰めて顔が背けられる。
どうせだから今回は数日ゆっくり休ませよう。
乱れたシーツを整えてやり、クロードは立ち上がった。
起きた時のために、消化の良い栄養のある食事と飲み物を用意しておこう。
もう一度セナが眠っていることを確かめてから、そっと部屋を出た。
廊下を歩いていると数人の使用人に話しかけられる。皆一様にセナの身を案じ、過労だと述べた時の顔は酷く複雑そうだった。
セナの休みを進言する者もいれば、中には仕事のことで話を聞いてもらっていたと言う者もいて。聞けばセナは休日に屋敷のあちらこちらで話を聞いては仕事を効率的に行う方法を教えて回っていたらしい。
これでは事件があろうとなかろうと疲弊する訳だ。
出掛けもしないのに休日は全く見かけないと思っていたが、こういった理由があったのかと知らず知らずの内に溜め息が零れ落ちた。
更に歩いていると軽い足音が聞こえて来る。
音の感じからすると子供だろう。
少し立ち止まっていれば案の定、曲がり角から飛び出して来たイルフェスが目を見開いた。
「旦那様!」
「イルフェス、廊下は走るなと言っているだろう」
「あ、ごめんなさい……」
肩を落とすイルフェスの頭に手を置く。
こうやって軽く撫でてやるとイルフェスは気分をすぐに持ち直す。
思った通り手を離した時にはもう落ち込んではいなかった。
「旦那様、セナは風邪? ……ですかっ?」
言いかけ、慌てて敬語に直したイルフェスに頷く。
今回は此方が指摘する前に自ら気付いたようだ。
「風邪ではない。疲れが溜まっていたそうだ」
「セナは大丈夫ですか?」
「ああ、暫く休めば良くなる」
「良かった!」
安心したのかニコリと笑う。この屋敷でイルフェスが一番慕っているのはセナだから当たり前か。
しかし二人が共にいては気が休まらないだろう。
「用がないなら暫くセナの部屋には行くな。ゆっくり休ませてやれ」
言うと眉を下げつつもイルフェスは頷いた。
もう一度頭を撫でてやり、それから仕事に戻るように言い付け、自室へ帰した。
途中で捕まえた従僕のアンディにセナの容態と、何か消化の良い物を用意しておくよう言えば二つ返事で了承された。余程セナは気に入られているらしい。
ついでに新しい水桶を貰い、今手にしているものを代わりに渡す。
「此れを片付けておいてくれ」
「畏まりました。……あの」
「何だ?」
「宜しければ、そちらの花も花瓶に入れておきましょうか?」
花と言われて何のことかと思い、自分の胸元を見て納得した。
グロリアのところで付けた花がそのままだった。
かなり萎れてしまっているが、とりあえず花も渡せば「後ほど寝室にお持ち致します」とアンディは小さく微笑み去って行く。
それを見送りクロードも客室へ戻る。
ノックをしたものの当然だが返事はない。
極力音を立てぬ様に扉を開けると、やはり深く眠っていた。
額の布を新しい水桶に浸けてから再度乗せ直し、手近な椅子を引き寄せて腰掛けたは良いが手持ち無沙汰になってしまう。
何とはなしに部屋を見渡し、目に付いた本を手に取る。
馬車に置きっ放しにしていた本をアランが持って来ておいたのだろう。
セナが目を覚ますまでの暇潰しに、クロードはそれへ視線を落とした。
* * * * *
雨が、降っていた。
土砂降りとまではいかないが、そこそこ強い雨脚で道には水溜まりが幾つも生まれている。
お世辞にも滑らかとは言い難い凹凸のある石畳の、薄暗い路地のような場所。
その片隅に何故かわたしは座り込んでいた。
何時からここにいたのか分からないけれど、服がびしょ濡れになっていることからして短時間はないだろう。
……どこだよ、ココ。
自宅周辺どころか生まれ育った街でも探したってこんなヨーロッパ風な街並みの続く場所はないし、今の御時世できちんと平らに均されていない石畳も珍しい。
記憶を辿ってみたが切れてしまった糸の如く途絶え、手繰り寄せてみても我に返る前後のことは思い出せなかった。
…………寒い。
やっと残暑が和らぎ始めた秋口で、七分丈の上着とスキニージーンズというラフな格好でもまだ暑い日があるほどだったはずなのに、今は濡れて体の芯まで冷えていた。このままじゃ冗談抜きで風邪を引く。
せめて屋根のある場所に移ろうと地面に手を付いて立ち上がろうとした時、路地の奥からパシャパシャと控えめに水を撥ねる音がした。
今度は何だと身を硬くして暗闇を見つめていれば、人影が現れる。
背格好からして男だろうが殆ど目にしたことのない服装だ。
何と表現すべきか、中世以降現代以前のヨーロッパの王宮ドラマや歴史モノ番組で出てきそうな、ドレスを着た女性と一緒に立っていても不思議のない恰好だった。燕尾服に似てるが形は違う。
わたしが気付いたように、男もわたしに気が付いたのか立ち止まった。
顔に当たる雨を避けるために目元から額にかけて翳《かざ》す手が下ろされ、男の顔が露《あら》わになる。暗い中でも僅かな光を吸って反射する銀灰色の髪に、彫りの深いビスク・ドールみたいに整った顔立ちは、色の白さのせいか酷く作りものめいて見えた。無表情さが更に冷たい印象を抱かせる。
たっぷり数秒、わたしを見つめた後に相手の口が動く。
「こんな夜更けに何をしている?」
落ち着いた低い声音は男によく似合っている。
「……そんなの、こっちが聞きたいくらいだよ」
気付いたら訳分かんない場所にいるし、びしょ濡れだし、寒いし、どうしてココいるのか分からないし、何も持っていない。半ば八つ当たり気味に吐き出した言葉に男が眉を顰めた。
「まさか正規の手続きを踏んでいないのか?」
暫くの間があって、男にそう問いかけられた。
「手続きってのが何なのか分からないけど、多分してない。気付いたらココにいたから」
「人攫いに遭ったか。此処に来る前に何をしていた?」
「……分からない。思い出せない……」
不安と寒さに震える体を両腕で抱きしめれば、視界に白い手袋をはめた手が飛び込んでくる。
思わず整った顔を見上げたわたしに「このままでは風邪を引く。行く当てがないならついて来い」と男は続けた。
その時、その手を取る以外に選択肢はなかった。
このままココにいても問題は解決しないと薄々感じていたんだ。
差し出された手を掴んで立ち上がり、予想以上に長身な背を追いかけて路地を抜ける。
すると目の前に馬車があった。
――――…馬車?
御者らしき人物が扉を開くと男に背を軽く押された。
乗れと言うことらしい。
わたしが先に乗り、続いて男も乗り、扉が閉まってから少しの間を置いて馬車はゆっくり走り出す。初めての馬車はガタガタ揺れてお世辞にも乗り心地がいいとは言えなかったが、やや洒落たランタンを見てふっと肩の力が抜けた。
柔らかなオレンジ色の明りが馬車に合わせて揺らぐ。
火の明かりなど普段は使わないけれど、明るいというのはそれだけで安心する。
ランタンから視線を動かして不意に男がわたしを見ていることに気付く。
「名は?」
つっけんどんな問い方だ。
「……柴崎瀬那。瀬那が名前で、柴崎が苗字……家名?」
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