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# The third case:Remembrance.―想起―
夢、三夜。
しおりを挟む「セナが作ってくれたんだよ」
「作ってもらいました、だろう」
「あ、セナに作ってもらいました!」
きっちり訂正を入れる伯爵に慌ててイルも言い直す。グロリア様はそれに対して気にした風もなく「そう、良かったわね」と微笑み、わたしへ顔を向ける。
「セナは髪飾りかしら? 付けたのはキース?」
「いや、イルフェスだよ。俺とイルフェスのはセナがつけた」
「素敵ね。わたくしも今度の夜会でドレスや髪に生花を飾ろうかしら」
クスクスと笑う声に段々気恥ずかしくなってきて、誤魔化すようにイルから最後の花を貰い、それでグロリア様にも小さな花環を編んで右手の中指にそっとはめた。
右手中指の指輪は『自分の意志のままに行動する力が備わる』ように。
こんなことをしなくても、二人には十分その力があるだろうけれど。
「枯れてしまうのが勿体無いわ」と呟くグロリア様に苦笑しつつ、わたしは頭に付いていた花を外して伯爵の胸元の釦をキース同様にを白く飾った。若干嫌そうな顔をするクセに何も言わなかったので、気付かないふりをしてソファーの元の位置に腰掛ける。
「後で押し花にしてはいかがでしょう? 美しさは落ちますが、長く残せますよ」
「懐かしい、小さな頃はよく作ったわ。そうしようかしら」
伯爵もグロリア様も、花を外さずティーカップに口をつける。
イルの嬉しそうな顔を見てしまったら外すに外せないのだろうけれど、たまにはこういう子供っぽいことをしてみるのも良いものだと思う。
クッキーを食べたそうにしていたイルの腕から花環を抜き、予備に置かれていたナプキンを水で湿らせて手を拭ってやる。指の間や爪などもきっちり拭いてからクッキーを渡す。
「セナって結構面倒見良いよなあ」
「そうでもないですよ。言うよりも自分がした方が早いので、ついやってしまうだけです」
むしろこの中で一番面倒見が良いとしたら、それは伯爵だろう。
何せどこの馬の骨とも分からないわたしを拾って衣食住に職も保障してくれているのだから、面倒見の良さを見るならばあちらの方が断然上である。
伯爵にチラリと視線を向けつつ紅茶を飲むも、こちらの視線には気付かなかった。
それから他愛もない話を交わしつつアフタヌーンティーをご馳走になって、夕方頃にリディングストン家から退散する運びとなった。この家のサンドウィッチは特に絶品だった。イルは一口大のケーキの見た目や味に魅了されていた。
その間にイルはすっかりキースに懐き、キースもイルが可愛いようで「弟が出来たみたいだ」と大喜びで相手をしてくれていた。リディングストン家は姉と弟だけなので下に弟か妹が欲しかったそうだ。
わたしもキースと久しぶりに話が出来て楽しい息抜きだった。
「今日は来てくれてありがとう、とても楽しかったわ」
「伯爵、またいらしてください。セナとイルフェスもな」
数人の使用人と共に屋敷の玄関まで見送りに出てくれる二人に伯爵が頷く。
わたしとイルも勿論、その後ろで頷いた。
イルは馬車に乗った後も、屋敷が見えなくなるまで窓から眺めていた。
「楽しかったですか?」と聞くと「すごく楽しかった!」と即答するほど楽しい時間を過ごせたようだ。ずっと小姓の仕事に読み書きの勉強ばかりしていたイルにとっても、今日は良い息抜きになっただろう。
斜め前に顔を向ければ伯爵はグロリア様から借りたという本をもう読み始めている。
伯爵の下で世話になってもうすぐ一年だが、相変わらず彼は読書家だ。本人曰く自分の知らなかった新しい知識を得ることが好きらしい。
最近では必要以上、わたしは伯爵の前で元の世界の知識は披露しない。
言い出しっぺの法則とでも例えるべきか、知識を口にしてしまうと納得してもらえるまで延々解説をしなければならなくなる。それは正直面倒だし、説明したくても原理や理由が分からないものも結構あるからだ。
「……何だ」
ジッと見つめてしまっていたのか伯爵が本から顔を上げた。ブルーグレーの瞳がわたしへ向けられる。出会った当初と変わらない、感情の読み取りにくい瞳だ。
「馬車の中で本を読んでいると気分が悪くなりませんか?」
現代ならまだしも、この世界の道路は石畳でガタガタと馬車が揺れる。自動車のように素晴らしいサスペンションが付いているはずもなく、ダイレクトに地面の凹凸を拾ってしまうのだ。
椅子の座り心地も良く、造りもしっかりしており普通の馬車に比べれば揺れはマシだが、こんな中で読書をしていたら絶対車酔いならぬ馬車酔いになる。
しかし伯爵は一度瞬きをすると僅かに首を傾げた。
「いや? 特に問題は無いが」
「それは羨ましい限りです。わたしは馬車はどうにも苦手で……」
「……」
「……何でしょうか?」
黙って見つめてくる伯爵にちょっと気圧されてしまう。
このブルーグレーの瞳は不思議なことに、一度目が合うと逸らせない。
「今日は楽しかったか?」
唐突な質問に一瞬、聞かれたことの意味を理解するのが遅れてしまった。
それはわたしがイルに聞いたことと全く同じじゃないか。
訳が分からず伯爵の顔を見ても、落ち着いた表情で静かにわたしを見返すだけで、そこから何かの感情を判別するのは無理そうだ。
「ええ、とても楽しくて良い息抜きになりました」
「そうか」
わたしの返答に浅く頷き、伯爵は本へ視線を落とす。
……一体何がしたかったんだ?
内心で首を傾げていれば窓に顔を寄せていたイルが急に首を引っ込めた。
どうしたのかと見やれば思い切り顔を顰めている。
「くさい!」
「? 何がですか?」
「外、よく分からないけどすごく、くさい」
鼻を押さえる仕草を見せたイルに、そんなに臭うのだろうかと窓の外へ顔を出して空気を嗅いでみたものの、特にこれといって悪臭の類は感じられなかった。
しかし今渡っている橋の下は下水が流れているので、イルが言った悪臭はそれかもしれない。
ある程度はゴミを漉し取ってから河川に流している。上水道はなく、井戸から組み上げた水を使い、それを屋敷や家の所定の管より下水道に流す。これにはトイレも含まれており、他の下水とはまた別の管になっていて、他の下水と違い何度も汚れを漉してから流してるというが、家庭排水でもトイレの汚水でも浄化作業はされていないため結局は汚いし臭いのだ。
「わたしは特に感じませんが。もしかして、下水の臭いがしたのではないですか?」
「違うよ、もっとヘンな臭いだった!」
「変な臭いですか……?」
自分で嗅いでいないので変なと言われてもそれがどんな臭いなのか見当もつかず困ってしまった。とりあえず椅子に座り直せば伯爵が「放っておけ」と手元に視線を向けたまま、やや投げやりに言う。
イルはまだ納得のいかなさそうな顔をしていたが伯爵に言われてしまえばそれまでのようで、窓に顔を寄せるのを止めてわたしの隣りに座った。けれどもすぐに船を漕ぎ始めてしまう。
楽しんでいても初めての場所と人で疲れたのだろう。
どうせ伯爵以外は見ていないので構わないかとイルを横に寝かせ、わたしの膝に頭を導く。胸の上に置いた手でゆっくりとリズムを取ってやればあっという間に眠ってしまった。
あどけない寝顔を眺めながらそっと頭を撫でる。柔らかな茶髪は少し絡まっており、優しく指で梳きながら解いてやっていると小さな体に上着がかけられた。
顔を上げれば伯爵が椅子に座り直すところだった。
黙って再度本を読み出す伯爵は目元は僅かに赤い。不器用なやり方ばかりの主人は笑ったらきっと不機嫌になってしまうだろうけれども、その不器用さは好感が持てる。
内心で笑みを噛み殺しながらイルの肩口まで上着を引き上げてやった。
小さな寝息と、伯爵が時折ページを捲る音を聞きながら馬車に揺られて窓の外を眺める。
眠るイルから伝わる温かさが心地好い。窓から微かに吹き込む風は湿度がなく、夏でも日陰でジッとして過ごすとやや肌寒いような気がするのだが、イルのお陰か今はその肌寒さもあまり気にならない。
屋敷に到着するまでわたしはイルの頭を撫でて過ごしていた。
やがて微かに揺れた馬車が停まると伯爵が本を閉じた。
「イル。……イル? お屋敷に着きましたよ?」
そっと肩を揺り動かすとぐずるように身を捩らせたが、のそりと起きる。
目を擦るイルの髪と服を整えてやれば御者が扉を開けた。
そうして眠気を追い払うためか勢いよく席を立って馬車を降りた。
わたしも立ち上がった瞬間――……グラリと世界が傾く。
「…っ?」
あ、と思った時には既に体は倒れ、視界に伯爵の顔が映り込んでいる状態だった。
狭い馬車の中でよく受け止められたなと頭の片隅で感心するも、目の前にある伯爵の顰めっ面が口を開いた。
「大丈夫か?」
返事をしたいけれど急に襲ってきた頭痛やら吐き気やらで声を出すのも辛い。
伯爵は右手の手袋の端を噛んで外すと、そのままわたしの額に触れる。
ブルーグレーの瞳が見開かれ、思い切り眉が釣り上がった。
「何だこの熱は……!」
かなり怒気が含まれた声に何とか腕を持ち上げて自分の額に触れ、驚いた。
なにこれ、ものすごく熱い。
元々子供体温だがこれはどう考えても平熱ではなかった。
……昼間に寝落ちしたのって、もしかしなくても熱のせいだったりして?
普段は夜更かししても一徹しても昼間は眠くならなかったのに。
思わず遠い目をしてしまう。
自分の体調の変化に気付かないなんて鈍感にもほどがある。
頭上から聞こえて来た舌打ちに意識を戻せば、今にも説教を始めそうな伯爵がいる。
というか、舌打ちなんてらしくもない。
「……やっと手を離れたかと思えばこれか」
ポツリと漏れ聞こえたぼやきに「手のかかる子ですみません」と誤魔化してみたけれど、返って来たのは「全くだ馬鹿者」という謗りだった。
そうして伯爵はわたしを抱え上げると器用に馬車から降り、驚くイルや他の使用人達の目の前を横切って屋敷に入る。
「下ろしてください、自力で歩けます……」
「却下だ。立ち上がっただけで倒れた奴が何を言う」
「……根性で歩きますから」
「|阿呆(あほう)。出来もしないと分かっていてさせると思うか? 黙って運ばれていろ」
ああ、めちゃくちゃ怒ってる。
早足で廊下を歩きながら、伯爵は途中で見かけたアランさんに医者を頼み、声をかけられたアランさんは心得た様子で返事をすると元来た廊下を戻って行った。
伯爵は普段全く使われることのない三階まで上がり、客室の中でも貴族の付き人用の部屋の扉を押し開けて入り、ベッドへ大股に歩み寄る。人を一人抱えてよくぞココまで息一つ乱れずに来れるものだ。
そのまま寝かされるとばかり思っていたら、何故か伯爵がベッドに腰掛けた。
然的にわたしは伯爵の膝の上に座ることになる訳で。
ちょ、まっ、何この体勢?!
「お、下ろしてください……!」
慌てて距離を置こうと腕を突っ張ったが低い声で「靴を脱がせるから暴れるな」と怒られてしまった。
横向き状態で伯爵の胸にもたれ掛かり、美顔との近さに何とか顔を俯けてやり過ごそうと試みる。
日常的に顔を合わせていて見慣れた端整な顔でも密着した状態では話が別だ。何故、こういう時に限って何時もの「女性なのだから云々かんぬん」が適用されないのか問い詰めたい。女性の体にみだりに触れてはならないんじゃあなかったのか。
わたしが苦労して履いているブーツが簡単に脱がされていく。背中に添えられた腕があるということは、恐らく空いた片手でブーツを脱がしているのだと分かる。編み上げをどうやって片手で解けるんだ。
いや、それよりも早く終われ! 早く終われ!
脱がされたブーツはベッドの脇に揃えられ、やっと終わったと安堵の息を吐いた。
が、伯爵は有無を言わせず着ていたアビに手をかける。
ギョッとする様子に気付いていないのか、はたまた無視しているのか、わたしからアビを引っぺがした後、逡巡《しゅんじゅん》するように一度動きを止めてからジレのボタンに手を伸ばした。
ブーツやアビ同様素早く外されていく。
片手なのに淀みなく釦を外す器用さは、今の状況でなければ茶化していただろう。
気にするな、気にしたら負けだ。これくらい何てことないはずだっ。
色々と考えている間にジレもなくなり、上がシャツだけになったわたしはやっとベッドへ横になれた。
脱がされたアビとジレは哀れに椅子の背へ雑にかけられ、同時に扉がノックされる。
伯爵が扉を開ければアランさんが片手に水桶、もう片手に小さな布を持って立っていた。
「遣いの者を出しましたので、すぐにお医者様もいらっしゃいます」
「そうか」
「熱を出している様でしたので冷やす物を御用意致しました」
「ああ、助かる」
「それでは私はこれで失礼します」と水桶と布を伯爵に手渡してから恭しく胸元に手を置いて執事は頭を下げた。伯爵は頷いて扉を閉める。
……え、まだ伯爵がわたしの世話するの? それ可笑しくない?
ベッドのサイドテーブルに水桶を置くと左手の手袋も外して伯爵自ら布を水に浸し、それを絞ってわたしの額に乗せた。
「あの、伯爵がするようなことでは……」
「気にするな。今まで風邪の一つも引かなかったお前がこうでは他の者に看病を任せたとしても、私が気になって落ち着かない」
「……すみません」
「この程度大したことではない。それより医者が来るまで少し休んでおけ」
伯爵はもう怒ってはおらず、心配の色を宿した瞳がわたしを見下ろしている。
「では、少しだけ……。お医者様がいらしたら、起こしてくださいね」
「ああ、いいから眠れ」
瞼の上に手の平が乗せられて視界が真っ暗になる。
素直に伯爵に従い、わたしは医者が来るまで少しの間眠ることにした。
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