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# The second caso:Frutta proibite.―禁断の果実―
実、九口。
しおりを挟む伯爵はわたしの言葉に同意するように頷いた。
「そうだな」
それきり、また無言になってしまう。
一拍、二拍、三拍――……ああ、もう、まだるっこしい!!
「あの、伯爵が一体何をおっしゃりたいのかイマイチ分からないんですが」
「ああ、すまん」
要領を得ない質問を立て続けにされて自分でも眉が寄っているのが分かる。
やっと顔を上げた伯爵はわたしを見て小さく吹き出したが、すぐに軽い咳払いで笑いを消して向き直った。
「以前地図に描いた印をまだ覚えているか?」
「はい、大雑把な方向と場所程度なら」
「そもそも教会を出た者がどうしているのか調べ上げるだけでも難しい話だと言うのに、犯人はどういう訳か、養子に出た子供達を彼らの育った教会の近くで上手い具合に捕まえている」
「……言われてみれば確かに妙ですね。孤児は分かりますが、養子に出た子が必ずしも元の教会や孤児院に立ち寄るとは限らないでしょう」
どうせ襲うなら出掛け先などを尾行して人目ない時に攫ってしまえばいい。
それなのに養子の子供達まで他の孤児の子供達と同様に、教会の付近で目撃されたのを最後に行方が分からなくなっている。
養子の子供達だって育った場所を懐かしく思ったり恋しくなったりして訪れはするだろうが、毎日張り込まない限り、何時来るか分からない彼らをその傍で捕まえるのはまず無理だ。
何より教会を出た者がどこへ行ったのかなんて普通の人には調べられない。
犯人はどこで被害者の子供達を知り、目星をつけ、攫ったのだろう。
考えれば考えるほど頭の中がこんがらがってしまう。これ以上悩んでも答えが出て来る気配がなさそうな思考をとりあえず一旦放棄して伯爵を見る。
「……犯人は教会の関係者ではないかと、私は思っている」
告げられた言葉に息が詰まった。
教会関係者であれば色々な辻褄が合う。孤児達のことも分かっているだろうし、養子縁組をした子供達のことも簡単に行き先を調べられる。己の勝手知ったる教会内なら獲物も探しやすいはずだ。
「教会で育った子供であれば信仰心も厚く、その関係者に声をかけられれば何の疑いもなくついて行くだろう。いや、もしかしたら犯人に呼ばれたからこそ子供達は教会に行ったのかもしれん」
もしもそれが真実であったとしたらこれほど皮肉なことはない。
神に仕えるべき者が大罪を犯す。
まあ、罪というものは善悪と同じく所詮人間の利己主義《エゴ》だけれどね。
無意識に止めたままだった呼吸をゆっくり再開させる。
「……この世はまるで底なし沼ですね。藻掻くほど沈み、重く纏わりつく悪意ばかりで、そこにある微かな希望すら救いとなるのか絶望となるのか誰にも分からない。暗く冷たい地獄のようだと思いませんか?」
「そういうことは思っていても軽々しく口にするな」
「すみません、もう言ってしまいました」
手袋のはめられた手が頭頂部をポンと軽く撫でて宥《なだ》められたが、もう既に口から出てしまっているので仕舞うのも不可能だ。肩を竦めるわたしに伯爵は呆れた様子で半眼になる。
それに普段通り営業スマイルで微笑みを返す。
若干の間を置いて伯爵の肩が少しだけ下がった。
「ともかくお前は人の出入りに気を付けていろ。内外の者の動きに注意を払え」
「畏まりました」
「良いか、怪しい者がいても絶対に、絶対に一人で追うな」
「はい」
二度も念押ししなくたっていいじゃないか。
殊勝な振りで頷くとブルーグレーが胡散臭げにこちらを見ており、そこに信用の色があまり感じられないことに内心で苦笑が漏れた。伯爵の中のわたしは犯人に向かって真っすぐに突進していく猪になっているのかもしれない。前科があるので言い返せない辺りがちょっとだけ悔しい。
声をかけられて片目を瞑ると、ややあってランタンの明かりが掻き消える。開けたままの片目は闇のままだったが、先に閉じていた方の目を開ければ隙間から差し込む微かな月明かりで何とか物の輪郭が分かった。
暗闇の中で「先に出ろ」と促されてボロボロの扉を押してそっと開く。
月の傾き具合からして大した時間は経っていないようだった。
こっそり抜け出してきたのでバレてしまわないうちに教会に戻らないと。
今にも幽霊かゾンビが出てきそうな墓地を足早に突っ切る。壊れかけの門を潜り見慣れた街路《がいろ》へ出ると、ようやくホッとした気持ちになった。怖くはないが気持ちの良い場所でもないのでやはり長居はしたくない。日本と違い土葬というのも何となく落ち着かない。
石畳の上で少し靴の底を擦ってブーツについた土を落としながら歩く。
そこまで来れば闇に目が慣れて街の景色が見えるようになった。
レンガや石造りの家々も、石畳の道も、わたしの生まれた日本とは違う。毎日絵画の中で暮らしているような気分だが、何時もほんの少しの高揚感と胸に引っ掛かる小さな疎外感に感傷的になってしまう。
天上には月と星々が輝いて現代よりもずっと澄んだ夜空は何度眺めても美しい。
こんな風に一人でいると自分は本当に独りなんだと思わされる。この世界で過ごすようになってから、常識や考え方などの違いというのは酷く物悲しいことなのだと知った。
……わたしって、こんなに弱かったかな。
頭上へ視線を向けつつ何気なくポケットに手を入れて「あ」と気付く。
頬を掻いた。また言うのを忘れてしまったエタノールの瓶がコロリと手の平で転がる。
どうしよう、今戻ったら伯爵はまだいるだろうか?
思わず立ち止まりかけた瞬間、強い力で後方へ引っ張られる。
「?!」
口と頬を掻いていた左腕に人間の腕らしきものが回されている。
背後から顎と口を鷲掴みにされて振り返ることは出来ない。力を込めて藻掻いても男なのかガッシリとした腕は離れない。通り魔という単語が頭を過る。やや治安の悪い場所なのを忘れていた。
握った右手の中に瓶の硬さを感じて咄嗟に親指でコルクを弾き開けた。
小さなキュポンという音に背後の気配がピクリと反応する。今だ。
「は、なせ……っ!!」
右腕を背へ回すように勢いをつけて上げた。
パシャリと液体の当たる音がして、背後から呻き声がして腕の拘束が緩む。
すぐさま抜け出し、手の届かない場所まで逃げる。
振り返ればローブのようなフード付きの黒い上着を身に纏った人物がいた。
顔は見えないが体格や呻き声で男と分かるその人物は、エタノールが顔についたのかフードの奥と右肩を押さえ、身を縮こませている。原液のエタノールが直に肌へかかれば刺激と共にアルコールのような匂いもあり、恐らく液が触れた部分は火傷したような熱と痛みを感じてるだろう。水で洗い流せばかかった部分は赤くなったり乾燥する程度のはずだ。
それでも揮発する際の刺激と濃い匂いは大の男を怯ませるには充分だった。
互いに動きあぐねたものの、元来た道より人の足音が聞こえてきたため、男は素早い動きで細い脇道へ身を滑り込ませた。追いかけようと路地の角に足を踏み入れたところで何者かに肩を掴まれる。
「セナ!」
「!」
反射的に振り返って肩に乗った手を払う。パシンと音が響く。
薄い月明かりの中で視界に入ったのはフードを目深に被った人物だったが、耳に残った声と払った手が身につけている潔癖そうな白い手袋を見れば、それが先ほど別れたばかりの伯爵だと脳が告げる。
味方が来たことで気が緩んでしまいフラリとよろけてしまった。
焦った声がまた名前を小さく呼んで支えられる。
「大丈夫か? 怪我は?」
「あ、いえ、どこもありません」
頭や肩に触れてくる手に首を振り、伯爵を見上げた。
今になって恐怖で騒ぐ心臓の遅さに頭の片隅で呆れながら肩の力を抜く。
襲ってきた相手が逃げた路地へ視線を向けてみても、もうそこに動く影はなく、ただ静かな暗闇が広がっているだけである。
「それにしても、何故こちらに?」
「少し後に出たはいいが、お前の声がしたのと揉み合うような影が見えたのでな」
「そうですか。……ありがとうございます」
「私は何もしていない」
わたしの背をいまだ支えてくれている伯爵が憮然とした声音で言う。
「支えてくださり、ありがとうございます。それと追うのも止めてくださいましたね。もしわたしが一人で追いかけたとしても追い詰める自信も捕まえる勝算もありません」
「だろうな」
鼓動が早過ぎて少し胸が苦しかったが一定のリズムで優しく背を叩かれ、それに合わせて深呼吸を繰り返すといくらかマシになった。
傍の地面には空になった小瓶と縄らしきものがある。伸ばした手で縄を掴む。
「それは先の暴漢が落としたものか」
伯爵の問いに「ええ」と頷き返す。
麻縄で編まれたそれは細いが頑丈そうなロープだ。わたしを捕まえてこれで動けないように縛り上げるつもりだったのだろう。あまり想像したくはないが変色しているので何度か使用された後らしい。
伯爵に縄を渡して小瓶を拾う。既に中身はなくなっているが、投げたせいで辺りにはまだ濃いアルコールのような刺激臭が漂っており、嗅ぎ続けると酔ってしまいそうだ。
「持ち歩いていたのか」
「いえ、たまたまです。教会では子供達が触ってしまうので、先に屋敷へ運んでおいていただけたらと思って持ってきたんですけど預けるのを忘れていました」
「なるほど」
数分前のわたし自身を褒めたい。
忘れてくれたお陰で身の危険を遠ざけられた。
「襲ってきた相手の顔は?」
「分かりません」
思い出そうとしてみても黒い影しか分からない。相手は月を背にしていたし、捕まらないよう距離を空けることで精一杯で顔を確かめる余裕はなかった。
エタノール原液を浴びて顔を押さえていたのも理由の一つだ。
相手の背後から駆けて来た伯爵も当然だが――――……ん?
「物凄く今更なんですけど何で伯爵がいるんですか? お屋敷は反対方向ですよね?」
墓地で別れてそれぞれ戻っていたら絶対に伯爵はここにいないはずなのに、今ここにいる。
途端に伯爵は眉を顰めてそっぽを向く。
「……こんな時間に一人で帰す訳がないだろう」
つまり墓地から少し距離を取ってつけていたということか。
今回は未遂と言えど襲われたことに変わりはない。目的は不明だが、背後から忍び寄って拘束するくらいだからそれなりに害意を持っていたのだろう。
「お前はもっと周囲へ気を配れ」
「はい、以後気を付けます」
「そうしろ。……そろそろ行けるか?」
「……大丈夫です」
伯爵が背から手を離す。急に支えがなくなったので若干よろけ気味になってしまったものの、微妙に違和感を感じつつ地面を踏み締める。しっかりしろと言う風に肩を軽く二度叩かれた。
不思議とそれだけで足が地面の感覚を取り戻す。
礼を言うために顔を上げたが、思わず半眼になる。
「って、いないし」
恐らくどこか近くの路地の暗闇に身を潜めたのだろう。
一応わたしも潜入捜査中なので伯爵と二人でいるところを誰かに見られるのはマズい。フードで顔が隠れていても結構生地の良さそうなローブを着ていたから、少し見る時間があれば富裕層か貴族と見当が付いてしまう。人目を極力避けるのも分かるが、それにしたって一言くらいお礼を言う暇があっても良いじゃないか。
言えばきっと向こうに聞こえるだろう。
しかし、ここで文句を零したら一人でぶつぶつ言ってる変な人に見えるだけだ。
諦めて溜め息を一つ吐いて石畳を歩き出す。
歩き出してすぐ、拾ったはずの小瓶が手から消え失せていることに気が付いた。振り返ってみても背後に広がるのは薄暗い闇と僅かな液体の染みと刺激臭のみで、灰銀もブルーグレーも見当たらない。
何時の間にとられたんだろう。首を傾げてしまう。
予想以上に時間を食ってしまい教会への道のりを急いだが、さすがに二度目はなかった。
歩きながら周囲の物音などに神経を尖らせてみたけれど伯爵の気配は分からず、教会に着いた際に一応後ろに振り向いて軽く頭を下げておいた。
子供達も眠っている教会内は街と同様にとても静かである。
喉が渇いたので食堂に寄って水でも飲んでから部屋に戻ろう。
いちいち明かりをつけるのも面倒だったので暗い食堂で水を飲んでいたら、廊下で蝋燭の火が揺れた。
「誰かいるの?」
やや緊張した雰囲気を滲ませるシスターの声に返事を返す。
「いるよ」
「その声はセナね?」
「当たり」
小さな燭台を持ったシスターがわたしを見てホッとした表情を見せた。
近付いて来るオレンジ色の柔らかな光りに目を細めつつ、燭台とは反対の手に持たれている箱に何となく視線がいく。二十センチ四方ぐらいの木製の箱は何度か見かけたことのあるものだった。
「誰か怪我でもした?」
その中身は擦り傷や打撲用の薬、包帯、風邪薬などが入ったいわゆる救急箱で、それを使うということは誰かが怪我をしたか体調を崩したということだ。
「ええ、神父様がちょっと」
「なんかあったの?」
「倉庫で片付けをしている途中、積んであった荷物が倒れてきてしまったそうなの……。でもご自分で手当ては出来るっておっしゃっていらしたから、きっと大した怪我にはならなかったのね」
――……怪我、ねぇ。
瞬時に頭に思い浮かんだのは伯爵の言葉と先ほどの出来事だった。
子供達を攫い続けているかもしれない犯人は教会関係者。
行方不明の子供達と共通点のあるわたしをこのタイミングで襲った誰か。
その誰かに浴びせたエタノールと、神父の怪我。
そこまで考えてシスターから微かに漂う臭いに首を傾げた。
「シスターも倉庫に行った?」
「え?」
「ちょっと埃の臭いがする」
嫌な臭いではないが独特の臭いで、シスターはわたしの言葉に驚いた顔をする。
自分で腕の匂いを嗅いで確かめる仕草をした後に眉を下げた。
「包帯や薬を足すために少し倉庫に入ったけど、そんなに臭うかしら?」
「や、別に気にするほどじゃないと思う」
言うとシスターは一転して顔を綻ばせる。
「良かった、神父様の所へ行くのに埃臭かったら失礼だもの。セナも夜更かしせずに早く寝なさいね」
「はいはい」
コートを着てたことについては言及されなかった。
夜は少し肌寒いから明かりを落とした後に防寒用にコートを着ても違和感はないらしい。
神父様の部屋へ救急箱を持っていくシスターを見送って、わたしも自室へ戻る。
頭の中で巡る可能性を信じたくない自分がいた。
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