アルマン伯爵と男装近侍

早瀬黒絵

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# The first case:Virtual image of the flower. ―華の虚像―

華、十輪。

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 そうして時間を忘れて裁縫の手を進めていたが、誰かが廊下を歩く足音でふと集中が途切れた。懐中時計で確認するともう夜の八時半近くだった。九時には使用人の夕食が控えている。

 残りは数針分程度でやってしまっても間に合うだろう。

 集中しながらも少しだけ縫うスピードを上げる。

 最後の返し縫と糸の始末をきちんと済ませて使った針と糸をバスケットへ戻す。

 衣類を広げてみたが外からは全く分からず、内側もよくよく見なければ縫い目は分からない程度には目立たない。緩く布地を引っ張ってみるが縫い合わせた部分が変に開いたりよじれたりもしていない。

 おおむね満足のいく仕上がりになった衣類を丁寧に畳み直して修繕を済ませた衣類の方へ移動させる。アランさんがチェックして問題なければ、この衣類はまた主人に着てもらえるのだ。

 一応使った物が紛失していないか数えて問題がないことを確認して衣裳部屋を出る。

 気温の低い国なので滅多に大量の汗を掻くことはないが、それでも歩き回ったので軽く汗を流したい。まあ、昼間に一度入浴したので就寝前に体を拭くくらいだ。

 この国ではあまり入浴という習慣がなく、貴族でも週に一、二度入浴する者は潔癖症だと言われる。普通の貴族や豪商などの富裕層でも月に数度程度で普段は濡らした布で拭うくらい。平民ともなれば体が汚れたら井戸水や川で体を洗い流すといった具合でそもそも湯に浸かるということ自体しない。

 伯爵は仕事柄血腥い現場などにも行くため頻繁に入浴する。なくても入ることは多いので湯に浸かるのが好きなのかもしれない。確かに潔癖なところはあるけれど、入浴の頻度に関しては単なる綺麗好きか風呂好きのどちらかだとわたしは思っている。

 使用人達でも桶に湯を張って体を洗うのは週に一度で後は汚れたら体を拭くだけだ。

 これでも他の貴族やその使用人よりずっと身綺麗らしい。

 わたしも毎日は無理だが、ここでは二日か三日に一度桶に湯を張って浸かり、体は毎日拭いている。他の使用人達に「セナは綺麗好き」と周知されるほどには清潔さを保っているつもりだ。

 歯磨きだって歯ブラシや歯磨き粉がないので、お給金で大量に買い込んだ麻布を小さく切り分けたものを指に巻いて水を含ませたもので磨き、それから庭の一角に大量に生えてしまったというミントをもらって歯を擦る。塩は高いし口の中が痛くなるので使っていない。

 シャンプーがないのは辛いが仕方がない。後は化粧品。平民が手を出せる額ではない。とりあえずオリーブオイルの小瓶を買って、それを洗顔後に顔に薄く塗って余計な油を拭き取って使っている。髪も傷むので少しつけたりもする。

 この世界では香油などの化粧品は高価で王侯貴族や裕福な商家の者くらいしか手に出来ない。

 自室へ行き、ポケットから懐中時計や手帳などを取り出して机へ置く。

 使用人食堂へ行けばまだ扉の前には誰もいない。

 恐らくアランさんは伯爵の傍にいるのだろう。料理長と家政婦長はそろそろ来るかもしれない。御者頭は馬車の手入れをし終える頃だろうか。庭師頭は多分もう来るはずだ。

 そう思っていれば案の定、庭師頭が廊下の向こうから歩いて来る姿が見えた。



「セナか。今日は早いな?」



 傍に来た庭師頭へ頷き返す。



「早く休むようにと下げられました。気を付けてはいたのですが今日は歩き詰めで、その疲れを旦那様に見抜かれてしまって。空いた時間でとりあえず衣装の修繕をしておりました」

「そこは旦那様の言い付け通り休んどけよ」

「他の方がまだ仕事をしているのに一人だけ先に休むのは居心地が悪いでしょう?」

「そうか? せっかく休めるってのに仕事するなんて、相変わらずよく分からん奴だなあ」



 がはは、と豪快な笑いにわたしも肩を竦めて笑い返す。

 後ろから「声が大きいですよ」と女性の咎める声がして、振り返れば家政婦長と御者頭が歩いて来る。列に並びつつ「笑い声が廊下の向こうにいても聞こえたわ」と家政婦長はどこか呆れた顔で言う。

 しかし庭師頭は「俺は昔から体と声だけは無駄にデカいからな」と悪びれもせず笑う。

 最後にアランさんがやって来て列の先頭に立った。

 懐中時計で確認すれば二十一時丁度である。

 食堂の扉を開けて中へ入ると、別の扉から入って既に席についていた使用人達が立ち上がって出迎える。

 決められた席につき、朝食や昼食時と同じく取り分けられた料理の乗った皿を受け渡していく。それが済み、全員に食事が行き渡ったら食前の祈りのために胸の前で両手の指を組む。



「主よ、私達を祝福し、また御恵みによって今共にいただくこの食事を祝してください。主によって斯様かようにあらしめたまえ」



 全員で祈りを捧げ、食事に手を伸ばす。会話はない。

 夕食のメニューは上級使用人は温かい肉料理と野菜の入ったスープ、パン、チーズ、伯爵の食事で余った料理。下級使用人は冷めた肉料理と野菜の入ったスープ、パン、チーズ、上級使用人が取り分けて更に余った伯爵の食事の残り。そこに紅茶やミルク、エールなどの飲み物がある。



「主よ、この食事の恵みを心から感謝します。この食事を共にすることの出来た私達が、更に心を一つにしていつも貴方の愛のうちに歩むことが出来ますよう斯様にあらしめたまえ」



 黙々と食事を終えたら上級使用人はやはり家政婦長室へ移動する。

 そこでデザートを食べたりワインを飲んだりするのだ。

 そうは言っても主人の予定に合わせるため、優雅にのんびりと楽しむ時間はない。

 アランさんは少しの間、家政婦長お手製のデザートを堪能して伯爵の下へ戻って行った。

 恐らくこの時間ならば就寝用の夜着に着替える手伝いや、翌日の予定の打ち合わせといったこともするのだろう。何時もならば就寝の支度をわたしも手伝うのだけれど今日は免除である。

 ゆったりデザートを食べて家政婦長に美味しかった旨と礼を伝えて部屋を出る。

 使用人棟の自室へ戻り、机の上の燭台に火を灯す。下着と寝間着、それに羽織る上着を用意して、代わりにポケットの中身を全て机の上に出して、ベッドに放っておいた空の革袋も着替えと共に持って、燭台の火を消して使用人棟の地下へ向かう。

 まだ他の使用人達は働いている時間帯なので浴室に人気はない。

 隣の給湯室で湯を沸かす。昼間、一度湯を張って浸かっているので夜は体を拭くくらいだ。井戸から汲んだ水を沸かして小さな盥に移し、水を足して温度を調節してから上級使用人専用の浴室へ持っていく。

 服を脱ぎ、下着も脱いで、それらを洗濯籠へ放り込む。

 昼間に一度入ったし今は拭くだけでいいや。

 寒い浴室内に震えながら湯に浸した布を絞って、それで体を手早く拭う。

 途中で何度か布を湯で洗い、二度ほど体全体を拭き終えると、最後に固く絞った布で髪を軽く拭う。

  オリーブオイルを薄く掌に広げて顔と髪にそれぞれ塗り付ける。

 とりあえずの処置だがそのうち何とかしないと、と思いながら下着と寝間着の裾の長いワンピースの形をしたシュミーズを着て、シュミーズを隠すように上着を羽織る。靴はブーツだが仕方がない。

 使い終わった湯を捨てて、余って少し冷めた湯を革袋へ入れて、盥を元の位置に戻す。

 脱いだ衣類の入った籠と革袋を持って浴室を出て、自室へ向かう。

 この籠は夜のうちに廊下へ出しておけばランドリーメイド達が翌早朝に回収して洗濯をしてくれる。主人の寝間着や前日着た衣類、使用したシーツやテーブルクロス、タオルなどのリネン、使用人の衣類やシーツ、本館にある絨毯など様々なものを洗っている。

 彼女達が綺麗にした衣類はまた自室の前へ籠に入れて戻してくれるのだ。

 ランドリーメイドだけでもそこそこ人数がいるけれども、屋敷全体の使用人の数や日々使われるリネンの数を考えると体力的にも厳しく、扱う物によって洗い方も違い、様々な布の染み抜きや汚れを落とす技術も覚えなくてはならない大変な仕事だと聞く。

 ありがたい存在だと思いながら別館の階段を上がっていると声をかけられた。



「ああ、セナ。丁度良いところに通りかかりましたね」
 


 顔を上げれば一階の踊り場でアランさんがこちらを見上げている。

 使用人棟二階は男性は立ち入り禁止なので、余程緊急の出来事でもない限り、アランさんは二階に上がってくることはない。

 わたしは籠を抱え直しながらも慌てて階段を下りた。



「何か御用でしょうか?」



 明日の捜査について伯爵より何か伝えるように頼まれたのだろうか?

 穏やかな好々爺の執事は微笑を浮べてわたしを見下ろす。



「旦那様より此方を貴女に渡すように言い付かりまして」

「?」



 両手が塞がっているからか、アランさんは籠に入った衣類の上にそっと何かを置いた。

 小さなハンカチの四方を上に持ち上げ、そこを巾着のように紐で纏めてある。中に何か入っているらしい。重さもあまりないのか衣類に沈むことなく乗ったままだ。

 アランさんは「お休みなさい。夜更かしはいけませんよ」と笑い去っていく。

 その背に御礼と就寝の挨拶を投げかけ、わたしは階段を上がる。

 籠は扉の脇に置いて、ハンカチの巾着を手に、革袋を小脇に挟んで部屋の扉を開けて入る。

 持っていたハンカチの巾着を机上へ置いて燭台に火を灯し、扉を閉めた。

 革袋は口がきちんと絞られて中身が洩れないことを確認してベッドへ放り込んだ。

 ハンカチはガーゼ生地のサラッとしたもので、伯爵が普段使いとは別に持っているものだ。これには家名やお洒落のための刺繍もなく、仕事中に汚れても構わない、つまりは使い捨てることを前提にしたものだった。

 上部の紐を丁寧に解く。紐と言ったが、正確にはリボンに近い。



「……クッキー?」



 開いたハンカチの中にはクッキーが数枚入っていた。

 美味しそうなやや濃いキツネ色に焼けたそれは冷めていても仄かに甘い香りが漂う。

 旦那様というのは伯爵のことだ。わたし以外の使用人は伯爵のことをそう呼ぶ。わたしも公の場や来客時などはそう呼ぶのだが実は微妙に違和感がある。

 それは置いておき、アランさん経由で渡されたこれも食べていいということか。

 ……夕食前に一緒に渡してくれたら良かったのに、本当不器用だなあ。

 すぐに食べてしまうのは勿体ないが、あまり日持ちもしないので綺麗なキツネ色のクッキーを暫く眺めた後、小さく火を灯した暖炉の前に陣取って一枚ずつ味わって食べた。

 スコーンも食べて、夕食後にデザートも食べて、夜にまたおやつまで食べて太らないだろうかと一瞬心配したものの、どうせ明日も歩き回って消費するだろうと問題を記憶の彼方へ追いやった。

 クッキーを味わって食べたらハンカチは洗濯籠へ出しておく。

 歯ブラシ代わりの目の粗いガーゼで口の中汚れを落とし、ミントで歯や歯茎を擦って、一度口を漱《すす》ぎ、その水を捨てに行くついでに飲み水用に沸かした白湯をもらって戻れば後はもう眠るだけだ。

 就寝前にコップ一杯ほどの白湯を飲んで水分補給を済ませたら暖炉の薪を広げて火を落とす。燭台もサイドテーブルに移動させて火を消しておく。ブーツを脱いでベッドに横になったら足元に革袋を移動させてシーツに包まる。

 まだ室内に残るクッキーの甘い香りを感じながら、わたしは自然と眠りに落ちていった。




 
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