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# The first case:Virtual image of the flower. ―華の虚像―
華、四輪。
しおりを挟む優秀な御者のお陰で安置所へはそう時間をかけずに到着した。
安置所は警察署に隣接し、元は古びた教会だった建物を改装して使っている。
朝早い時間ではあったが入り口には警備員らしき者が立ち、訪れる者に鋭い目を向ける。彼らは運び込まれた遺体の衣類や金品、遺体そのものの盗難や損壊を防ぐための監視役だ。
目の前に馬車を横付けしたわたし達に訝しげな視線を向けたものの、馬車の側面に施された家紋を見るとすぐに表情を引き締めて敬礼の姿勢を取る。
伯爵は通り過ぎ、わたしは小さく会釈をして門を潜った。
「今日の門番は素晴らしい方々ですね」
「何だ、いきなり」
「以前の方は随分傲慢でしたから」
「ああ、自業自得とは言えあれも哀れだったな」
以前いた門番はそれはもう自尊心の強い男だった。貴族の生まれを笠に着て横柄な態度を隠しもせず、警察になったものの安置所の警備に回されて不満が溜まっていたのだろう。
それでわたしのような見目麗しい近侍――男装姿が美少年に見えるらしい――を傍に侍らせているのはさぞ愉しいだろうだの、毎晩羨ましいだの、自身の家と爵位が同じ伯爵を貶す言葉を吐いた。
家暦が浅いのに地位が高い者は貴族内で妬まれることが多い。特にアルマン伯爵家は他の貴族達の不正や汚職を暴く役目もあるので余計疎まれるのだが、当の本人はあまり気にしてない。
だが、わたしの気が治まらない。恩人を馬鹿にされて黙っていられるか。
しかし貴族の男に使用人のわたしが言い返すことは許されない。
だから心の底からの嘲笑を浮かべて見せた。
そうして一発殴られたのだが、元々それが狙いで、伯爵家の次男だか三男だかが伯爵家の現当主の使用人に手を上げたわけだ。問題は使用人に暴行を働いたことではなく、自身より上の身分の者に逆らうことだ。
そこをその男はきちんと理解していなかった。
伯爵家の子息と伯爵家の現当主ではどちらの立場が上か考えれば分かるだろうに。
わたしが大袈裟に痛がったため余計に男の心象は悪くなったと思う。
普段は出ない涙まで流したのだから左遷されたと聞いた時は清々した。
「お前の演技には私も騙されたぞ」
「お褒めに与り光栄です」
「……本当に良い性格をしている」
安置所内の休憩室で手当てを受け、警察がいなくなった途端にケロリとした顔で死体の検分に向かうわたしを見た時の伯爵のあの顔は傑作だった。演技だとは露ほども思わなかったらしい。
道理で男が捕まえられた時にわたしより憤慨していた訳だ。ガーゼで隠していたけれど夜になったら殴られた場所に青痣が出来て、怪我が治るまで屋敷の皆に気を遣わせてしまったのは申し訳なかった。
観音開きの扉を開けて入り、ホールにあった面会受付へ進む。
顔を上げた女性がわたしを見て少し目を見開いてから微笑んだ。
「あ、以前の……」
「はい、あの時はお世話になりました。あなたの手当てのお陰でこうして傷も残らずに済みました」
「そんな、私は大した事はしていません」
恥かしそうに視線を逸らしながら頬を染める受付の人にニコリと笑うわたし。
横で「誑し込むな、阿呆」と伯爵がぼやくが、聞こえない振りをする。
色々な人脈を作っておけば役に立つこともあるのだから良いじゃないか。
「実は今日はとある方々と面会したくて来たのですが……」
「あら、そうなんですか?」
残念そうな声音にわたしも眉を下げる。
「出来ればあなたとは仕事を抜きにして御会いしたかった」
「まあ、お上手ですね」
クスクスと笑う女性は満更でもない感じだ。
それもそうだろう。伯爵の近侍は一般人よりも稼ぎが良いのだから、そんな男を捕まえられれば女性は安泰で過ごせる。
被害者達の名前を告げ、訪問者用の帳簿に伯爵が、次いでわたしが名前を記入する。
遺体の名簿を確認した女性が頷いた。
「面会を許可します」
「ありがとう、素敵な方。宜しければ今度美味しい紅茶でも一緒にいかがです?」
「ええ、是非。楽しみにしています」
ランタンを手渡しながら「事件解決をお祈りしております」なんて健気な言葉をかけてくれる女性に、わたしは自分に出来うる限り極上の笑みを浮かべて返した。
冷たい石の階段を下りながら伯爵にお説教を食らったのは秘密である。
女を口説くな、もう少し節度ある行動を心がけろ等々、紳士の何たるかみたいな言葉に返事をしたけれど「絶対分かっていないだろう」という眼差しを向けられた。
流石伯爵、わたしのことをよくご存知で。
最下層まで下りてから区分けられた扉の一つを開ければ予想通り嫌な臭いが溢れてくる。
何度来てもこの表現し難い臭いだけはどうにも慣れない。
伯爵もそう思っているのか手で口と鼻を覆いながら部屋に入る。
部屋には布がかけられた盛り上がりが九つ並んでいた。八つ目は布に包まれた小さな塊で、多分あれが胎児なんだろうなと見当がつく。向かって左から殺された順に並んでいるようだ。
二人で黙祷を捧げ、伯爵が一つめの盛り上がりの傍に立つ。
わたしも手袋を嵌めて誰に言うともなく一言断りを入れ、遺体にかけられていた布を引っぺがした。
途端に辺りに漂っていた異臭が刺激を増す。
「ああ、全く嫌な臭いだ。本当に、最悪だ」
「ほら伯爵、ぼやいてないでさっさと検分しましょう」
「分かっている」
何故お前は平然としていられるんだという顔で見られたけれど、本音を言えば全然平気じゃない。むしろ臭いが強過ぎて鼻が利かなくなってる気がするが、刺激臭が分かるのならしっかり機能してるのだろう。
しかしそれで躊躇っていては事件解決なんて夢のまた夢だ。
見えやすいように持っていたランタンを掲げて遺体を照らす。
一人目の被害者は大分腐敗が進んでいた。年間を通して気温が低い国でも、二か月も放っておかれれば当然である。左手へ視線を落とせば、やはり薬指だけが根元から綺麗に切り取られてなくなっていた。それから下腹部を見て傷があることも確認しておく。
伯爵は手袋をはめ直し、実に嫌そうな顔をしつつ手を伸ばす。
検分には付き合せてくれる癖に遺体に触れる作業は殆どが伯爵自身で済ませてしまい、わたしが手を出そうとすると却下される。彼なりの配慮だと分かっていても少し不満に感じてしまう。
腹部のナカを確認した伯爵が「確かに子宮だけ綺麗にない」と言った。
貴族の子息が通う学校では基礎の勉強を学んだ後、それぞれの将来に合う科目を選択して授業を受けることが出来ると聞いた。伯爵は家を継ぐために神学・教会法・剣術―—これには馬術も含まれる――の必修三科目に加えて薬学・医学・法学・生物学を履修したそうだ。頭の出来が良過ぎる。
仕事中なのに遠い目をせずにはいられない実力の差である。
「……中身は残したままか」
伯爵の声に我に返る。手袋に覆われた手が遺体から離れると、またあの匂いがした。
血と腐敗臭に混ざった香りはどこか甘さを含んだような不思議な匂いだ。
顔を戻すと伯爵が布を戻して、次の双子の布を取っていた。
ポケットからハンカチを取り出して双子の左手を確認する。
「困りましたね」
「そうだな」
二人とも同じ色のマニキュアを付けていて、指の太さも同じ。
二卵性ならまだしも一卵性の双子は容姿が酷似するし性別や血液型も同じだ。指紋はよく似ていても違うらしい。でもこの世界の技術では指紋照合なんて無理なわけで、結局どちらの指なのか断定することはほぼ不可能に近い。
地道に二人と親しかった者に聞くしかないか。
どちらが指輪を付けていたか分かればいいのだから、聞き込みで分かるだろう。
手にしていた指を双子の間に置く。
そうして第五の被害者の遺体を検分したが、左手薬指と子宮がないのは前の被害者と同様であったものの、前三人と違いハッキリと暴行の跡が見て取れた。生きている間に何度か殴られたのか全身痣だらけだった。
第六の被害者は左手薬指と子宮がない以外では、首に絞殺の跡と被害者が付けたであろう爪で掻き毟《むし》った跡が残っていた。比較的、他よりも綺麗な遺体だった。
第七の遺体は逆に酷かった。左手薬指と子宮に加え、背中側の肩甲骨から腰までの範囲にかけて執拗に何度も刺し続けた跡がある。少なくともパッと見て数えただけでも刺し傷は十箇所以上。被害者が妊娠中だったことを考慮すれば、襲われた時に腹部を庇うために犯人へ背を向けたのだと推察出来る。
子宮を取り出すために開けられた腹部の切り傷も雑で内臓が少しはみ出ていた。
そして、そこから無理やり胎児を引きずり出したのかもしれない。
布をかけ直そうとした伯爵の手袋は赤黒く染まっており、ふとその手袋に血とは別のものが付いていることに気付いて持っていたハンカチを広げる。
「伯爵、失礼します」
歩み寄り、伯爵の手袋から慎重にそれを剥がして蝋燭の光りの下に行く。
「何だ?」
「花弁、でしょうか? 手袋についていましたよ」
色は赤黒く染まっていて分からないがそんなに大きくない。
そして安置所に来るまで花弁のつくような場所に伯爵は行っていない。
と、なれば手袋に花弁がついたのはこの場所か……。
伯爵も考えるように手を顎に添えようとして、汚れた手元を見て止めた。考え事をするときに顎に手を当てるのは癖らしい。よく見かける仕草だ。
検分を続ける伯爵を横目にハンカチに乗せた花弁を弄《もてあそ》ぶ。
「それが気になるのか?」
検分を終えた伯爵が汚れた手袋を外しながら聞いてくる。
汚れた手袋を回収して新しいものを手渡しつつ頷く。
伯爵「そうか」と言って第八の被害者へ丁寧に布をかけた。
最後の九人目の被害者の布をわたしが取ろうとしたら伯爵が手で制し、布の中へ一瞬視線を落として「お前は見ない方が良い」と呟く。わたし側からはまだ見えていないがそんなに酷い状態なのか。
立場柄か、伯爵はそうそう前言を撤回しない。
わたしは諦めて手袋を外し、薄暗い壁を眺めて待つことにした。
暫くすると「もう良いぞ」と声をかけられて顔を戻す。
「顔と頭部の損傷は酷いが、体は左手の薬指と子宮がないこと以外は特になかった」
「では死因は顔や頭部の怪我ですか?」
「ああ。触れて確かめてみたが頭蓋骨が割れて陥没している箇所があった。顔の損傷具合を見ても、鈍器で殴り殺されたというのが妥当な検分だろう」
汚れた手袋を外した伯爵からそれを受け取り、新しい手袋を渡すとすぐにそれを嵌めて踵を返した。
わたしもその後ろへ続いて狭い階段を上り、元のホールで先ほどの受付の女性に軽く礼を述べてランタンを返却して安置所を後にした。死臭が漂ったのか門に立つ男達の表情は硬い。
待たせていた馬車に乗り込み屋敷に戻る旨を告げて腰掛けると、馬車はすぐに走り出した。
「窓は開けておきましょうか?」
「ああ。戻ったらまずは湯浴みをしたい」
「そうですね、流石にこの臭いを纏わせていては周囲にも迷惑でしょう」
御者も後で馬車の臭い取りに苦労するだろうな。
お疲れ様です、と心の中で労いつつ椅子へゆったりと腰掛ける。
静かな馬車の中にはガラガラと車輪の音が響く。伯爵は何か考えているらしく腕を組んで窓の外へ視線を投げかけたまま微動だにしない。わたしはその姿をぼんやりと眺めてみた。
伯爵は美形だし地位も高いし、さぞ女性にモテるだろう。
それなのに残念なことに彼は恋愛に興味がない。浮いた話が全くないのだ。
場合によっては死体や殺人現場を見ることになってしまうだろうが、差し引き計算してもそこそこお買い得物件に見える。勿体無い。さっさと奥さんもらって、ちゃっちゃと子どもをつくってしまえばいいのに。
唐突に視線を戻した伯爵がわたしを見て眉を寄せた。
「今、良からぬ事を考えていただろう?」
「まさか、気のせいですよ」
無駄に勘の良い人だ。仕事柄、人の感情の機微に聡くなるのかもしれない。
ヘラリと笑うわたしを疑心の残る表情で暫し見つめたが、また思考の海に沈んでしまう。
わたしもそれ以上伯爵について考えるのを止めて車窓の景色を眺めることに徹した。
屋敷へ到着した伯爵は出迎えた執事へ湯の支度の指示と共にハットや杖等を任せ、二階の居住スペースへ向かった。その高い背に苦笑を零しつつ自室へ戻る。
部屋に小物を置いて、代わりに着替えを手に使用人棟の階下へ下りる。
この屋敷には上級使用人用の浴室がある。沸かした湯を盥《たらい》に張って軽く体の汚れを落とす部屋で、男女別にあり、下級の使用人達は自室まで盥や沸かした湯を運ばねばならないのだが上級使用人は給湯室に隣接するその部屋で楽に湯を使えるのだ。
着替えを女性上級使用人用の浴室へ置き、給湯室の隅にある薪を使って湯を沸かす。竃(かまど)とも暖炉とも見えるそこで沸かした湯を浴室の盥へ注ぎ、ピッチャーで持ってきた水を継ぎ足して温度を調整する。
臭いの染み付いてしまった服は脱いで洗濯籠へ。靴を脱ぎ捨てる。
上着は――……これも一度洗わないとダメそうだ。下着はいいや。
髪を纏めていたリボンを解き、湯に浸した布を固く絞って髪を拭う。洗う時間はないし気温が低いので寒い。髪を布で纏めて頭に上げて盥の湯に浸かる。やや深めだが座っても腹部辺りまでしかない。
濡らした布で石鹸を泡立てて手早く体を擦っていく。湯が冷める前に出よう。
湯で泡を落とし、腕に顔を寄せて確かめたが嫌な臭いは消えていた。
上から順繰りに水気を拭き取り、最後に湯を出て足周りを拭い、下着と衣服を身に纏う。
使った湯は小さな盥で掬って何度かに分けて捨て、ある程度軽くなったところで大きな盥を持ち上げて捨てる。盥を洗って元の場所へ戻して靴を履く。
髪に触れるとまだ僅かに湿っており、布で雑多に乾かしながら自室へ戻る。
鏡の前で髪をブラッシングしてからリボンで結び直した。
「……うう、寒っ」
冷え切った室内に身震いしてしまう。
暖炉は他の使用人が灰を掻き出して綺麗にしてくれてあるので、マッチで細い薪に火を点け、暖炉の太い薪の間に慎重に差し込む。少しの間を置いてゆっくりと火が大きくなった。
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