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第五章

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「────響弥さん?どうしたんすか?」

 迅鵺は、突然の訪問者に少し驚いてる様子。それもその筈だ。今の時刻は夕方の五時頃で、あと三時間もすれば開店時間。

 それなのに、なんの連絡も無くいきなりマンションに訪ねて来たのだから。

 「急に悪りぃな・・すぐにでもお前に話さなきゃならねぇ事が出来た。」

 いつになく真剣な表情からして、大事な話だということが分かる。
 迅鵺は、一体どんな話があるのだろうと思いながら響弥を部屋に上げた。


 「────話って何すか?」

    冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを響也の前にあるテーブルに起き、お互い向き合う形で座った。

 「鮎沢とは必要以上に関わるな。」

  いきなり強い口調で伝えられて、迅鵺は戸惑った。

 「まだ悠叶さんのこと疑ってるんすか?悠叶さんは悪い人じゃ───」

 「迅鵺、お前は一体アイツの何を知ってるって言うんだ?結局は表面のアイツしか知らねぇじゃねえか。」

 迅鵺の言葉を遮るように言う響弥に、迅鵺は少し腹が立った。───いや、単に否定したいだけなのかもしれない。

 「・・・響弥さんには色々感謝してますけど、なんで悠叶さんにだけはそんなに突っ掛かるんすか!?実際、今日まで何もなかったじゃないですか!」

 つい、迅鵺まで強い口調になってしまう。
 けれど響弥は引かなかった。膝の上にある手はギュッと固く握られていて、響也の怒りが伝わってくる。

 「今日まで何もなかっただと?それは、お前が何も知らないだけだ!俺はついさっき鮎沢と話してきたんだぞっ!アイツはお前の事を特別な目で見てるっ!」

 響弥の言葉に、迅鵺は言葉が出なかった。

 今まで考えないようにしてきた可能性を言われてしまったからだ。

 “悠叶さんが、俺を特別な目で見てる?”

 「なっ、何言ってるんすか?・・ははっ、だって俺も悠叶さんも男っすよ?」

 同様を隠すように空笑いする迅鵺。落ち着かない様子で響也を直視出来ないでいる様子に、響弥は妙に背徳感を覚えたが響也にとって、いま大事なことはそんなことではない。

 「世の中にはゲイという人種も居るだろ。鮎沢がそうなんじゃないのか?普通に考えて定期的にホストに通う男が居るか?冷静になって考えるんだ迅鵺。」

 響弥の“まとも”だと思える言葉に、迅鵺は考えざるを得なくなってしまう。

 迅鵺は悠叶が現れてから何事も起こらなくなって、心底安心してしまっていたのだ。
 知らず知らずに居心地が良い空間(悠叶)に、居座って忘れようとしていたのかもしれない。

 あの男にされた事実を。
 そして、今でも燻ってるあの強烈な快楽を。

 迅鵺は、突き付けられた現実に自然と体が力んでしまう。固く結ばれた口は、力が入っているせいで顎がじわりと疲れてくる。

 時間にすればほんの数秒だが、長くも感じられるが二人のあいだに流れて、迅鵺は諦めたように重たい口を開いた。

 「────確かに響弥さんの言う通りかもしれないです・・悠叶さんが良い奴でいてくれた方が、俺にとって都合が良かったんすよね・・きっと。」

 迅鵺の肩を落とす姿は響弥にとっても辛いものだ。
 だけど、迅鵺が悠叶によって傷付けられる姿は決して見たくはないのだろう。

 今まで必死に認めようとしなかった迅鵺への想いを認めてからの響弥の決意は固いものだった。


*****


 「迅鵺さん、今晩は。」

 金曜日になり、悠叶はいつものようにTOP SECRETへと来店した。

 「いらっしゃいませ、悠叶さん。」

 迅鵺はいつも通りに出迎えたつもりだけど、人一倍迅鵺を見てきた悠叶は、些細な変化にも気付いた。

 いつもは出迎えてから席に移動するまでの間、極力悠叶の顔を見ながら会話をする迅鵺が、挨拶をして直ぐに目を反らし席へと歩き出す。

 席に着くまで数回の会話はしたものの、悠叶はそんな迅鵺を見逃さなかったのだ。

 いつものように悠叶の隣りに座って薄い水割りを作ると、悠叶の前に用意されているコースターの上に置く。
 マドラーで掻き回された水割りは、カランと氷がグラスを擽るように音を鳴らした。

 時間にしたらたったの数秒の沈黙だが、ホストとしてお客を持て成すこの場では長いで、本来ならお酒を作りながら会話をするのが当たり前だ。

    酒を作り終えて、流石に黙っている訳にもいかず、迅鵺の重たい唇は開かれる。

 「───今日も、寒いっすね・・悠叶さん鼻が赤くなってますよ。」

 悠叶は言われて鼻の頭を人差し指で軽く擦ると“そうですか?”と言って、気まずそうに笑った。

 「あ、あのっ──・・迅鵺さん。俺、何かしましたか?」

 明らかに眉を下げてしゅんと落ち込んでいる姿の悠叶を見ると、迅鵺は罪悪感を感じてしまう。

 まるで、犬が飼い主に見捨てられたかのような悠叶の素振りに、悠叶が迅鵺の事を好きだったとしても、あの男と重ねて怖がる程の事なのかと迅鵺は思わせられる。

 目の前に居る悠叶は、やはりあの男とはまるで雰囲気が違う。
    響也が言うように、ただ優しい人のフリをしているだけだとでもいうのだろうか。

    響也に念を押されたものの、迅鵺は完全に腑に落ちている訳ではない。
    いくら見た目がそっくりだとは言え、そもそもあの男が本当に実在する者なのかさえも定かではない上に、迅鵺の目の前にいる悠叶はいつも優しい。

    それに、あの男が本当に悠叶ならば、迅鵺の部屋に泊まった時に何かされていてもおかしくない筈だ。

    迅鵺は、柄にもなくグルグルと思考を廻らせる。

    「・・迅鵺さん?」

    気付くと迅鵺は、いつまでも煮え切らない思考に苛立ち始めていた。
    なかなか返答がない迅鵺に心配になった悠叶は、不安そうな表情で迅鵺の様子を伺った。

    ─────パンッ!

    「っ?!」

    急な迅鵺の行動に、悠叶はビクッと身体を跳ね上げた。
    迅鵺が自分の両頬を自ら両手で叩いたのだ。

    あ────っ!イライラするっ!馬鹿みてぇ
 
    答えの出ないことをいつまでもクヨクヨと考えている自分に、いい加減嫌気が差したのだ。

 「────急にすいません。悠叶さん、今日の営業の後、時間ありますか?」

 突拍子もない迅鵺の行動のせいで、ただでさえ動揺している悠叶に突然の迅鵺からの誘い。悠叶は目を丸くして驚いている。
 悠叶は、良い話しではないような気がしたけれど、それでも迅鵺に誘われるという事は、悠叶にとってそれだけでも特別な事だった。

 「も、勿論です。迅鵺さんに誘われて断る理由なんて、俺にはないです。」

 迅鵺は悩んだ結果はっきりさせようと腹を括ったのだ。

 あの男と関係があるのか、悠叶の本当の目的はなんなのか──・・

 このまま、ズルズルと当たり障りない日常を送っていても、なんの意味もない。
 ただ、響弥も悠叶も迅鵺も全員がモヤモヤとした気持ちで、結局は問題を先延ばしにしているだけ。

 勿論、迅鵺も真実を知るのは怖いし自分がどうにかなってしまうかもしれないと思うと、手に汗を握る思いだ。

 けれど、これ以上響弥に心配させたくなかったし、悠叶を疑い続ける事も、いつまでも怯えている情けない自分も、もう嫌だったのだ。

 今まで迅鵺は真実から目を背け、ずっと逃げて来たけれど、迅鵺はどんな形になったとしても今日で全てをはっきりさせるつもりだ。

   こうして、自分の中でケリをつけていつもの迅鵺へと切り替えた。


*****


 「迅鵺、どういうことだっ!?あれだけ言ったよな?アイツには近付くなって!」

 迅鵺は、営業終了後に外で待たせている悠叶の元へ行こうと、店の裏口から出た所で響弥に捕まっていた。

 響弥は、他のホストから迅鵺と悠叶はアフターだと聞いて慌てて迅鵺を追ってきたのだ。

 「響弥さんっ・・勝手なことしてすいません。でも俺、これからずっと悠叶さんを疑っていくなんて嫌なんです。それに、響弥さんに心配かけ──」

 迅鵺の言葉を最後まで聞かずに、響弥は迅鵺を店の外壁に追い詰めて、迅鵺の目をじっと見詰める。

 「────頼むから、これ以上俺を不安にさせるな・・」

 そう呟いた響弥の表情は、夜中の店裏で暗いこの場所でも、悲しそうな瞳の色を揺らめかせているのが分かった。

 そんな切羽詰まる響弥の態度に迅鵺はどうしたらいいのか分からなくて、言葉を失ってしまったけれど、迅鵺も思う事があって決めた事だ。

 「────すいません。行かせて下さい。これで、はっきりさせますんで。」

 迅鵺の強い意志に諦めたように、外壁に付けていた腕を力無く落とした───かのように見えたのだが、迅鵺が響弥に頭を下げてその場を去ろうとした瞬間、響弥に腕を掴まれて抱き寄せられてしまった。


 「──────っ!?きょ、響弥さんっ?」

 迅鵺は急な出来事に驚いて体が固まってしまう。そんな迅鵺を、響弥はしっかりと抱き締めていた。

 「───なあ・・何かあってからじゃ遅いだろ?どうしても行くって言うなら、俺も連れてけ。」

 「響弥さん・・どうしたんですか?こんなの、おかしいです・・とりあえず離して下さい。」

 “こんなの、おかしいです”

 迅鵺の言葉に響弥はズキッと胸を痛めた。
 迅鵺を好きだと認めただけで、こんなにも気持ちが溢れてしまうものなのか・・・

 響弥は自分自身に驚いていたが、それよりも悠叶の元へ行かせたくない。

 傷付いて欲しくない。危険な目に遭わせたくない。

 “誰にも渡したくない”

 響弥の強い想いが、響弥を動かした──・・

 迅鵺を抱き締めていた腕を少し緩めると、静かに、でも情熱的に迅鵺の顔を伺う。
 迅鵺の瞳と視線が絡まって、響弥はゆっくりと迅鵺の顔へ自分の顔を近付けていく──・・

 唇に触れそうなくらいまで二人の距離が縮まった時、この空間に劈くような声が響き渡った。


 「迅鵺さんから離れろっ!!」


 いきなり現れた悠叶は、ズカズカと二人に近付くと響弥の肩を掴み迅鵺から引き剥がす。
 そのまま勢いに任せて、店の外壁とは反対側の壁に叩き付けた。

 「──────っ!」

 背中からのビリビリとした振動と衝撃に顔をしかめる響弥。
 そんな響弥に悠叶は、物凄い形相で詰め寄った。

 「言いましたよね?俺から迅鵺さんとの時間を奪うなと。」

 普段はおっとりとした悠叶だが、この大きな図体と怒りを露にした悠叶の迫力に、この場の空気が集中する。

 静かに・・でも、どす黒い悠叶の怒りがひしひしと伝わるようだ。

 それでも、響弥は怯まなかった。自分よりも大きな悠叶の胸を押し退けて、自分から引き剥がす。

 「お前に迅鵺は渡さない。迅鵺を傷付ける奴は、どんな野郎でも許さない。」

 今まで可愛がってきた後輩、それが恋愛感情へと変化した響弥の気持ちは大きなモノだ。

 けれど、悠叶も自分の性癖に劣等感を抱いてるからこそ大切にしてきた迅鵺との時間に、響弥にも勝る想いがあった。

 「それは、俺の台詞です。俺から迅鵺さんを奪うつもりなら、一層のこと今この場で迅鵺さんを殺します。」

 悠叶の思いもよらない言葉に、その場は一瞬静まり返る。
 けれど、迅鵺よりも先に声を上げたのは響弥だった。

 「てめぇっ!ふざけたこと言ってんじゃねぇっ!」

 言葉を発すると同時に悠叶に掴みかかろうとするが、悠叶はそれを突き飛ばして躱すと迅鵺の目の前に立った。

 「────悠叶さん・・冗談っすよね?」

 迅鵺は、自分を殺すと言った悠叶に警戒の色を隠せない。
   そんな迅鵺の様子に、悠叶はとても切なげな表情で手を伸ばすが、迅鵺にその手を払われてしまう。

 「悠叶さんっ!なんでこんな事するんですかっ!?」

 迅鵺は声を荒げた。
 今目の前に居る悠叶は、あの男と重なって見えて複雑な心境になってしまう。

 迅鵺が実際に見てきた悠叶と、この世の者とは思えないあの男。

 外見だけが瓜二つな二人の人物が、交互に脳裏に浮かんでくる。

 だが、今の悠叶はあの男に近い雰囲気を醸し出していて、迅鵺は“やっぱり響弥さんの言った通りだったのか?”と思いたくないのに思ってしまう。

 冷や汗が流れた。

 悠叶の手を振り払った拍子にバランスを崩して、そのまま後ろへ倒れるが、肘を着いて頭が地に着くのは防げた。
 けれど、上体を起こす間もなく悠叶が跨がって迅鵺の首を絡めとったのだ。

 「────迅鵺さんっ・・ごめんなさいっ・・好きです。ずっと、好きだったんですっ。」

 悠叶は泣いていた。


 「────う"っ・・ぐっ、ううっ・・」

 「ごめんなさいっ・・ごめんなさいっ!!」

 悠叶は、何度も何度も謝りながら迅鵺の白く綺麗な首を絞めていく。
 迅鵺の顔に大粒の涙を沢山落として──・・

 “迅鵺さんには触れない”
 そう決めていたのに、矛盾した気持ちが悠叶を苦しめていた。

 罪悪感と哀しみで胸ははち切れそうな程に傷むのに、苦痛でもがき苦しむ迅鵺の表情には、目を見張る程に興奮してしまい、爪を立てて悠叶の絞める手を退かそうと引っ掻く爪は、悠叶の手に食い込み血が滲んできているというのに、それさえも心地好く、悠叶はどんどん胸を昂らせる。

 身体の芯から熱く滾る欲望が沸き上がってくる感覚に、悠叶はぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣くのだ。

 「───好きになってごめんなさいっ・・でも、もう独りは嫌だっ!」

 悠叶は、そう言うと締め付ける手に力を込めた。

 「うがっ──・・あ"っ・・」

 迅鵺は苦痛の表情をより強めて目は見開き、ギリギリと歯を食い縛る口からは涎が飛び散る。

 一度、響弥が悠叶の後ろから襟元を掴んで、迅鵺から引き離そうとしたけれど、全身に力が入っているデカイ図体は動いてくれない。

 響弥はすぐに手を離して、悠叶の横から胸ぐらを掴み自分の方へ向かせると、力いっぱい悠叶の頬を殴った。

 流石に悠叶も、その衝撃には耐えられなくて手を離す。

 迅鵺は酷く咳き込み上手く呼吸が出来ないようで、苦痛で見開かれた目には涙を浮かべている。

 そんな迅鵺の姿を見て、悠叶は頭が真っ白になってしまった。
 迅鵺を苦しめた自分の手を眺めながら、悠叶は思った。

 “この感触を知っている”

 悠叶は、自分の気持ちが黒いモノに蝕まれていくような感覚に恐怖する。

 “傷付けるつもりじゃなかったのに”
 “傷付けたくなかった筈なのに”

    “俺はとんでもないことをした”

 迅鵺の上で、放心状態の悠叶は響弥によって引き剥がされ、店の外壁に投げ飛ばされる。

 何処を見ているのか分からない暗い瞳からは静かに涙が流れ落ちていて、放心状態のままの悠叶の股間は、大きく盛り上がっていた───


 「ガハッ!ゲホッゲホッ───」

 喉が切れ血が出る程までに咳き込み、苦悶の表情を浮かべる迅鵺。
    すかさず響弥は駆け寄って背中を擦る。

 「迅鵺っ!!大丈夫かっ!?息は出来るかっ!?」

 迅鵺の首には、悠叶の手の跡がくっきりと残っていて、首から上に酸素が回らなくなっていた迅鵺の顔は熱を持ち真っ赤になっていたが、だんだんと赤から蒼白く変わってくる。

 響弥の声は聞こえてはいるが、返事をする余裕はなかった。
 そんな迅鵺の様子に、響弥は血の気が引く思いで震える手を必死に押さえながらスマホを手に持つ。

 けれど、迅鵺は咳き込みながらも響弥のスマホを持つ手を制した。

 「────迅鵺・・」

 響弥は、ハッとして迅鵺を見ると苦しそうに涙を浮かべながらも首を振っていた。

 “救急車は呼ばないで下さい”

 言葉にしなくても、迅鵺の性格を考えれば響弥にとってそう受け取る事は容易であった。

 迅鵺の気持ちを汲んで響弥は“わかった”と伝えると迅鵺の背中を落ち着くまで擦り続けた。

 暫くして、怠くふらつく体を響弥に支えられながら立ち上がると、未だに響弥に投げ飛ばされた体勢で放心状態のままの悠叶の前に立ち、迅鵺は静かに口を開く。

 「────悠叶さん・・俺は信じてました・・悠叶さんは悪い人なんかじゃなくて、本当に良い人なんだって・・・」

 「けど、悠叶さんは・・最初から俺に、こんな事をするつもりだったって事っすか?」

 何も言わない悠叶に、怒りが湧いてくる。

 けれど、それ以上に迅鵺は悲しかった。せめて、何か納得出来る事情とか何でもいいから否定してくれる事を願った。

 しかし、この沈黙が答えなのかと迅鵺は受け取る。

 「────もう、ここには来ないで下さい。」

 色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、この状況を理解しきれてはいない。
 迅鵺は震える声で伝えると、悠叶を置いて響弥とその場から離れていった。


*****


 ああ───、迅鵺さんが行ってしまう・・・

 悠叶は、情けなく外壁に背中を預けて座り込んだまま迅鵺の離れていく背中を見詰めていた。

 悠叶は響弥に殴られた時、我を取り戻すと同時に思い出してしまったのだ。
 以前にも同じように、迅鵺の首を絞めた手の感触を。

 そして、嫌がる迅鵺を組み敷き無理やり犯した事を。

 「俺は、なんてことをっ──・・」

 誰も居なくなったこの暗い路地裏で、悠叶は声をあげて泣いていた。

 もう、迅鵺に会いに行くことすら出来ない。

 “こんな重要な事さえ、俺は解っていなかったのか!?”

   大変な事をしておきながら、のうのうと迅鵺のお店にまで行き始め、通った。

    「────正真正銘の、とんでもないキチガイ野郎じゃないかっ・・俺は・・」

 悠叶は、酷く自分を責めた。

 迅鵺を苦しめて犯した夜の事も、響弥に見せつけるように辱しめた夜の事も。

 悠叶は今の今まで、夢の出来事だと思っていたのだから。


 ─────時は遡る。

 悠叶は、写真のコンテストに出品する写真を撮る為にカメラを持ち、何ヵ月もかけて都内を出回っていた。

 悠叶が自分で決めた写真のテーマは、都内の動物。

 鳥や野良猫、野良犬も見掛けた。
 雨が降った日は、蛙や蝸牛等、見掛けた様々な生き物を撮って歩いていたのだ。

 カメラに捉えられる瞬間は、瞬きひとつで逃してしまう世界。
 悠叶は、そんな一瞬一瞬を見逃さないよう、最高の瞬間と出逢う為に全身全霊を掛けてカメラを構える。

 そして、八月の上旬。

 悠叶は新宿を回っていた。
 都会全開の風景の中に、野生な瞬間を捉えたい。

 その日も、カメラを握る手に力が込められている。


 夢中になって、撮影をして回っていると、気付けば辺りは暗くなっていた。
 時刻を確認すると、七時を回っている。

 この時間になると夜の商売が栄えはじめて、ホステスのお姉さんやホストのお兄さん、水商売の雰囲気を纏う人達があちこちに見える。

 そんな中で、悠叶はバッタリと会ってしまったのだ。約十年ぶりに会ったけれど、忘れる筈もない。

 奏太の顔を───


 「────かな、た・・」

 十年ぶりに見た奏太は、少しだけ背が伸びたみたいだが、それでもそんなに高くはない。

 悠叶よりは低いけれど、奏太より背の高い男が奏太の隣に居て、その男の腕に絡み付いて幸せそうに笑っていた。

 そんな姿の奏太を見て、悠叶は複雑な心境だった。
 奏太を辛い目に合わせてしまったのは事実だけれど誘ってきたのは奏太で、あの出来事がきっかけで悠叶はトラウマになってしまったのだから。

 “正直、会いたくなかった。”

 悠叶は目の前の奏太から目を反らす。

 「─────っ、悠叶・・?」

 奏太も悠叶だと気付いたようで、驚きと気まずそうな表情を見せる。

 だけど、一瞬でその表情は一変した。

 「なんでこんな所を彷徨いてる訳?絶対に会いたくなかったのに・・最低なんだけどっ!」

まるで、憎しみを抱いている相手に向けるような、冷たく鋭い目つきで悠叶を睨みつけたのだ。

 悠叶は、ショックのあまり声も出せず、大きく見開かれた目は奏太から反らす事が出来ない。

 “奏太は、ずっと俺を恨んでいたのか?”

 奏太の様子からそう伝わってきて、ジクリと胸が痛みを訴えた。

 「奏太、知り合いか?」

 奏太の隣に居た男が、不振そうな表情で訊ねる。
 奏太は、一度隣の男の顔を見上げると男の腕に絡めていた腕にギュッと力を込めて、まるで告げ口でもするかのように言い放った。

 「カズくんっ!この男だよっ!前に話した事あるでしょ?僕を酷い目に合わせた張本人だよっ!!」

 カズくんと呼ばれた男は、奏太の話しを聞くなり苛辣な目で睨み付けると、いきなり悠叶の胸ぐらを掴んできて、思いっきり頬を殴った。

 「奏太から話しを聞いてから、一度殴ってやりたいと思ってたんだ。お前みたいな奴は、一度死ぬ程の苦しみを思い知った方がいい。」

 そう言い捨てると、奏太の手を引いてその場を去っていく。
 去り際に、殴られた衝撃で尻餅着いている悠叶を奏太は無言で見下していった。

 「─────っ、」

 ショックのあまり、ビクとも動けなかった。

 殴られた場所は、どんどん熱を持っていって、そこから脈打つように痛みが広がっていく。

 痛いのは、頬だけではない。殴られた場所よりも、遥かに心が傷んだ───・・

 何度も思った。自分は生きる資格がない程に醜い性癖を持っていると。
 けれど、死ぬことなんで出来なかった。

 ただただ、虚しさと悲しさ、苦しみと孤独が悠叶の心の傷痕を抉っていったのだ。

 悠叶は重い腰をなんとか上げて立ち上がると、フラフラと何処へ向かうのかも考えずに歩き出す。

 奏太は幸せそうだった。
    外だというのに男同士で腕まで組んで。

 知らなかった。
 俺達の事を誰かに話していただなんて。

 俺はずっと独りだった。ただの一人にも話した事すらなかった。

 本当は寂しかった。自分の性癖を憎みもした。

 けれど、それ以上に、拒まれ、傷付け傷付けられる事が怖かった。
 だから独りでも生きて来られたんだ。

 奏太に不幸になって欲しかった訳ではない。
 幸せなら、それはそれで良かった。

 ”でも、あんな目で見なくても良かったじゃないかっ!!“

 悠叶は、今にも泣きたい気持ちをグッと堪える。
 だけど、今までたった独りきりで怯えるように自分の性癖を隠して生きてきた悠叶だったが、そんな努力も一瞬で消えて無くなってしまう程の孤独が悠叶を更に深い闇へと突き落とした。

 そんな時だった。ドンッと肩に誰かとぶつかったような衝撃があり、全く体に力が入っていなかった悠叶は、ぶつかった衝撃で倒れてしまう。

 「やっべっ!!お兄さん大丈夫っ!?ちょっとワリぃけど俺急いでんだっ!何かあったら直ぐそこのTOP SECRETって店で働いてるからそこまで来てくれよっ!マジ悪いっ!」

 どうやら悠叶は歌舞伎町まで来ていたらしく、随分と派手な身なりの男は、顔だけ後ろを向かせて走りながら叫んでいった。

 これが、迅鵺と悠叶の出逢いだった。

 ───奏太との出来事があってから約三週間、今までは当たり前だった独りの世界が酷く辛い物となった。

 ほぼ毎日、悪夢を見た。

 蔑むような冷たい目で世間に見られる夢。

 “お前はなんの為に生まれてきた?”
 “お前みたいな奴がなんで生きている?”
 “お前なんて死ねばいいのに“

 そして、最後には必ず奏太と一緒に居た男二人に首を絞められ殺されるのだ。

 “お前みたいな奴は、一度死ぬ程の苦しみを思い知った方がいい”

 毎日毎日、脳裏にこびりついて剥がれない重い言葉だった。

 きっと奏太は、死んでしまうのではないかと思う程の苦痛を味わったのだろう。
 悠叶は悪夢を見る毎日で、奏太の恐怖や苦痛を思い知らされていくようだった。

 三週間もの間、食欲も無く眠れない日々が続いた悠叶は、心身共に限界を迎えようとしていた。

 “こんなに辛いなら死んだ方がマシだ”

 これまでに思った“死んだ方がいい”とは、比べ物にならないくらいの気持ちだった。

 悠叶は、ついに自分の人生に終止符を打とうとしていたのだ。

 そんな、まさしく不幸のどん底に居た悠叶の目の前に、又もや迅鵺が現れた。

 八月二十八日、悠叶は自らの命を断とうと首を吊る為のロープを買いに、古びたアパートの部屋を出た。

 すると、アパートの直ぐ近くのコンビニ付近にある立派なマンションに一台の引っ越し屋のトラックが停まっていて、その傍に迅鵺は居たのだ。

 「────あの人・・この前の・・・」

 迅鵺は、自分が買ったマンションでの生活に胸を踊らせているのかとても上機嫌で、その時の悠叶にとっては眩しいくらいに輝いて見えた。

 とても、直視なんて出来ないくらいに。

    直視なんて出来ないと思うのに、その生に満ち溢れているような生き生きとした迅鵺から目を離せない。

    一瞬で心を奪われた。

 悠叶の孤独な闇を晴らしたのは迅鵺だった。

 そう思ってしまったのは、悠叶が酷く弱っていたからなのかもしれない。
 けれど、そのタイミングで出逢ったからこそ運命だったのだ。

 少なくとも、悠叶の中ではそうだった。
 一筋の涙が頬を蔦って落ちる。

 “もう一度、人を好きになってもいいだろうか?”

 もう、決して触れたりしないから。
 絶対に傷付けたりしないから──・・


*****


 「うあ"あああああっ!!俺はっ・・俺はっ、とんでもない奴だっ!あんなに心に誓った筈だったのに・・結局、いつの間にかあなたの傍に居て・・迅鵺さんに手を掛けていた癖にっ──・・!!」

 暗い路地裏に一人取り残された悠叶は、酷く取り乱していて、自らの頭に爪を立て血が滲む程にその手には力が込められている。
    激しく後悔をしていた。
 毎週会ってくれる迅鵺に、いつの間にかうやむやになっていた心の闇の部分。
 最初は、迅鵺の知らない所で見ているだけでも良かった筈だったのに、人間というものは少しずつ欲が出て来るものなのかもしれない。
  
 “もう、ここには来ないで下さい”

 迅鵺の言葉は、悠叶の胸を抉った。

 自分が悪い事は痛い程に分かっている。
 けれど、悠叶にとって言葉通り最後の生きる糧となった迅鵺に嫌われたとなっては、今度こそ悠叶はこの世に生きる意味を無くしてしまった。

 “やっぱり俺は生きているだけで罪なんだ”

 今の悠叶には、そうとしか思えなかった。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔もそのままに、ゆらりと立ち上がるとヨロヨロと覚束無い足取りで歩き出した。

 途中色んな物にぶつかりながら大通りに出た時、赤信号に気付いているのか気付いていないのか分からないくらいの無表情で道路へ足を進める悠叶。

 その大きな体を、強い車のヘッドライトが照らした。
 悲鳴にも似たその場を劈くような、タイヤが地面を擦る音が辺りに鳴り響く。

 その音が一番集中した場所には、車に跳ねられた悠叶が横たわっていた。

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