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二十、月に杯

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 朧に従い大人しく後を追う、なんてことは常ならば起こらない。警戒心を緩めることもしないだろう。けれど自ら言い出したことで手を引かれるまでもなければ真意を探る必要はない。もっとも私に酌をされたがる朧の心中は理解不能だけど。
 宴が進めば誰が消えようと大した問題ではないと、主催者は笑みを携え言い切った。その顔には悪びれた素振りもなく、そういうものなのかと私に正確な判断は難しかった。けれど藤代が聞けば異を唱えるような気がしてならない。朧の顔はそういう表情だった。

 朧は縁側に酒を頼むと指示していた。つまりそこに移動して酌をさせるのだろう。
 足を進めるごとに宴の騒がしさが遠ざかり、つられるように私の肩からも力が抜けていく。罪滅ぼしのために給仕を申し出たとはいえ肝は冷える。どんなに平静を取り繕おうとあの場にいる全てはあやかしなのだから、刀の一振りもなく紛れ込むのは心許なかった。

 ……では何故行動に移したのかと問われれば、朧がいるからだ。朧がいるから大丈夫、そんな都合のいいことを考えた頭を殴りたい。けれど悲しいことにそう認識しているのが現実だった。

 宵闇に浮かぶ朧は怖ろしいほど美しい。風に揺られる髪を気にするでもなく、切れ長な瞳が見つめる先には神々しく月が輝いている。なんて美しくあやかししい光景なのだろう。
 私はといえば、そんな朧から一人分の距離をあけ正座している。やがてあけていた場所に酒が置かれた。

「はい」

 事務的に声をかける。注ぐので構えろと促したつもりだ。ただ透明な液体を注ぐだけ、簡単な仕事と割り切ることにする。ともすれば、注ぐのは水でも良いのでは?

「水でも良い気がする」

「なんだ?」

 疑問をそのまま口にすれば朧が問う。惑わされるのはいつも私なので珍しい光景に少しだけ優越感を抱いた。

「別に……熱いと思っただけ」

 独特の匂いが香りるだけで慣れない私はむせてしまいそうだ。

「心地良いものだろう?」

 どこか夢見がちな思考は酒に当てられたせいかもしれない。これが酔うということか。だとしたら私はよほど酒に弱い体質なのだろう。

「そんなこと――」

 続きは言葉にならなかった。もう、何を言うつもりだったのかさえ覚えていない。動揺した勢いに傾いたのか手に冷たい液体が触れ、いっそう酒の匂いが強くなった気がする。
 朧に口付けられ私の頭は真っ白になっていた。それはほんの短い間のことで、拒む暇も反撃する隙も与えてもらえない。完全に私が油断している隙を狙われた。

「お前、何を……」

 夢うつつのようにおぼろげで現実かと疑いなるほどの刹那。けれど唇に触れた熱さと酒の匂いが現実だと訴えてくる。

「このっ!」

 ようやく事態を受け入れた私の取る行動なんて決まっている。

「暴れるな、零れるぞ。ああ、勿体ないな」

 朧が酒に濡れた私の手を――舐めた!?

 我慢の限界だ。
 もとより口付けられた段階で我慢という選択肢はあり得ない。現実に起こったことだと認識するまでに時間を要しただけのこと。瞬時に張り手を繰り出すべく攻撃するが読まれていたように阻まれた。

「どうした? ああ、こちらも舐めてほしいか」

「ふざけるのも大概にして!」

「君の酒が美味くてね。少しばかり呑み過ぎたようだ。酔っ払いの戯れだと思ってくれ」

「嘘をつくな。藤代が、お前は底無しだとよくぼやいている」

「チッ」

 実に綺麗な舌打ちを聞きながら手の自由を取り戻す。
 迷惑をかけた自覚はあった。だから朧が望むなら、この瞬間ばかりは大人しくしていようと思ったのに……頑張りも全て台無しだ。罪滅ぼしなんて自己満足を計画したのがいけなかったのか、所詮私には似つかわしくない行為だった。

「もういっそ頭から被る!? なんなら私が陶器ごと投げつけてあげる!」

 ギュッと、手の中で酒が揺れた。人がこんなに振り回されているというのに朧はなにがおかしいのか笑っている。

「何?」

 それが感に触って隠す気のない不機嫌な反応を示す。

「君はそうして凛としている方が似合っているな」

 すぐさま立場は逆転、また首を傾げるのは私の方になった。

「先ほどまでは随分しおらしく、まるで別人かと思うほどだ。あれはあれで良いものだが、こちらの方が好ましい」

 全力で呆れ言葉に詰まる。私がうろたえている一方で朧の意識は手元の酒に戻っていた。
 つまり私らしくない、と。だってそれは――せめて自分にできることをしたいと思ったから。屋敷のあやかしにも朧にも、助けられた恩は返したいと思うから。だからこそ大勢のあやかしの中に身を置く状況にも耐えた。大人しく朧に従い酌もして……そこまで考えれば発言の意図もぼんやりとだが思い当たる。

 屋敷の者に迷惑をかけたことで私が気に病まないようにわざと挑発している?
 私を煽っていつもの調子を取り戻させて、自分が悪者のように振る舞っているの?
 まさか……あの中から連れ出す口実も作ってくれた?
 全部都合の良過ぎる解釈だろうか。

「私の、ため……」

 呟けば朧が視線だけを寄こす。けれど何も言わず、それこそが確信に触れた証のようで胸をざわつかせた。罪滅ぼしをするつもりで赴いておきながら、逆に朧に慰められるなんて情けないばかりだ。

「ここでもう一撃殴りにかかったら私の負け、のような気がする。残念、そうはいかない」

「さて、俺たちは何か勝負でもしていたか?」

「教えない」

 私の考えが正解だという保障はない。問いただしてみたいという好奇心もある。けれどいずれ別れる相手との間に正解なんていらないと思い直した。だからごく自然に距離をあけ、一時の役目を全うすべく指先に集中しよう。もう二度と零してなるものか!


 ところが一度引き受けてしまえばあれ以来拒む理由を失った。
 縁側から見上げる月は美しい。手が届かない美しさ、それを見上げながら酒をたしなむ朧もまた儚げ彫刻のようだ。実際は儚いだけではなく、怖ろしく強いので性質が悪いけれど。
 酒を飲み過ぎれば理性を失うこともあると聞くが朧に変化は見られない。変わらずの佇まいで変わらぬ軽口をたたく。
 彼はこの時間が好きなのだと藤代が教えてくれた。何が楽しいのだろう、初めこそ私も思っていたのだが。縁側から見上げる月は格別だ。月なんてどこで見ても同じだと思っていたのに。

「月は遠い。そばにあるように見えて、遠くて手が届かない。少し、残念」

 初めこそ無言で付き合っていたのだが、次第に他愛のないことを話すようになっていた。
 めいっぱい手を伸ばしても届かないし、届くとも思えない姿に魅入られる。

「まるで君のようだな」

 朧が幽かに笑いを零す。

「私? 私とは違う」

「いいや、君は俺にとって月のようだ。ああ、月といえば俺の一族は……」

 しまったとでも口走りそうな表情で朧が口を閉ざす。

「言い淀むなんてらしくない」

「それもそうか……。我が一族は月を愛でるのが好きでな、当主には代々『月』の文字を受け継がせると、言うつもりだった」

「だから、朧?」

 その通りだと月の名を持つ彼は頷く。

「そう……。良い風習だと思う。一族というのは家族、みたいなもの? だとしたら朧は皆に愛されていて、素敵な名前」

「おい、褒めても隙は見せないぞ」

「隙が欲しくて言ったわけじゃない。だいたい、こんなことでどうにかなる相手ならもっと簡単に済む」

 褒め殺していただろう。

「私が知っていることは多くないけれど、……少なくともこの屋敷のあやかしに、時折町で話をしたあやかしたちも朧を慕っていた。だから、本当のことを言っただけ」

「君に褒められると戸惑うな」

 そこで一つ、私はある考えに至った。

「もしかして、ひづきというのは……」

 明確な字を知っているわけではないが『つき』という音が連想させるのは――だからこそ朧も迷ったのだろう。

「迂闊な話題を振るものじゃないか。緋色の月で緋月、いずれ話すつもりでいたが俺の母親だ」

 一族の誰かとは想像していたが母とは驚かされる。つまり私は朧の母から命を狙われたということだ。

「妖狐一族の現当主、あれは怖ろしい女だ。君には本当に申し訳ないことをしたと思っている」

 私が襲われたことを言っているのだろう。

「あれは、俺が自分の決めた相手と婚姻を結ぶことを望んでいる」

「だから私が邪魔なのね」

「君は随分と簡単に現状を受け入れてくれるな」

 害されて殺されかけたことを指すなら、私にとっては何の疑問にもならなかった。

「私は自分があやかしに受け入れられていると思ってはいない。普通は邪魔に思う、それが当然。だから命を狙われてもおかしくないと、常に思っていた」

「その割には、皆と仲良くやっているようだが?」

「この屋敷のあやかしは少し……違う。だいぶおかしい」

 そう、おかしいのだ。
 朧の側近にして使用人を統括しているのが藤代ならば、彼の下にはさらに細かく役職ごとの統括が置かれている。その中で女方の統括を努めているのが野菊であり、あやかしたちの信頼も厚い。そんな彼女が全力で私を庇い認めるような発言をした。さらに先日の宴で難なく給仕をこなしたことから、あやかしたちの私を見る目に変化があった。
 これまでは、やはり遠巻きに怖ろしいと思われていたのだろう。なにせ屋敷の主に顔を合わせる度、攻撃を仕掛けている女だ。ところが距離を保ち頭を下げるだけだったあやかしたちが挨拶だけではなく話しかけてくるようになった。天気の話から朝餉の献立、外では何の花が咲いただの……気安い!!
 どうしてこうなったのか疑問でならなかった。
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