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十六、危機

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 何度も何度も襲撃を重ねた。屋敷で暮らし始めてから今日まで、休んだことはないと言っても大袈裟ではない。けれど未だに私は傷の一つも与えられていない。
 藤代は私の技量を褒めてくれるけれど、はっきり言って進展がない。どうすれば朧に勝てる? たとえ今は勝てないとしても、どうすれば一矢報いることが出来る? そもそも朧は傷を負うのだろうか。想像がつかない。

 今日もまた、もはや日課とも言える襲撃を終え……結果については触れないでほしい。顔を突き合わせて食事をしている、これが全てだ。
 箸を止めてから、私は気になっていたことを口にする。

「今日はなんだか少し、賑やか?」

 朧も私に倣ってか、ああと呟いて手を止めた。

「屋敷で宴を予定しているからな」

「宴?」

「近隣のあやかしが集まる。顔を見せ、近況を報告したりな。俺にはそういった義務もある」

「そう」

「実際に集うのは夜だが、ここに大勢集まるとなれば慌ただしくもなる。料理に酒、広間の準備に役割分担……大変なことだ。むしろ主催とはいえ俺の方がたいしてすることはない」

「そうなの? でも、藤代がおもいきり睨んでいる」

 藤代がその通りと言わんばかりのわざとらしい咳払いを一つ。

「椿様、お心遣い感謝致します。ええ、あります。とてもあるんですよ。主催であり屋敷の主なのですからね。そうでなくても朧様は!」

「はいはい、任せきりにしてすまなかったよ」

 なおも続きそうな藤代の小言に朧は肩を竦めていた。そんな二人のやり取りを遠巻きに見つめながら思う。

「つまり、今日はあやかしがたくさん集まるのね」

「そういうことだ。今更だが、しばし我慢してはくれないか?」

 すぐに私は頷いた。

「今日は部屋から出ない。うっかり顔を合わせて何かあっても困る。約束を違えるつもりはないから、安心していればいい」

 うっかりあやかしを見て斬りたくなったなんて笑えない。
 ここのあやかしたちは私に危害を加えようとしない。現在も約束を守っているのは朧も同じだ。ならば人間である私が先に約束を破るような真似をしたくない。人間は理性的で誠実な生き物。あやかしとは違う、あやかしに負けたくはないと思う。
 ふと、朧を睨んでいたはずの藤代が私へと向き直っている。

「椿様、申し訳ございません。わたくしも支度がありまして、本日は講義に付き合えず……」

 同じあやかしとは思えないほどの豹変ぶり、それくらいしおらしい態度を向けられている。本当に申し訳なく思ってくれているらしい。だから私は努めて気にしていない素振りで返答をする。本音を言えば、少し残念ではあるけれど。

「一人でも出来ることはたくさんある。お前が、そう教えてくれた。だから気にすることはない」

「それがいい。部屋で大人しくしていてくれ」

「お前も、あやかしが人間を住まわせているなんて知られたくないものね」

 ここで朧が同意したということは、そういう理由なのだろう。けれど朧の顔には疑問符が浮かんでいる。他に何があるというのか。

「俺としては君を自慢して回りたいが、君の方が慣れていないだろう?」

 それはどういう意味だろう。大勢の前に出ることが? 私の礼義がなっていないから、あやかし(ひと)前に出すのが恥ずかしいという意味だろうか。

「……私、見くびられてる?」

「違う。心配なんだ。あやかしどもの中に君を放りこみたくない」

「それは私も遠慮したい」

「だろう? 君に懸想する者が現れでもしてはたまらない」

「けそう?」

「恋敵が出来るのは避けたいということだ」

「……結局意味がわからない」

 互いの認識に誤りがあることはわかるが結局どういう意味なのだろう。藤代に訊こうとしても忙しいため姿を消していた。野菊に至っても同じことで、この日のために臨時で雇ったあやかしが大勢いるため監督役として忙しいそうだ。
 わざわざ追いかけるほどのことでもないため食事を終えると大人しく自室への道を辿る。自分からあやかしにかかわりに行くなんてもっての他だ。

「賑やかなのに、ここは静か……」

 独りで過ごすのは得意、そのはずだった。ずっとそうしてきたし、これからだってそう。なのに、どうしてこんなに静かに感じるの?
 だって最近は、事あるごとに理由をつけては朧が現れる。奇襲をしかけてはかわされ、逃げられて口論をして。藤代が講義と稽古をつけてくれて、野菊が世話を焼いてくれる。それが私の日常と呼べるようになってしまったから。

「違う。私は一人でも平気」

 壁に背を預けて座り込むと遠くからせわしない気配が伝わってくる。開け放した戸から聞こえるのは賑やかな気配。それなのに私の周りだけが音を失くしている。慣れていたはずの静寂が知らないもののように感じられた。


 じっとしているうちに寝入ってしまったのだろう。辺りに目を走らせると庭はすっかり暗くなっている。

「椿様、失礼致します」

 部屋の外から声がかかる。知らない声だ。

「誰?」

「朧様がお呼びです」

「朧が?」

 朧が私を呼び出すなんて初めてだ。いつもは呼んでいなくても自分から訪ねてくるくせに。

「何の用が?」

「私では内容までは……。大事な話があるそうですが、どうしても席を離れられないと申されまして、私がお声をかけに参った次第です」

「そう……」

 確かに主催者は忙しいのだろうと納得して部屋から顔を出す。そこにいたのは黒い着物に身を包んだ、おそらくあやかしということしかわからない女だ。

「わかった。案内してほしい」

 朧に会うならこれが必要になると刀を手に女の後を追う。

「見ない顔ね」

「私は今宵の宴のために雇われましたので、顔を合わせるのは初めてかと」

 野菊も忙しいのだろう。臨時で雇われたという女は物音を立てずに廊下を進んで行く。いつもなら忙しないほどあやかしの姿を見かけるが、今夜に限っては誰ともすれ違うことはなかった。
 みんな忙しいだけ。それなのに、まるで闇の中を進んでいるように感じるのはどうして?本当にこの先に朧がいるの? 闇には慣れているはずが、戻れなくなるような不安を感じるのは何故だろう。

「本当に朧がいるの?」

「はい。もう少しです」

 こちらですと言う女に促され部屋に入る。部屋は暗いが私には朧の姿がしっかりと目に映る。その手に刀を持つ朧の姿が――
 私が部屋に入ったことを確認した女が戸を閉めた。

「待っていたよ」

「本当に、朧?」

 どうして屋敷の中で刀を? 品の良い着物を着こなす姿はどう見ても朧だけれど、違和感が消えない。張りつめたような緊張感に、私は手に持ったままの刀に触れる。疑問があるのならこれで問いただせばいい。

「え――?」

 幽かな風が肌に触れる。正確には風にも満たない空気の振動と言うべきか、背後で何かが動く気配を感じた。そこに交じるのは紛れもなく、私が何度も経験してきたもの――殺気だ。
 染みついた感覚を頼りに体を捻れば鋭く伸びた爪が振り下ろされる寸前だった。危うくかわすが爪は私の肩をかすめていた。避けていなければ今頃は……
 私を襲ったのは背後にいた女のあやかし。大きく裂けた口に獰猛な牙は人とはかけ離れ、本性をさらす姿は鬼のようだ。

「あやかし……」

 体勢を崩した私は膝をついて女を見上げる。茫然としている間にも爪が霞めた肩からは血が滲み着物を赤く染めていた。
 久しく感じていなかった痛みに顔をしかめる。致命傷ではないが浅くもない。肩を霞める程度で済んだのは奇跡だ。

「私を殺すの?」

 私に向けられた大きな瞳は人のそれとは違う。こんなことは初めてじゃない。あやかしが目の前にいて獲物を狙っているだけだ。
 いつものように刀を抜けばいい。

 早く――

 そうしなければ危険だと、何度もあやかしと遭遇した勘が告げている。あれは人を狙うあやかしの顔だ。
 臆したわけじゃない。でも抜けない。どうして?
 手が動かない。だってここは朧の屋敷だから。私は誓ったから。

 躊躇う私を前に女は容赦なく爪を振り下ろす。けれど女の動きは遅く、藤代に比べれば大したことのない相手だ。刀を扱えなくても落ち着いて見極めれば避けることは難しくない。
 だがそんなことを続けていれば体力を消耗する。刀を抜けない以上、追い詰められているのは私だ。

「――っ!」

 背後からの攻撃を鞘に納めた刀で受け止める。

「朧様、しくじっていますよ」

 朧の顔をしたあやかしに向けて女が言う。

「悪かったな。だが最初に仕損じたのはそっちだろう」

 朧と同じ声がする。女はあやかしを朧と呼ぶ。けれど私はそんな言葉に惑わされたりしない。これが朧でないことははっきりしている。

「お前は朧じゃない」

「何を言うかと思えば」

 この姿を疑うのかとあやかしは私を見下していた。

「朧は私に危害を加えたりしない。約束した」

「約束など戯れにすぎない」

「違う」

 自分でも驚くほど、毅然とした態度で言い返していた。
 どんなに私が攻撃しても朧はいつも避けるだけ。いくら刃を向けられようと私に手を上げたことは一度もない。それが悔しくて必死に攻撃を仕掛けているけれど、簡単にあしらわれている。あやかしとしての獰猛な瞳を向けられたことはない。

「朧は、約束を破らない」

「約束ですって? とんだ信頼関係ですこと。どうやら計画を変更しなければいけないようですね。それを貸しなさい」

 指差されたのは偽りの朧が持つ刀だ。大人しく指示に従い手放された刀を見るに女の方が力が強いのだろう。
 何をするつもりかと身構えていると女の手から刀が離れた。

「なっ――」

 それは私へと放たれたものではない。部屋に響いた鈍い音は……
 信じられない気持ちで振り返る私の目には胸を貫かれたあやかしの姿。そこにはもう朧の面影はなく、人の形をしていた頭部は獣に戻っている。刺したのは女だが、想像していなかったのだろう。驚愕の表情を浮かべていた。

「お前、仲間を……」

 目の前の光景が信じられないのは私一人。おそらく同じ気持だった相手はすでに息絶えている。
 女は笑みを浮かべ、私を見る目は不思議そうだ。
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