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十四、大嫌いなあやかしのままで
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大雨の中、夜道を歩くのはいかに夜目が効くあやかしとて危険だと朧が説明すれば、私は二言目には反論をした。渋る私に覚悟を決めさせたのは宿の人間で、近くを流れる川の氾濫も危惧されているらしいという。
こうなることを誰が予想しただろう。
初めて朧と食べる食事は、普通の食事だった。なんてことはない、会話をしていた流れの延長そのままに。
その後、冷えた体で風呂をもらい。部屋に戻れば同じく湯上りの朧が。そして宿の人間が布団を敷くとやってきた。慣れた手付きで布団を敷き始めた、それはいいのだが……どう見ても布団が一組しか見当たらない。
まさかあやかしと同じ寝具で寝ろと!?
散々主張を試みた結果、衝立を間に挟み、壁際にぴったり添うように敷かれた二組の布団。困惑しながらも要望に答えてくれた宿の人間には深い感謝を伝えよう。
私はといえば、部屋中に視線を巡らせ武器になりそうな物を探している。同じ部屋で眠るのは想定外だが、同時にまたとない好機でもあった。武器になりそうな物で唯一閃いたのが髪に刺していた簪だ。
これは朧が贈ってくれたもの――
どうしてそんな考えが頭をよぎったのだろう。まるで躊躇うようなことを。
いずれ贈られた刀で朧を狩るくせに簪がどうしたというの? きっと美しい細工だから地で汚してしまうのが惜しいと感じただけ。これを武器にしよう。決行は朧が眠りについてからだ。そうして同じ部屋で寝たことを後悔すればいい。
早く眠れと朧に押し込められた私はわかったと頷く。こちらにとっても願ってもない提案だ。
私は布団に入らず壁に背を預け衝立越しに視線を向けていた。もちろん眠るつもりはない。そんな私の抵抗を嘲笑うように朧はすんなり布団に入ったのだろう、神経を研ぎ澄ましていれば気配がする。
明かりのない部屋ではあるが普通の人間ではない私は見通すことが出来る。だとしたらそれは朧にも言えることで、出会った時に感じたあの光る瞳が思い出された。
ただじっと、その時を待つ。早くと急かす自分、待てと冷静を装う自分がせめぎ合う。
いつ寝入るのだろう。そもそもあやかしは眠るのだろうか。夜はあやかしの時間では?
けれどしっかり布団に入っていたし――ひたすら衝立を越える機会を伺い続けた。
この手にあるのは刀より威力が劣る簪だけだ。それは初めて自分の意思で選んだもの。
赤い花が目について、つい朧の誘いに頷いてしまっただけとはいえ……着物に感じた可愛いという感情とは少し違った。凛とした色合いに美しさを感じて目が離せなかった。どこか朧の雰囲気に似ている気がした、なんて……気の迷いに違いない。
だから早く。これ以上、心を乱される前に早く!
時が経つほど、朧に抱く感情が増えていく。大嫌いなあやかし、憎い存在、人の敵――それだけでいい。求婚された、着物を褒めてくれた、簪を贈ってくれた、そんな思いではいらない。他の感情を私に抱かせないで!
一体どれくらいの時間が経っただろう。外は雨雲のせいか時間のせいか、あるいは両の理由から未だ暗いが、いつまでもこうしていては朝が来てしまう。焦りから私は朧の名を呼んでいた。
「朧」
返答がないことに決意を固めて壁から離れる。慎重に畳みを踏み、音を立てずに足を運ぶ。
朧は布団を被りこちらに背を向けていた。寝ている、のだろうか。判断はつかない。
布団をめくってから簪を振り下ろしていては避けられるかもしれない。このまま首を狙おうと算段を付けて距離を詰めた。
少しずつ確実に、けれど近づいても動きはない。
大丈夫、いつもしていることと同じ。もう手の届く距離にいる。
この手を振りおろせば――!
狙いを定めて掲げた腕を振り下ろす。
ああ、良かった。大丈夫、私はまだ私でいられた。この手を振り下ろすことが出来た!
あやかしを朧を倒すべき敵だと判断している。そこには確かな安堵と小さな喜びが含まれていた。
「心が乱れては仕留められんぞ」
振り下ろしたはずの手は朧に掴まれていた。上から力をかけているのに圧倒的に押し負けている。
「騙したの」
起きている可能性も想定していたので驚きはしない。私を見据える朧の瞳は今起きたという目ではない。
「君があの衝立を越えてくることを期待していたが、こういう展開を望んでいたわけじゃない。大方予想通りではあるが……それも悲しいところだな」
「予想通り? だとしたらどうして逃げない。お前は逃げなかった、それは甘んじて受けてもいいということでしょう」
両手で力を込めがまだ足りない。
「違う。俺の望みは、こうだよ」
艶やかな声、そう感じた私の視界が揺れる。渾身の力を込めていたところ、逆に手を引かれ利用されたのだ。押し倒され、背には畳の感触。朧の髪が私の頬を霞め少しくすぐったい。
「……誰も訊いてない」
「動揺もしてくれないとは」
「どこに動揺する要素があるの」
両腕を押さえつけられ、乱れた裾を踏まれ朧の下から逃れることが出来ない。手足を封じられ、そんな状況で朧を見上げているにもかかわらず、危険を認識していなかった。視線の先にいるのが朧でなければ今頃命は尽きているというのに。つまり私は、悔しいことに朧を安全だと認識しているのだ。
「俺がこの先に何を望むのか、わかるか?」
見下ろされたままに問われている。答えなど決まっていた。
「わかるわけがない。お前は理解し難い」
「そんなことはない。男など単純だ」
朧の瞳は闇の中でこそ輝く。そのあやかししい輝きは見る者を虜にするようで、危うく引き込まれてしまいそうになる。でも私は違う、そんなことにはならない。自由になる掌を握り、悔しさと理性を保つ。
私にはここから抜け出す術がない。徐々に迫る朧の顔を見つめているだけだった。やがて唇が触れる――そう思った瞬間、あやかしと口付けるという屈辱より先に野菊の言葉を思い出す。
「駄目」
綺麗な色だった。落ちてしまうのが勿体なくて、思いきり顔を逸らす。すでに風呂で落ちた後なんてことはすっかり忘れていた。
朧は心底驚いた表情を浮かべ固まっている。
「……拒まれたのは初めてだ」
「誰に? あやかし、それとも人?」
「両方だ」
朧はあやかしと言われなければ人と見紛うばかりか、人間の中でも美しい。迫られれば拒む人間はいないだろう、そう自分で考えておきながらこの発言には心がざわついた。言い知れない気持ちが膨らみ……当然のように答えられ、しかも優越感たっぷりで妙に苛立った。
「呆れた」
反撃しようと試みていた手足の力が抜ける。
「放して問題はない。奇襲は失敗した。今夜はもう狙わない、誓う」
だが朧は動かない。
「……朧?」
「このまま俺の望むことをしても、欲しいものは得られないか……」
何やら考え込む朧の顔は真剣だ。重なっていたはずの視線は気まずそうに逸らされている。
「何が欲しいの、それは私に望んでいること?」
「このまま体を奪ったとしても心は手に入らないと、そう考えていた。俺は君の心が欲しい」
「私の心? そんなものに求めるほどの価値はない。こんな影のない女、日の光の下を歩けない女。何より、お前たちを狩ろうとしているのに」
「俺たちあやかしには君くらいが丁度良い」
それだけ言って朧はあっさり布団へ戻る。君も来るかと布団をめくり隣へと誘われたが、もちろん拒否して私も元の場所へ戻った。
そして私の襲撃なんてなかったかのように夜は明ける。
翌朝は運の悪いことに快晴、これでは日が沈むまで出歩くことは難しい。そんな私に合わせて朧も夜までそばにいると言うが、必要性を感じなかった。一人だろうと二人だろうと時間は過ぎるものだ。
「一人で平気。お前がそばにいる必要はない」
「だが、目を放した隙に逃げてしまうかもしれないだろう」
「私を疑うの?」
「悪かった。気分を害したか?」
「別に。こんなの、お前から受けた仕打ちの中では苛立ちも募りはしない」
「ならば良い方を変えよう。俺がそばにいたいだけだ。屋敷では部屋も別々の上、食事も別だ。こうでもなければ君と共に過ごす機会もないだろう」
宿から出られない私のために、朧は色々なことを教えてくれた。私が退屈しないように、不自由を感じないように。
例えば室内でもできる簡単な手遊び。それは子どもが戯れにするような幼稚なもので、かつての私なら知ったところで何になると一蹴していただろう。それが行儀良く座り、しかもあやかしから手ほどきを受けているなんて信じられない。
あるいは三味線や琴といった楽器を奏でてくれた。朧の指が弦を弾く度に音色が零れるそれを、わざわざ宿の人間から借りてくれたというのだ。初めて耳にする調べは優しく、不覚にも朧の音色に聴きほれてしまった。
日が暮れたところでようやく宿を後にすることができた。なんだかんだと一日以上を朧と過ごしてしまったことに自分でも驚いてしまう。
「椿、雨とはじつに都合の良いものだな」
見上げれば満天の星空が広がっているというのに朧は雨の話を持ちだす。都合の良いように全部雨のせいにしてしまった私には納得せざるを得ない言葉だ。
「そう、ね」
そして私は気付く。雨は都合が良いばかりではない。着物が濡れたり、鬱陶しい傘をさす必要がある。だからこそ人間は雨の日を避ける。それなのに朧は雨の日を選んでくれた。影を隠せるように、人に慣れていない私が疲れないように。
「朧、私……。私はっ――」
改めて思い知らされる。全部、私のためだったと。
こんな私に感謝を告げることは許される?
その言葉を告げたことはある。けれど、これまでとは重みが違うような気がした。朧は言った。許す、許されないの話ではない。自分がどうしたいかだと。私がどうしたいか、それは決まっている。
「あの……ありが!」
「そうだ。一つ言い忘れていたが、ここもあやかしが営んでいる」
「あり……今なんて?」
寸前まで出かかった言葉が消える。またこれ!?
もう雨のせいにはできないと言い訳を探すのに必死になる。
おかげで告げそびれてしまった。けれど朧の自業自得だと思う。せっかく言えそうだったのに、それを口にできるのはいつになることか。
こうなることを誰が予想しただろう。
初めて朧と食べる食事は、普通の食事だった。なんてことはない、会話をしていた流れの延長そのままに。
その後、冷えた体で風呂をもらい。部屋に戻れば同じく湯上りの朧が。そして宿の人間が布団を敷くとやってきた。慣れた手付きで布団を敷き始めた、それはいいのだが……どう見ても布団が一組しか見当たらない。
まさかあやかしと同じ寝具で寝ろと!?
散々主張を試みた結果、衝立を間に挟み、壁際にぴったり添うように敷かれた二組の布団。困惑しながらも要望に答えてくれた宿の人間には深い感謝を伝えよう。
私はといえば、部屋中に視線を巡らせ武器になりそうな物を探している。同じ部屋で眠るのは想定外だが、同時にまたとない好機でもあった。武器になりそうな物で唯一閃いたのが髪に刺していた簪だ。
これは朧が贈ってくれたもの――
どうしてそんな考えが頭をよぎったのだろう。まるで躊躇うようなことを。
いずれ贈られた刀で朧を狩るくせに簪がどうしたというの? きっと美しい細工だから地で汚してしまうのが惜しいと感じただけ。これを武器にしよう。決行は朧が眠りについてからだ。そうして同じ部屋で寝たことを後悔すればいい。
早く眠れと朧に押し込められた私はわかったと頷く。こちらにとっても願ってもない提案だ。
私は布団に入らず壁に背を預け衝立越しに視線を向けていた。もちろん眠るつもりはない。そんな私の抵抗を嘲笑うように朧はすんなり布団に入ったのだろう、神経を研ぎ澄ましていれば気配がする。
明かりのない部屋ではあるが普通の人間ではない私は見通すことが出来る。だとしたらそれは朧にも言えることで、出会った時に感じたあの光る瞳が思い出された。
ただじっと、その時を待つ。早くと急かす自分、待てと冷静を装う自分がせめぎ合う。
いつ寝入るのだろう。そもそもあやかしは眠るのだろうか。夜はあやかしの時間では?
けれどしっかり布団に入っていたし――ひたすら衝立を越える機会を伺い続けた。
この手にあるのは刀より威力が劣る簪だけだ。それは初めて自分の意思で選んだもの。
赤い花が目について、つい朧の誘いに頷いてしまっただけとはいえ……着物に感じた可愛いという感情とは少し違った。凛とした色合いに美しさを感じて目が離せなかった。どこか朧の雰囲気に似ている気がした、なんて……気の迷いに違いない。
だから早く。これ以上、心を乱される前に早く!
時が経つほど、朧に抱く感情が増えていく。大嫌いなあやかし、憎い存在、人の敵――それだけでいい。求婚された、着物を褒めてくれた、簪を贈ってくれた、そんな思いではいらない。他の感情を私に抱かせないで!
一体どれくらいの時間が経っただろう。外は雨雲のせいか時間のせいか、あるいは両の理由から未だ暗いが、いつまでもこうしていては朝が来てしまう。焦りから私は朧の名を呼んでいた。
「朧」
返答がないことに決意を固めて壁から離れる。慎重に畳みを踏み、音を立てずに足を運ぶ。
朧は布団を被りこちらに背を向けていた。寝ている、のだろうか。判断はつかない。
布団をめくってから簪を振り下ろしていては避けられるかもしれない。このまま首を狙おうと算段を付けて距離を詰めた。
少しずつ確実に、けれど近づいても動きはない。
大丈夫、いつもしていることと同じ。もう手の届く距離にいる。
この手を振りおろせば――!
狙いを定めて掲げた腕を振り下ろす。
ああ、良かった。大丈夫、私はまだ私でいられた。この手を振り下ろすことが出来た!
あやかしを朧を倒すべき敵だと判断している。そこには確かな安堵と小さな喜びが含まれていた。
「心が乱れては仕留められんぞ」
振り下ろしたはずの手は朧に掴まれていた。上から力をかけているのに圧倒的に押し負けている。
「騙したの」
起きている可能性も想定していたので驚きはしない。私を見据える朧の瞳は今起きたという目ではない。
「君があの衝立を越えてくることを期待していたが、こういう展開を望んでいたわけじゃない。大方予想通りではあるが……それも悲しいところだな」
「予想通り? だとしたらどうして逃げない。お前は逃げなかった、それは甘んじて受けてもいいということでしょう」
両手で力を込めがまだ足りない。
「違う。俺の望みは、こうだよ」
艶やかな声、そう感じた私の視界が揺れる。渾身の力を込めていたところ、逆に手を引かれ利用されたのだ。押し倒され、背には畳の感触。朧の髪が私の頬を霞め少しくすぐったい。
「……誰も訊いてない」
「動揺もしてくれないとは」
「どこに動揺する要素があるの」
両腕を押さえつけられ、乱れた裾を踏まれ朧の下から逃れることが出来ない。手足を封じられ、そんな状況で朧を見上げているにもかかわらず、危険を認識していなかった。視線の先にいるのが朧でなければ今頃命は尽きているというのに。つまり私は、悔しいことに朧を安全だと認識しているのだ。
「俺がこの先に何を望むのか、わかるか?」
見下ろされたままに問われている。答えなど決まっていた。
「わかるわけがない。お前は理解し難い」
「そんなことはない。男など単純だ」
朧の瞳は闇の中でこそ輝く。そのあやかししい輝きは見る者を虜にするようで、危うく引き込まれてしまいそうになる。でも私は違う、そんなことにはならない。自由になる掌を握り、悔しさと理性を保つ。
私にはここから抜け出す術がない。徐々に迫る朧の顔を見つめているだけだった。やがて唇が触れる――そう思った瞬間、あやかしと口付けるという屈辱より先に野菊の言葉を思い出す。
「駄目」
綺麗な色だった。落ちてしまうのが勿体なくて、思いきり顔を逸らす。すでに風呂で落ちた後なんてことはすっかり忘れていた。
朧は心底驚いた表情を浮かべ固まっている。
「……拒まれたのは初めてだ」
「誰に? あやかし、それとも人?」
「両方だ」
朧はあやかしと言われなければ人と見紛うばかりか、人間の中でも美しい。迫られれば拒む人間はいないだろう、そう自分で考えておきながらこの発言には心がざわついた。言い知れない気持ちが膨らみ……当然のように答えられ、しかも優越感たっぷりで妙に苛立った。
「呆れた」
反撃しようと試みていた手足の力が抜ける。
「放して問題はない。奇襲は失敗した。今夜はもう狙わない、誓う」
だが朧は動かない。
「……朧?」
「このまま俺の望むことをしても、欲しいものは得られないか……」
何やら考え込む朧の顔は真剣だ。重なっていたはずの視線は気まずそうに逸らされている。
「何が欲しいの、それは私に望んでいること?」
「このまま体を奪ったとしても心は手に入らないと、そう考えていた。俺は君の心が欲しい」
「私の心? そんなものに求めるほどの価値はない。こんな影のない女、日の光の下を歩けない女。何より、お前たちを狩ろうとしているのに」
「俺たちあやかしには君くらいが丁度良い」
それだけ言って朧はあっさり布団へ戻る。君も来るかと布団をめくり隣へと誘われたが、もちろん拒否して私も元の場所へ戻った。
そして私の襲撃なんてなかったかのように夜は明ける。
翌朝は運の悪いことに快晴、これでは日が沈むまで出歩くことは難しい。そんな私に合わせて朧も夜までそばにいると言うが、必要性を感じなかった。一人だろうと二人だろうと時間は過ぎるものだ。
「一人で平気。お前がそばにいる必要はない」
「だが、目を放した隙に逃げてしまうかもしれないだろう」
「私を疑うの?」
「悪かった。気分を害したか?」
「別に。こんなの、お前から受けた仕打ちの中では苛立ちも募りはしない」
「ならば良い方を変えよう。俺がそばにいたいだけだ。屋敷では部屋も別々の上、食事も別だ。こうでもなければ君と共に過ごす機会もないだろう」
宿から出られない私のために、朧は色々なことを教えてくれた。私が退屈しないように、不自由を感じないように。
例えば室内でもできる簡単な手遊び。それは子どもが戯れにするような幼稚なもので、かつての私なら知ったところで何になると一蹴していただろう。それが行儀良く座り、しかもあやかしから手ほどきを受けているなんて信じられない。
あるいは三味線や琴といった楽器を奏でてくれた。朧の指が弦を弾く度に音色が零れるそれを、わざわざ宿の人間から借りてくれたというのだ。初めて耳にする調べは優しく、不覚にも朧の音色に聴きほれてしまった。
日が暮れたところでようやく宿を後にすることができた。なんだかんだと一日以上を朧と過ごしてしまったことに自分でも驚いてしまう。
「椿、雨とはじつに都合の良いものだな」
見上げれば満天の星空が広がっているというのに朧は雨の話を持ちだす。都合の良いように全部雨のせいにしてしまった私には納得せざるを得ない言葉だ。
「そう、ね」
そして私は気付く。雨は都合が良いばかりではない。着物が濡れたり、鬱陶しい傘をさす必要がある。だからこそ人間は雨の日を避ける。それなのに朧は雨の日を選んでくれた。影を隠せるように、人に慣れていない私が疲れないように。
「朧、私……。私はっ――」
改めて思い知らされる。全部、私のためだったと。
こんな私に感謝を告げることは許される?
その言葉を告げたことはある。けれど、これまでとは重みが違うような気がした。朧は言った。許す、許されないの話ではない。自分がどうしたいかだと。私がどうしたいか、それは決まっている。
「あの……ありが!」
「そうだ。一つ言い忘れていたが、ここもあやかしが営んでいる」
「あり……今なんて?」
寸前まで出かかった言葉が消える。またこれ!?
もう雨のせいにはできないと言い訳を探すのに必死になる。
おかげで告げそびれてしまった。けれど朧の自業自得だと思う。せっかく言えそうだったのに、それを口にできるのはいつになることか。
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