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十、曇天の逢瀬
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夜が明けたというのに外は暗い。縁側から空を見上げると、分厚く鈍い色をした雲が空を覆っている。じき雨が降るのかもしれない――そう考えていればさっそく顔に雫が当たった。
雨脚は次第に強くなる。吹き込む風に濡れまいと数歩身を引いた。
草木を濡らす雨も屋敷の中までは侵略できない。この屋敷が古く寂れていたなら話は別だが、そんな素振りは微塵も感じられない。
「静か……」
この世界に一人きりのような錯覚に陥りながら、実際にはあるはずがないと笑い飛ばす。じきに賑やかになることを私はもう知っていた。
「失礼いたします。椿様、起きていらっしゃいますか?」
ほら、想像通りの来訪者がやってきた。
「起きているし支度も整っている。入って構わない」
再度断りを入れて入室する藤代は相変わらず丁寧だ。あやかしだと教えられなければ気付きようがない。
「本日の講義と稽古ですが、急遽中止になりました。休暇ということになります、どうぞ満喫ください」
講義か稽古の予定を告げに来たかと思えば彼の口から出たのはまさかの休暇である。休暇なんて私には一生無縁の言葉だと思っていた。それを当たり前のように差し出されても困る。暇を貰ったところで予定なんてあるわけがない。
「私一人でも稽古をする。名案」
「いえ、本日は生憎の天気ですから……」
そういえば、この屋敷で迎える初めての雨だ。なるほど、雨だと講義と稽古は中止になるのか――
「朧様が、生憎の天気なのでぜひ椿様と共に外出したいと申されております」
藤代は『ぜひ』をやけに強調してくる。
まず撤回しよう。朧の気まぐれで講義と稽古は中止になることがあるようだ。そもそもあいにくの天気ですから――からの外出とは文脈がおかしくないだろうか。人間は生憎の天気で外出を控えるはず。雨の夜は常にも増して人気が少なかったと記憶している。
「野菊、後は頼みます」
「待って、私は了承していない!」
まったくもって藤代には待つ気配がない。去っていく藤代に反論すべく追いすがるも、阻止するように立ちはだかる野菊。彼女に手を引かれ、私は鏡台へと連れ連行された。
本気で嫌なら実力行使に訴えればいい。けれど危害を加えないという約束が私を押しとどめた。手を振り払うくらい危害に換算されることはないだろうに。
「着物、やっと一人で着られるようになったのに。それをわざわざ着替え直して、髪まで結い直すなんて……」
髪を高く結い上げていたはずの紐を奪われ、鏡越しに視線を送る。
藤代にも告げた通り、私はすでに着替え終えていたところだ。ちなみに贈られた着物の中では幾分か色合いの落ち着いた物を選んで。それは野菊によってあっさりとはぎ取られてしまい、現在身に纏うのは袖にも胸にも足元にまで大輪の花が咲き誇る着物である。
「これから朧様と逢瀬を楽しまれると聞き及んでおりますので、そのように着飾ってほしいと命をうけております」
髪をすく野菊が当然のように答えてくる。
「私は了承していないのに勝手な……逢瀬!?」
勢い余って顔を動かしそうになったところ、野菊にたしなめられた。
「せっかくの雨ですから共に外出されると」
「外出? 私、外へ……行けるの?」
まだ夜ではないのに。それもあやかしを狩る以外で外に出られるの?
「そのように喜ばれては朧様も幸せでしょうね」
野菊の発言が彷徨っていた思考を現実へと引き戻し、私は耳を疑った。
「喜ぶ、誰が?」
野菊はにこにことこちらに笑みを向けている。まさかとは思うけれど、ここには私しかいない。
「私が、喜んでいると思うの?」
「いつもより表情豊に見受けられましたから。勘違いでしたら申し訳ございません」
「別に、謝る必要もないこと」
「ふふっ、またいつもよりも感情表現豊かでいらっしゃる。その様に困った顔を見せられたのも初めてです。使えてからというもの、椿様は基本的に無表情でいらっしゃいましたから」
「そう、だった?」
「ほら、見てください。鏡の中のお顔」
鏡に映る私、当たり前だけど私。表情よりも、まず注目してしまうのは髪型だ。櫛で丁寧に梳かされ、赤い髪紐で緩く結んでは背に流す。邪魔だからと、いつも高く結んでいたので落ち着かない。と言うより自分ではないようで落ち着かない。
「せっかくです、紅も差しましょう!」
すっかり楽しくなった様子の野菊が私の唇を赤い色で塗り始める。そのくすぐったさに身じろげば「動かないで下さい!」と彼女にしては強めの声で阻止された。
「これは何?」
「ああ、触れてはいけませんよ。簡単に落ちてしまいますから。紅と申しまして、女を美しく飾り立てるものです。椿様、大変よくお似合いですよ。本当にお名前の通り、椿のようにお美しい方。朧様が夢中になられるのもわかります」
どうも屋敷のあやかしと自分の間には深い誤解があるようだ。あやかしと人間の目に映る景色は違うのだろうかと思うほど認識の差が激しい。
「誰が、誰に夢中?」
一言一句、噛みしめるように発言する。無論、再び野菊の口から紡がれたのは未だ目にしたことのない美しいと噂の花と同じ音だった。
いつもと違う髪型に、自分ではおよそ選ばないような着物。紅を差した私の唇は……野菊の指摘するように楽しげだった、かもしれない。少なからずこの誘いに浮かれている証。その全てが別人のように私を映し出す。
野菊に連れられた私は玄関へとやってきた。
「支度は整ったようだな」
すでに支度の整っている朧が私に気付いて視線を寄越す。
「……おかげ様で」
「そう嬉しそうな顔をするな。行くぞ」
先ほど野菊から指摘された件もあり反論しずらい。たとえ誰の隣を歩くことになろうとも、昼に外へ出られるという事実が私の気持ちを高揚させている。
「いいの? 私なんかを外に連れ出して」
「何故だ?」
「いちいち指摘しないとわからない? 私、影がない。それに逃げ出すと思わないの?」
「お前は約束を違える女ではあるまい。それに、どこへ逃げる?」
「私の弱みなんて、とうに握っていると言いたいのね」
どうせ逃げ帰る場所のない女だ。そう考えていたのだが、朧の口から紡がれたのは予想外の回答だ。
「どこへ逃げたところで連れ戻す。問題あるまい」
何? 何か寒気が……
そう、きっと雨のせい。そういうことに、しておこう……。
「全力で逃げたくなったけれど、私は約束を破るような人間ではないから、実行はしないでおく」
「それは感謝する。だが、これは覚えておいてくれ。本当に君の姿が見えなくなってしまったら、俺は必死で探すだろう」
「なら安心。私の姿が見えなくなる時、それはお前の命が消える時」
「そうか。それを聞いて安心したよ」
嫌味がまったくもって通じない。なんて強い男だろう。それとも私の語彙が乏しいのがいけない!?
「さて、出掛けよう。不安に思うことはない。雲が全て隠してくれる。誰も君に影がないとは気付くまい」
朧は私に影がないことを忘れてはいなかった。それどころか雨の日なら外へ出られると配慮してくれていたのか。
開け放たれた戸の外には相変わらず薄暗い景色が広がっていた。けれど夜よりは格段に明るい世界が待っている。
前に立つ朧が私に手を差し伸べる。「来い」と言うのだろう。誘いに乗せられるのは癪だが、外へは出てみたい。だからその手を取り――、なんてことはしないが足を踏み出していた。
「どうして傘が一本? 私の目に狂いがなければ一緒に入れと言われているように見えて……もちろん気のせいだとは思うけれど」
「言葉なしに意思疎通が叶うとは、少しは心が通じ合えたと自惚れても良いのかな」
「……雨、今すぐ止めばいいのに」
朧は言った。生憎我が家に傘は一本しかないと。
確かに玄関にそれらしきものは見当たらないが、私は知っている。先ほど後ろ姿を見せた藤代、彼が大量の傘を抱えていたことを。
傘と一緒にどこへ姿を眩ませた!?
苛立ちを押さえこみ、一歩踏み出した私は大切なことを思い出す。
「どうした。何か忘れでもしたか? 取ってこさせよう」
「刀、忘れてた」
「どうやらその必要はなさそうだ」
「外出の必需品!」
本心から答えると、諭すように名を呼ばれる。
「君の望みは極力叶えてやりたいと思っているが、生憎このご時世では刀を差して出歩くことは難しい。違反者として捕らえられ、楽しい逢瀬どころではなくなってしまう」
「俄然、忍ばせてでも持って行きたくなった」
「安心しろ。刀などなくとも、君のことは俺が守ろう」
「そもそも一番危険なあやかしと同じ傘の下」
攻防を続ければ日が暮れてしまう。それでは狩りに出ていた頃と変わらない。私は明かるい世界を見てみたいのだ。だから、だから……甘んじて耐えるしかないと思う。必死に自分へと言い聞かせ、私は朧の隣を受け入れた。無論、刀無しで。
雨脚は次第に強くなる。吹き込む風に濡れまいと数歩身を引いた。
草木を濡らす雨も屋敷の中までは侵略できない。この屋敷が古く寂れていたなら話は別だが、そんな素振りは微塵も感じられない。
「静か……」
この世界に一人きりのような錯覚に陥りながら、実際にはあるはずがないと笑い飛ばす。じきに賑やかになることを私はもう知っていた。
「失礼いたします。椿様、起きていらっしゃいますか?」
ほら、想像通りの来訪者がやってきた。
「起きているし支度も整っている。入って構わない」
再度断りを入れて入室する藤代は相変わらず丁寧だ。あやかしだと教えられなければ気付きようがない。
「本日の講義と稽古ですが、急遽中止になりました。休暇ということになります、どうぞ満喫ください」
講義か稽古の予定を告げに来たかと思えば彼の口から出たのはまさかの休暇である。休暇なんて私には一生無縁の言葉だと思っていた。それを当たり前のように差し出されても困る。暇を貰ったところで予定なんてあるわけがない。
「私一人でも稽古をする。名案」
「いえ、本日は生憎の天気ですから……」
そういえば、この屋敷で迎える初めての雨だ。なるほど、雨だと講義と稽古は中止になるのか――
「朧様が、生憎の天気なのでぜひ椿様と共に外出したいと申されております」
藤代は『ぜひ』をやけに強調してくる。
まず撤回しよう。朧の気まぐれで講義と稽古は中止になることがあるようだ。そもそもあいにくの天気ですから――からの外出とは文脈がおかしくないだろうか。人間は生憎の天気で外出を控えるはず。雨の夜は常にも増して人気が少なかったと記憶している。
「野菊、後は頼みます」
「待って、私は了承していない!」
まったくもって藤代には待つ気配がない。去っていく藤代に反論すべく追いすがるも、阻止するように立ちはだかる野菊。彼女に手を引かれ、私は鏡台へと連れ連行された。
本気で嫌なら実力行使に訴えればいい。けれど危害を加えないという約束が私を押しとどめた。手を振り払うくらい危害に換算されることはないだろうに。
「着物、やっと一人で着られるようになったのに。それをわざわざ着替え直して、髪まで結い直すなんて……」
髪を高く結い上げていたはずの紐を奪われ、鏡越しに視線を送る。
藤代にも告げた通り、私はすでに着替え終えていたところだ。ちなみに贈られた着物の中では幾分か色合いの落ち着いた物を選んで。それは野菊によってあっさりとはぎ取られてしまい、現在身に纏うのは袖にも胸にも足元にまで大輪の花が咲き誇る着物である。
「これから朧様と逢瀬を楽しまれると聞き及んでおりますので、そのように着飾ってほしいと命をうけております」
髪をすく野菊が当然のように答えてくる。
「私は了承していないのに勝手な……逢瀬!?」
勢い余って顔を動かしそうになったところ、野菊にたしなめられた。
「せっかくの雨ですから共に外出されると」
「外出? 私、外へ……行けるの?」
まだ夜ではないのに。それもあやかしを狩る以外で外に出られるの?
「そのように喜ばれては朧様も幸せでしょうね」
野菊の発言が彷徨っていた思考を現実へと引き戻し、私は耳を疑った。
「喜ぶ、誰が?」
野菊はにこにことこちらに笑みを向けている。まさかとは思うけれど、ここには私しかいない。
「私が、喜んでいると思うの?」
「いつもより表情豊に見受けられましたから。勘違いでしたら申し訳ございません」
「別に、謝る必要もないこと」
「ふふっ、またいつもよりも感情表現豊かでいらっしゃる。その様に困った顔を見せられたのも初めてです。使えてからというもの、椿様は基本的に無表情でいらっしゃいましたから」
「そう、だった?」
「ほら、見てください。鏡の中のお顔」
鏡に映る私、当たり前だけど私。表情よりも、まず注目してしまうのは髪型だ。櫛で丁寧に梳かされ、赤い髪紐で緩く結んでは背に流す。邪魔だからと、いつも高く結んでいたので落ち着かない。と言うより自分ではないようで落ち着かない。
「せっかくです、紅も差しましょう!」
すっかり楽しくなった様子の野菊が私の唇を赤い色で塗り始める。そのくすぐったさに身じろげば「動かないで下さい!」と彼女にしては強めの声で阻止された。
「これは何?」
「ああ、触れてはいけませんよ。簡単に落ちてしまいますから。紅と申しまして、女を美しく飾り立てるものです。椿様、大変よくお似合いですよ。本当にお名前の通り、椿のようにお美しい方。朧様が夢中になられるのもわかります」
どうも屋敷のあやかしと自分の間には深い誤解があるようだ。あやかしと人間の目に映る景色は違うのだろうかと思うほど認識の差が激しい。
「誰が、誰に夢中?」
一言一句、噛みしめるように発言する。無論、再び野菊の口から紡がれたのは未だ目にしたことのない美しいと噂の花と同じ音だった。
いつもと違う髪型に、自分ではおよそ選ばないような着物。紅を差した私の唇は……野菊の指摘するように楽しげだった、かもしれない。少なからずこの誘いに浮かれている証。その全てが別人のように私を映し出す。
野菊に連れられた私は玄関へとやってきた。
「支度は整ったようだな」
すでに支度の整っている朧が私に気付いて視線を寄越す。
「……おかげ様で」
「そう嬉しそうな顔をするな。行くぞ」
先ほど野菊から指摘された件もあり反論しずらい。たとえ誰の隣を歩くことになろうとも、昼に外へ出られるという事実が私の気持ちを高揚させている。
「いいの? 私なんかを外に連れ出して」
「何故だ?」
「いちいち指摘しないとわからない? 私、影がない。それに逃げ出すと思わないの?」
「お前は約束を違える女ではあるまい。それに、どこへ逃げる?」
「私の弱みなんて、とうに握っていると言いたいのね」
どうせ逃げ帰る場所のない女だ。そう考えていたのだが、朧の口から紡がれたのは予想外の回答だ。
「どこへ逃げたところで連れ戻す。問題あるまい」
何? 何か寒気が……
そう、きっと雨のせい。そういうことに、しておこう……。
「全力で逃げたくなったけれど、私は約束を破るような人間ではないから、実行はしないでおく」
「それは感謝する。だが、これは覚えておいてくれ。本当に君の姿が見えなくなってしまったら、俺は必死で探すだろう」
「なら安心。私の姿が見えなくなる時、それはお前の命が消える時」
「そうか。それを聞いて安心したよ」
嫌味がまったくもって通じない。なんて強い男だろう。それとも私の語彙が乏しいのがいけない!?
「さて、出掛けよう。不安に思うことはない。雲が全て隠してくれる。誰も君に影がないとは気付くまい」
朧は私に影がないことを忘れてはいなかった。それどころか雨の日なら外へ出られると配慮してくれていたのか。
開け放たれた戸の外には相変わらず薄暗い景色が広がっていた。けれど夜よりは格段に明るい世界が待っている。
前に立つ朧が私に手を差し伸べる。「来い」と言うのだろう。誘いに乗せられるのは癪だが、外へは出てみたい。だからその手を取り――、なんてことはしないが足を踏み出していた。
「どうして傘が一本? 私の目に狂いがなければ一緒に入れと言われているように見えて……もちろん気のせいだとは思うけれど」
「言葉なしに意思疎通が叶うとは、少しは心が通じ合えたと自惚れても良いのかな」
「……雨、今すぐ止めばいいのに」
朧は言った。生憎我が家に傘は一本しかないと。
確かに玄関にそれらしきものは見当たらないが、私は知っている。先ほど後ろ姿を見せた藤代、彼が大量の傘を抱えていたことを。
傘と一緒にどこへ姿を眩ませた!?
苛立ちを押さえこみ、一歩踏み出した私は大切なことを思い出す。
「どうした。何か忘れでもしたか? 取ってこさせよう」
「刀、忘れてた」
「どうやらその必要はなさそうだ」
「外出の必需品!」
本心から答えると、諭すように名を呼ばれる。
「君の望みは極力叶えてやりたいと思っているが、生憎このご時世では刀を差して出歩くことは難しい。違反者として捕らえられ、楽しい逢瀬どころではなくなってしまう」
「俄然、忍ばせてでも持って行きたくなった」
「安心しろ。刀などなくとも、君のことは俺が守ろう」
「そもそも一番危険なあやかしと同じ傘の下」
攻防を続ければ日が暮れてしまう。それでは狩りに出ていた頃と変わらない。私は明かるい世界を見てみたいのだ。だから、だから……甘んじて耐えるしかないと思う。必死に自分へと言い聞かせ、私は朧の隣を受け入れた。無論、刀無しで。
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