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四、生きるか死ぬか結婚か
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ほのかに甘く、それでいて優しい香りがする。
この香りは心が落ち着く。確か昨夜もすぐ傍で感じていたような……
昨夜? でも昨夜は――
いつものように夜の町へくりだしてあやかしを斬ったはず。確か八百三番目、順調に役目を終えた。
けれどその後大きな異変が訪れた。私は出会ってしまったのだ、あの妖狐と。
妖しく光る金の瞳、月光に透き通る白い髪。そして形の良い唇が迫って――
「――ふざけるな!」
叫ぶと同時に掛けられていた布団を跳ねのけ飛び起きる。自らの叫びに驚かされるとは強烈な目覚めだ。大きく肩で息をするうちに意識がはっきりとしていく。
「え――」
障子の向こうから差し込む朝日に茫然とする。眩しいほどの光は朝を告げていた。
「朝……? そんな、いつの間に……」
何が悲しいのか、自分でもよくわからない。それなのに私の目からは堪えきれない涙が溢れ拭う気にもなれない。最後の望みも消え失せた今、もう何もかもがどうでもよかった。
「どうした、椿」
そう、今の今まではどうでもいいと思っていた。けれどその声を聞いたことで涙も枯れる勢いで冷めてしまった。
ギリギリと首を巡らせれば、これは夢の続き? 枕元に妖狐が座している。間違いなく悪夢だ。
「妖狐、どうしているの」
「俺の部屋だからな」
当然のように告げられる。
「なっ!?」
嘘でしょう!? とは言えなかった。
そう、この香り。部屋にはあの時、腕の中で感じた優しい香りが満ちている。
「それで、何故泣く?」
「答えたくない」
何をさらっと話を進めているのか。「それで」ではなく、もっと他に言うべきことがあるだろう。
「それは困ったな。君が話してくれなければこちらも質問に答えられないかもしれない」
まるで困っている雰囲気が感じられないのだが。こちらに訊きたいことが山ほどあることを逆手にとられては、渋々ながらも口を開かざるを得ない。
「……悪いことをしたから」
「なんだと?」
口にしてすぐ後悔した。出まかせをでっちあげれば良かったのだ。例えばあやかしに連れ去られたのが怖くて泣いていた、とか。それは負けたようで悔しいけれど。
私の意思に反して一度放たれた言葉は止まらない。
「日が昇るまでに戻らなければいけないと……」
会話慣れしていない口から洩れるのは本心ばかりだ。妖狐相手に馬鹿正直に事情を話すなんて愚かだと思うのに、私の口は勝手に動き続けている。
「門限か?」
「そう、なのかもしれない」
望月家の汚点が世間に知れ渡らないよう、保身のために設けられたものだ。
「初めて言いつけを破ってしまった。これで私は死んだことになった」
「どういう意味だ?」
私は布団から出ると無言で畳みの上に立つ。その拍子に薄い夜着に着替えさせられていたことに気付き、傍に刀が見当たらないことも確認する。その結果、反撃する隙を探るも俄かには難しいという判断を下した。
「見ればわかるでしょう。私には影がない」
私の足元を見つめるあやかし弧にすら影があるというのに皮肉なものだ。
「日が昇れば外を歩けない。どこへも行けない。こんな人間と繋がりがあると知られたら、その家はどうなると思う?」
一族ぐるみで異端扱いされることを望月家は怖れている。そのため私は夜しか活動が認められず、朝になってしまえば戻ってはいけない。汚らわしい存在が望月の家系から生まれたことを誰にも知られたくないのだ。
それにしても、影がないことを自分から他人に明かすのは初めてだ。どうせあやかし相手に不気味がられたところで何の痛手もないと自棄になっていた。
「言いつけを破った、私は悪い人間。でも、この胸には罪悪感が存在していない。何も感じていないなんて、罪悪感すら生まれない私は……」
ああ、やっとわかった。
「私は、浅ましい?」
どうして嘘を吐けなかったのか。形だけでも懺悔していたかったのだ。言いつけを破ったことに対して後悔しているフリをして、反省していると見せかけたかった。こんな妖狐相手に懺悔したところで意味はないけれど、口にすることで自分は良い人間なのだと思っていたかった。
そんな私の心情を否定するように妖狐は言う。
「当然だろう」
「自分で言ったことではあるけれど、お前に言われるとはらわた煮えくり返る」
お前が言うな! 原因を作りだした張本人のくせに!
「そう否定的に捉えるな。望まぬことを強いられて喜ぶわけがないだろうと言っただけだ」
「望んでいない……それは、私が?」
考えたこともなかった。あやかしを狩り望月家へ戻って、その繰り返し。それが私の日常で、それ以上の感情を考えたことなんてない。だから私には――
「お前の言葉はよくわからない」
「難しいことを言った覚えはないが? それと『お前』ではない。朧(おぼろ)と呼べ、椿」
「誰が呼ぶものかあやかし。私のことも椿と呼ばなくていい」
「名前がなければ不便だろう」
「どうして知っているの?」
「なに?」
「だから! 私に名前がないことをどうして知っているかと訊いた」
「は? 君には名前がないのか!?」
いや、驚かされたのは私の方……。てっきりそのつもりで話していると思い込んでしまった。
「俺はただ、名乗りたくないだけかと……」
つまり墓穴を掘ったということか。納得して私は違うという意味で首を振った。
「私を産んだ人も、私を産んだ人を産んだ人たちからも、与えてはもらえなかった」
きちんと説明したのにもかかわらず、妖狐がさらに困惑した表情を浮かべているのは何故だろう。
「何だ? ややこしいが……つまり両親と祖父母のことでいいのか? 素直にそう言えばいいだろう」
「そう呼ぶことは許されていない」
たとえ誰に見られていなくても怖くて呼べなかった。
「影がないからか?」
頷いて、私は両手の掌を見つめる。通う血は同じ、人間から産まれたはずが、どうして私には影がない? いくら考えたところで答えが出るはずもないのに。
「それで、ここはどこ? そろそろ私にも質問をさせて」
質問攻めにされるのも癪だ。
「すまないが、君の家を知らないので俺の家に招かせてもらった」
まったくもって悪いという意思を感じないのだが。嘘をつくならもっと上手くやってほしい。にやにやといやらしい笑みを浮かべる顔が憎い。
「私を生かしてどうするつもり?」
「妻にする」
「戯言」
「君は男の真摯な求婚を戯言と笑って流すのか? 趣味が悪いな」
「どこの誰が『真摯な求婚』をしたのかまず教えてほしい」
「なに、死んだことになっているなら好都合。このまま嫁入りしてしまえ」
名案だと呟く妖狐に、殴る蹴るの攻撃は有効かと真剣に考えてしまう。
「……そうして私を食らうの?」
「なんだと?」
「あやかしは人に仇なす、人を食らう」
面白そうに私を見つめる瞳は獰猛に光るでしょう?
その綺麗な唇は人の血を啜る。
長くて細い指、鋭い爪は人の肌を斬り裂くためのもの。
残酷な想像に浸るも妖狐の反応は違っていた。
「確かにそういう奴もいることは否定しない。だが俺は違う」
「あやかしの言葉を信じると思うの?」
「誰がこんな薄皮と骨だけの人間を食うものか」
値踏みするように不躾な視線に、それはそれで腹の立つ言い分だ。
「全てのあやかしの言葉を信じろとは言わない。だが俺の言葉だけは信じてほしいものだ」
「私は人間、だからあやかしは信じない」
「なるほど。ではあやかしである俺のことも斬るか?」
「当然。けど、自分の実力はわきまえているつもり……」
この手には反撃する術がないことも。あの黒い刃はどこへ行ってしまったのだろう。
「ほう、懸命だ。ならばここにいろ」
「何て?」
今何か、耳を疑う提案が聞こえたような。
「話を聞けば帰る場所がないのだろう」
「そうね。お前のせいで」
「ならここにいればいい」
「私がお前たちあやかしを狩る者だと理解しているの?」
「それがどうした。妻にすると言ったはずだが」
どうしたもこうしたも普通あると思う。
「自分を斬るかもしれない人間を傍に置くなんて馬鹿げてる!」
「では訊くが、君に俺が斬れるのか?」
「くっ!」
言葉に詰まる。斬りたいといくら望んだところで願望、実力が伴わないことは理解しているので声が出ない。実力の差は昨晩見せつけられたばかりだ。
「斬れるものなら斬ればいい。いつでも狙って構わない。だが、俺はこれまで君が狩った奴らのようにはいかないぞ」
言われるまでもないと相手を睨み付ける。言葉で認めるのは癪だった。
「だから傍にいてくれ」
「お前に何の得がある?」
「交渉はここからだ。君を住まわせるにあたって三つ条件がある」
言ってみろと私は身構えた。戻る場所がないことも事実、たとえ目の前の男が原因だとしても朝になってしまえば私に成す術はない。
「一つ、逃げるな」
「わかった」
即答出来た。この妖狐はわかっていない。逃げるというのは逃げる場所がある人がすることで私には無縁の言葉だと。
「二つ、俺が生きている間この屋敷で俺以外のあやかしに手を出すな」
私は素直に頷くことはせず少し考えてから質問する。
「こちらが危害を加えられることもないと?」
「ああ、そう命じておく」
「わかった」
「三つ、できなければ大人しく妻になれ」
立ち尽くしていた私は盛大に崩れ落ちる寸前だった。
「なっ、なにを、まだ言うの!?」
まだ諦めていない!?
私はあからさまに狼狽えていた。口説かれて恥ずかしいだとか、そんな可愛らしい感情ではない。人間を妻にしようという酔狂なあやかしに動揺し呆れるばかりだ。そもそもあやかしの嫁なんて未来、あるわけがない!
「どうした? 返事は?」
これまでと変わって一向に返事をしない私に焦れたのか、逃げ道はないと思い知らせるように挑発的な目が結論を求めている。
「わ、わかった!」
どうせ私の世界は生きるか死ぬか、了承する他ないのだ。
妖狐は至極満足した様子で頷く。
「言ったな。約束、違えるなよ」
「それは私の台詞。後悔させるから、覚悟していればいい。お前を八百四番目にする」
「なんだその数は」
「私が狩ったあやかしの数。千のあやかしを狩れば名をもらえるはずだった」
過去のことだと告げながらも、まだ遅くはないと考えている自分がいる。
目の前にいる妖狐はそうそうお目にかかれない大物だ。一度は失敗したけれど、妖狐の首を持ちかえれば望月の人間として認めてもらえるかもしれない。
都合の良い願望でも構わない。人は希望に縋らなければ生きていけないのだから、私はこの境遇さえ糧にして生き抜こう。
私の覚悟を知ることのない妖狐は困ったように「やれやれ」と呟く。散々困らされたのは私の方だ。
「何が不満だ? 君の名は椿、美しい花の名だというのに」
「どれ程美しい花と言われようと私はその花を知らない」
花の名を教えてくれる人間などいるはずがない。仮に聞いたところで、そんなものは不要だと言われることだろう。私に必要なのは『戦う術』だけだった。
「ではいずれ見せてやろう。俺はこれからも君を椿と呼び続けるし、気にくわないのなら口を塞げるほど強くなってみせろ。無論それ以外の方法でも歓迎するが? 未来の奥方殿」
「そんな未来あるはずがない!」
楽しげに見つめられ苛立ちが跳ね上がる。わざとらしく付け足された挑発に自分でも驚くような俊敏さで反論していた。
この香りは心が落ち着く。確か昨夜もすぐ傍で感じていたような……
昨夜? でも昨夜は――
いつものように夜の町へくりだしてあやかしを斬ったはず。確か八百三番目、順調に役目を終えた。
けれどその後大きな異変が訪れた。私は出会ってしまったのだ、あの妖狐と。
妖しく光る金の瞳、月光に透き通る白い髪。そして形の良い唇が迫って――
「――ふざけるな!」
叫ぶと同時に掛けられていた布団を跳ねのけ飛び起きる。自らの叫びに驚かされるとは強烈な目覚めだ。大きく肩で息をするうちに意識がはっきりとしていく。
「え――」
障子の向こうから差し込む朝日に茫然とする。眩しいほどの光は朝を告げていた。
「朝……? そんな、いつの間に……」
何が悲しいのか、自分でもよくわからない。それなのに私の目からは堪えきれない涙が溢れ拭う気にもなれない。最後の望みも消え失せた今、もう何もかもがどうでもよかった。
「どうした、椿」
そう、今の今まではどうでもいいと思っていた。けれどその声を聞いたことで涙も枯れる勢いで冷めてしまった。
ギリギリと首を巡らせれば、これは夢の続き? 枕元に妖狐が座している。間違いなく悪夢だ。
「妖狐、どうしているの」
「俺の部屋だからな」
当然のように告げられる。
「なっ!?」
嘘でしょう!? とは言えなかった。
そう、この香り。部屋にはあの時、腕の中で感じた優しい香りが満ちている。
「それで、何故泣く?」
「答えたくない」
何をさらっと話を進めているのか。「それで」ではなく、もっと他に言うべきことがあるだろう。
「それは困ったな。君が話してくれなければこちらも質問に答えられないかもしれない」
まるで困っている雰囲気が感じられないのだが。こちらに訊きたいことが山ほどあることを逆手にとられては、渋々ながらも口を開かざるを得ない。
「……悪いことをしたから」
「なんだと?」
口にしてすぐ後悔した。出まかせをでっちあげれば良かったのだ。例えばあやかしに連れ去られたのが怖くて泣いていた、とか。それは負けたようで悔しいけれど。
私の意思に反して一度放たれた言葉は止まらない。
「日が昇るまでに戻らなければいけないと……」
会話慣れしていない口から洩れるのは本心ばかりだ。妖狐相手に馬鹿正直に事情を話すなんて愚かだと思うのに、私の口は勝手に動き続けている。
「門限か?」
「そう、なのかもしれない」
望月家の汚点が世間に知れ渡らないよう、保身のために設けられたものだ。
「初めて言いつけを破ってしまった。これで私は死んだことになった」
「どういう意味だ?」
私は布団から出ると無言で畳みの上に立つ。その拍子に薄い夜着に着替えさせられていたことに気付き、傍に刀が見当たらないことも確認する。その結果、反撃する隙を探るも俄かには難しいという判断を下した。
「見ればわかるでしょう。私には影がない」
私の足元を見つめるあやかし弧にすら影があるというのに皮肉なものだ。
「日が昇れば外を歩けない。どこへも行けない。こんな人間と繋がりがあると知られたら、その家はどうなると思う?」
一族ぐるみで異端扱いされることを望月家は怖れている。そのため私は夜しか活動が認められず、朝になってしまえば戻ってはいけない。汚らわしい存在が望月の家系から生まれたことを誰にも知られたくないのだ。
それにしても、影がないことを自分から他人に明かすのは初めてだ。どうせあやかし相手に不気味がられたところで何の痛手もないと自棄になっていた。
「言いつけを破った、私は悪い人間。でも、この胸には罪悪感が存在していない。何も感じていないなんて、罪悪感すら生まれない私は……」
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どうして嘘を吐けなかったのか。形だけでも懺悔していたかったのだ。言いつけを破ったことに対して後悔しているフリをして、反省していると見せかけたかった。こんな妖狐相手に懺悔したところで意味はないけれど、口にすることで自分は良い人間なのだと思っていたかった。
そんな私の心情を否定するように妖狐は言う。
「当然だろう」
「自分で言ったことではあるけれど、お前に言われるとはらわた煮えくり返る」
お前が言うな! 原因を作りだした張本人のくせに!
「そう否定的に捉えるな。望まぬことを強いられて喜ぶわけがないだろうと言っただけだ」
「望んでいない……それは、私が?」
考えたこともなかった。あやかしを狩り望月家へ戻って、その繰り返し。それが私の日常で、それ以上の感情を考えたことなんてない。だから私には――
「お前の言葉はよくわからない」
「難しいことを言った覚えはないが? それと『お前』ではない。朧(おぼろ)と呼べ、椿」
「誰が呼ぶものかあやかし。私のことも椿と呼ばなくていい」
「名前がなければ不便だろう」
「どうして知っているの?」
「なに?」
「だから! 私に名前がないことをどうして知っているかと訊いた」
「は? 君には名前がないのか!?」
いや、驚かされたのは私の方……。てっきりそのつもりで話していると思い込んでしまった。
「俺はただ、名乗りたくないだけかと……」
つまり墓穴を掘ったということか。納得して私は違うという意味で首を振った。
「私を産んだ人も、私を産んだ人を産んだ人たちからも、与えてはもらえなかった」
きちんと説明したのにもかかわらず、妖狐がさらに困惑した表情を浮かべているのは何故だろう。
「何だ? ややこしいが……つまり両親と祖父母のことでいいのか? 素直にそう言えばいいだろう」
「そう呼ぶことは許されていない」
たとえ誰に見られていなくても怖くて呼べなかった。
「影がないからか?」
頷いて、私は両手の掌を見つめる。通う血は同じ、人間から産まれたはずが、どうして私には影がない? いくら考えたところで答えが出るはずもないのに。
「それで、ここはどこ? そろそろ私にも質問をさせて」
質問攻めにされるのも癪だ。
「すまないが、君の家を知らないので俺の家に招かせてもらった」
まったくもって悪いという意思を感じないのだが。嘘をつくならもっと上手くやってほしい。にやにやといやらしい笑みを浮かべる顔が憎い。
「私を生かしてどうするつもり?」
「妻にする」
「戯言」
「君は男の真摯な求婚を戯言と笑って流すのか? 趣味が悪いな」
「どこの誰が『真摯な求婚』をしたのかまず教えてほしい」
「なに、死んだことになっているなら好都合。このまま嫁入りしてしまえ」
名案だと呟く妖狐に、殴る蹴るの攻撃は有効かと真剣に考えてしまう。
「……そうして私を食らうの?」
「なんだと?」
「あやかしは人に仇なす、人を食らう」
面白そうに私を見つめる瞳は獰猛に光るでしょう?
その綺麗な唇は人の血を啜る。
長くて細い指、鋭い爪は人の肌を斬り裂くためのもの。
残酷な想像に浸るも妖狐の反応は違っていた。
「確かにそういう奴もいることは否定しない。だが俺は違う」
「あやかしの言葉を信じると思うの?」
「誰がこんな薄皮と骨だけの人間を食うものか」
値踏みするように不躾な視線に、それはそれで腹の立つ言い分だ。
「全てのあやかしの言葉を信じろとは言わない。だが俺の言葉だけは信じてほしいものだ」
「私は人間、だからあやかしは信じない」
「なるほど。ではあやかしである俺のことも斬るか?」
「当然。けど、自分の実力はわきまえているつもり……」
この手には反撃する術がないことも。あの黒い刃はどこへ行ってしまったのだろう。
「ほう、懸命だ。ならばここにいろ」
「何て?」
今何か、耳を疑う提案が聞こえたような。
「話を聞けば帰る場所がないのだろう」
「そうね。お前のせいで」
「ならここにいればいい」
「私がお前たちあやかしを狩る者だと理解しているの?」
「それがどうした。妻にすると言ったはずだが」
どうしたもこうしたも普通あると思う。
「自分を斬るかもしれない人間を傍に置くなんて馬鹿げてる!」
「では訊くが、君に俺が斬れるのか?」
「くっ!」
言葉に詰まる。斬りたいといくら望んだところで願望、実力が伴わないことは理解しているので声が出ない。実力の差は昨晩見せつけられたばかりだ。
「斬れるものなら斬ればいい。いつでも狙って構わない。だが、俺はこれまで君が狩った奴らのようにはいかないぞ」
言われるまでもないと相手を睨み付ける。言葉で認めるのは癪だった。
「だから傍にいてくれ」
「お前に何の得がある?」
「交渉はここからだ。君を住まわせるにあたって三つ条件がある」
言ってみろと私は身構えた。戻る場所がないことも事実、たとえ目の前の男が原因だとしても朝になってしまえば私に成す術はない。
「一つ、逃げるな」
「わかった」
即答出来た。この妖狐はわかっていない。逃げるというのは逃げる場所がある人がすることで私には無縁の言葉だと。
「二つ、俺が生きている間この屋敷で俺以外のあやかしに手を出すな」
私は素直に頷くことはせず少し考えてから質問する。
「こちらが危害を加えられることもないと?」
「ああ、そう命じておく」
「わかった」
「三つ、できなければ大人しく妻になれ」
立ち尽くしていた私は盛大に崩れ落ちる寸前だった。
「なっ、なにを、まだ言うの!?」
まだ諦めていない!?
私はあからさまに狼狽えていた。口説かれて恥ずかしいだとか、そんな可愛らしい感情ではない。人間を妻にしようという酔狂なあやかしに動揺し呆れるばかりだ。そもそもあやかしの嫁なんて未来、あるわけがない!
「どうした? 返事は?」
これまでと変わって一向に返事をしない私に焦れたのか、逃げ道はないと思い知らせるように挑発的な目が結論を求めている。
「わ、わかった!」
どうせ私の世界は生きるか死ぬか、了承する他ないのだ。
妖狐は至極満足した様子で頷く。
「言ったな。約束、違えるなよ」
「それは私の台詞。後悔させるから、覚悟していればいい。お前を八百四番目にする」
「なんだその数は」
「私が狩ったあやかしの数。千のあやかしを狩れば名をもらえるはずだった」
過去のことだと告げながらも、まだ遅くはないと考えている自分がいる。
目の前にいる妖狐はそうそうお目にかかれない大物だ。一度は失敗したけれど、妖狐の首を持ちかえれば望月の人間として認めてもらえるかもしれない。
都合の良い願望でも構わない。人は希望に縋らなければ生きていけないのだから、私はこの境遇さえ糧にして生き抜こう。
私の覚悟を知ることのない妖狐は困ったように「やれやれ」と呟く。散々困らされたのは私の方だ。
「何が不満だ? 君の名は椿、美しい花の名だというのに」
「どれ程美しい花と言われようと私はその花を知らない」
花の名を教えてくれる人間などいるはずがない。仮に聞いたところで、そんなものは不要だと言われることだろう。私に必要なのは『戦う術』だけだった。
「ではいずれ見せてやろう。俺はこれからも君を椿と呼び続けるし、気にくわないのなら口を塞げるほど強くなってみせろ。無論それ以外の方法でも歓迎するが? 未来の奥方殿」
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