喫茶とらじゃの三日間

松本尚生

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五、五月十三日 水曜日 十時

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 十時。開店の時間だ。

「喫茶とらじゃ」も、昔は朝八時から開けて、出勤前の勤め人にモーニングを提供していた。だが、前マスターの虎之介が六十歳になったとき、営業時間を縮め、朝八時から夜八時の営業を、午前十時から夜七時に変更したそうだ。

 高広がとらじゃを継いで、店主は若返ったが、営業時間はそのままにしておいた。せっかく長時間拘束の商社を辞められたんだから、少しのんびりやりたかった。

(昔のひとは元気だったんだなあ)

 高広はぼんやりとそう思った。

「喫茶とらじゃ」は琴似駅から徒歩五分。札幌市の交通の中心「札幌駅」から西へ二駅目、快速が止まる駅としては次の駅だ。琴似にはもうひとつ、市営地下鉄の「琴似駅」もあり、ダブルアクセスの便利な街区となっている。

 JRと地下鉄の駅の間には「喫茶とらじゃ」のような年季の入った建物と、新しい高層マンションが、モザイクのように入り交じっている。商店街にはホテルから花屋さん、タイ料理にイタリア料理、居酒屋もあるし大きめのスーパーもあり、住むのにとても便利な街だ。

 そして、北東に少し行けば、札幌駅との間に大学の大きな敷地が広がっていて、北海道のイメージ画像によく使われる「ポプラ並木」がそこにある。広い農場の敷地に、空に向けスックと真っ直ぐに立つポプラを見ると、何というか、胸がすく感じがするものだ。

 広い大地に高い空、垂直に天に向かうポプラ。人口百万都市のど真ん中に、こんな「これぞ北海道」といえる風景があるなんて。ちょっと感動だ。

 大学の裏の道は、街路樹にナナカマドが植わっていて、秋にはオレンジの実をつける。寒くなるとその実は深紅に色を変え、雪の帽子をかぶってなんとも風情のある姿を見せる。

 高広はこの街に来てすぐ、信号が少なくて流れのよいこの広い裏道が気に入り、以来車で市中心部へ向かうときにはこの道を通るようにしている。

 良平は着替えて、カバンを肩にかけて大学へ向かった。

 高広は扉にかけた札を「営業中」に替えて、サヤカに聞いた。

「君は学校は? じゃなかったらお勤めは? 昨日も今日も平日でしょ?」

 サヤカは思い詰めたような顔をして言った。

「ここに置いてください。いとこ同士は結婚だってできるんですから」

 見上げる瞳がうるんで、長めの睫毛がふるふる揺れる。

「だからさあ……」

 この子はどうして何かにつけ自分の魅力でひとを陥落させて、言うことを聞かせようとするのだろう。確かに小悪魔的で可愛らしい顔立ちをしているが、相手にだって好みがあるし、地球上の全員にその魅力が通用するとは限らないのだけれど。

 そう思いながら高広はため息をついた。

 扉の鐘がカラ……ンと鳴った。

「マスター、おはようございますですぅ」

「おはようございます。いらっしゃいませ」

 ごいんきょの宮部さんが本日のファーストゲストだ。

「コーヒーになさいますか?」

「ええ、そうですねえ。今日は食事がまだでございまして、トーストもお願いいたしますです」

「かしこまりました」

 高広は、カウンターの中からサヤカを追い出した。

「ほら、仕事するから、そっち行って」

 サヤカは一瞬ピンクの唇を尖らせたが、高広の仕事を邪魔することなく客席へ移動した。

 続いて現れたのは栗田さんだった。

「おはようございま……す。あ、ごいんきょ……」

「あらあら、おはようございます。珍しいでございますねえ、栗田専務がこんな朝早くからお見えになるなんて」

「はあ……。まあ、この普段時間は社にいて、朝から胸クソの悪くなる報告を聞かされてますよね、部長共と社長から……」

 今日はちょっと考え事があるのでと、栗田は奥のボックス席を選んだ。昨日と同じ、カウンターのそばの席にサヤカを見つけて、栗田は上目づかいに話しかけた。

「やあ、お嬢さん、今日もいたね。夕べは結局ここへ泊まったの……?」

「ええ。用事が済むまでは帰れませんもの」

「そうか……。まあ、がんばって」

(「がんばって」か)

 栗田さんの口から前向きなエールを聞いた。こんなセリフ、初めてかもしれない。

(可愛い女のコの効果はすごいなあ)

 そう高広は舌を巻いた。

 今日は早い時間に一見さんがパタパタと二組入って、高広はホッと胸を撫で下ろした。

 常連さんしか来ない店に未来はない。どんな業種だってそれは変わらない。常連さんたちに支えてもらっている間に、いろんな客層を呼び込めるようにならなければ。

 この辺は商社員としてさまざまな業種の取引先と組んでマーケティングを繰り返した高広の経歴が役に立つところ……なのだが。

 大手商社でのマーケティングは多額の予算を投入して、それまでなかった「市場を作る」ところから行うことが多かったし、そもそも実際のアクションは外注に出してしまうしで、こういう店主ひとりですべてをまかなうスモールビジネスに役立つノウハウの蓄積はなかった。

 その代わり初めから終わりまでの工程を、自分ひとりで手がけ、効果を判定し、次の手を考える、このスケール感はかなり楽しい。

(きっと、大企業向きじゃなかったんだ)

 高広は今、自分のことをそう思う。

 オムライスもなかなか完成しないし、客単価を上げるための必殺メニューを別に開発しないとダメかもしれない。

 コーヒーに簡単にくっつけられるデザート系のフードメニューか。オムライスより調理の簡単な食事系か。酒井さんのカスガ・フーヅに頼めば、業務用のソースや調味料類、冷凍惣菜などを紹介してもらえる。利幅を考えると、今はそういうものに頼りたくないが、自分のキャパを考えるとやむを得ないかも。

 客が少ないと、手空きの時間にいろいろ思い悩んでしまう。高広はごいんきょの馬鹿話に付き合って、そうした思いを頭から振り払った。

 サヤカは店の隅の本棚を漁っている。心配しなくても、そんなところに台本なんて飾ってないのに。

 酒井さんと言えば。

 昨日の空き物件。

 もう二度と、こんな好条件は出てこないだろう。

 その物件で営業すれば、ショッピングモールの周りのマンション住民と、自家用車で移動するひとたちが顧客だ。モールに買いものに来るひとの何%かが立ち寄ってくれるだけで、今の何倍もの客数になるだろう。

 そして、今の常連さんたちは、ごいんきょの七十代を筆頭に、五十代がメイン(多分)だが、そこへ引っ越せば客層は若返るし、メニューを工夫すれば親子連れだって呼び込める。

 駅前ではあっても、日中は中心部へ出勤するひとたちのベッドタウンで、昼間の人口は案外少ない今の立地より、人口密度は低くても集客しやすいに違いない。

 だが。

 高広は思うのだ。

 祖父の代から「喫茶とらじゃ」に通ってくれている、栗田さん、ごいんきょ、菅原さんなどは、そうそう来られないだろう。少なくとも、仕事の合間に足繁く顔を出してくれたりはできない。

 高広がこの店を継ぐ決心をしたのは、そのとき商社マン人生に行き詰まっていたこと、こじんまりした店舗兼住宅が案外気に入ったことだけではない。

 出張先で祖父の訃報を受け取り、取るものも取りあえず、そのまま札幌入りした二年前。

 タクシーに住所を告げて葬儀場にたどり着くと、こじんまりした斎場にはごいんきょと菅原さんがいてくれた。通夜だ、告別式だと、慌ただしい式の段取りを手伝ってくれた。

 常連さんたちは「あのマスターのお孫さんが、立派になって」と温かく迎えてくれた。通夜の席で、彼らは祖父の、そして祖母の思い出話をしてくれた。父の和広が語ってくれた分量をはるかに上回るエピソードの数々。

 生きて、笑って、しゃべって歌って、コーヒーを淹れて暮らした、老夫婦がそこにいた。

 川崎さんが、店の鍵を預かっていてくれていた。遠い昔に数回訪れただけで、ほとんど店の記憶がない高広を心配して、川崎さんは、店まで案内してくれた。

 片付けをするために、高広はその後も有休を使ってたびたび札幌を訪れた。店に高広の気配がすると、コーヒーが出る訳でもないのに、通りすがりの誰かが代わる代わる店をのぞいていってくれた。ごいんきょが来ているタイミングで栗田さんが顔を出し、ほかの常連さんがやってきて……。

 利害関係のない、ただ世間話をするだけのひとの輪がそこにあった。常連さんたちひとりひとりは、店を出たら仕事に家事に追われる普通の人間だろう(ごいんきょを除いては)。だが、ここにいる間は、雑事を切り離して、ほっとラクな呼吸ができる。エアポケットのように。

 昼メシのおかずになるような惣菜を差し入れられたり、近くのうまい餅屋の大福を誰かが持ってきたり。高広も、札幌へ飛ぶたびに、ちょっとした土産の菓子を買うようになっていた。

 それを、立ち寄ってくれる誰かに振る舞うことが、案外楽しくなってきて。

 古い昭和のコミュニティだ。これからの世の中、なくなっていくことはあっても、再生することはないかもしれない。縮小していくだけのひとの輪に頼っても、商売は正直難しいだろう。

 だが高広にとって、三十男がいつまでも独りでいても、こまごま詮索されないこの緩さが最高に居心地よかった。

 いつかまた。

 自分のように、所属する組織に行き詰まって、別のつながりが欲しくなるひとがいたら。

 そんなひとが詮索されずに緩く集える場があれば。

 そんな場の管理人でいるのも悪くないと高広は思う。

 少なくとも、自分が商社マンだったとき、こんな店が近くにあったら、会社を辞めずに済んだかもしれない。

 多分、祖父の人柄のおかげであろうこの店は、いつの間にか高広の大事な居場所となっていた。

 だから、正直、サヤカのようなノイズは歓迎できない。

 どうしたものか。

 高広は今日何度目かのため息をついた。
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