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九、五月十四日 木曜日 七時
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開店前の「喫茶とらじゃ」。
パンとベーコンとサラダの朝食。こんな普通の朝食は久しぶりだ。何と言っても、オムライスじゃない。
良平が訊いた。
「店、どうすんの? あっちへ移るの?」
高広はカウンターに肘をついてコーヒーをすすった。
「どうしましょうかね」
サヤカは大きな身振りとともに、甲高い声でこう言った。
「移るべきよ! ここにいたってジリ貧でしょ!?」
カウンターには、今日も今日とて、三人が座っていた。
今日もピンクのジャケットを着たサヤカ。胸許からブラウスのフリルがのぞく。お客さまの前での可愛らしい笑顔は、早朝の今、痕跡もない。カウンターに肘をついて、ふくれっ面のままコーヒーカップを口にした。
良平はパジャマ代わりのスウェット上下。中途半端に伸びかけた髪が、寝グセで面白いほどあちこちに跳ねている。そろそろ床屋へ行かせないとダメだ。
この子は朝が弱くって、コーヒーの香りにつられてようやくゆらゆらと階段を降りてくる。自分たちの分くらい二階のキッチンで淹れてもいいのだが、毎朝高広が店でコーヒーを落とすのは、朝寝坊の良平を強制起動させるためでもある。
サヤカと良平にはさまれて、というか、ふたりの緩衝材になって、高広はトーストを頬ばっていた。
そこへ、サヤカの「ジリ貧」発言だ。
高広は呆気にとられて呟いた。
「君も、古い言葉知ってますね……」
「ジリ貧」と言われればもう何の反論もできない。その通りだ。
「てか、お前何でいるの!?」
高広の頭越しに良平がサヤカをにらんだ。
サヤカは偉そうに胸をそびやかして言い返した。
「何よ。朝ご飯おごってあげてるでしょ? わたしだってオムライス以外のものを食べたいのよ」
「じゃ、家に帰れよ」
「いやよ! まだ台本が見つかっていないのよ」
ふたりはいつの間にか立ち上がっていた。高広はトーストを皿に戻してため息をついた。
良平はがっくりうなだれる高広を見て、ちょっと反省したのか、黙ってスツールに座り直した。サヤカは「ふん!」と鼻息も荒く、自分のカップに牛乳を足した。
真っ直ぐ前を向いたまま良平は言った。
「……本当にあるのか?」
「あるわよっ!」
サヤカはバンとカウンターを叩いた。
「パパに確かにそう聞いたんだから」
サヤカの相手は良平に任せて、高広は祖父虎之介の記憶をたぐった。
おとといサヤカが現れてから、これまでの人生でのトータルの三倍くらい、祖父や祖母のことを考えている。
小さな頃、彼らには数度会った。多分、まだ新しかったこの店にも来ている。
父和広はいつも忙しく、家族で旅行などほとんどしたことがなかった。というよりも、日本国内にすらあまりいなかったのだと思う。
今の任地は移動もできない危険なところだが、比較的安全な先進国が当たったときなど、父は家族帯同を希望していた。母は母で仕事を持っていて簡単に日本を離れられず、夫婦は少しずつすれ違っていった。高広が十歳の頃父母は離婚した。
両親が離婚しても、高広はそのまま父の姓を名乗っていたし、父はその前から日本にいなかったしで、自分の生活にとくに変化はなかった。そのためか、今振り返ると幼かった高広は「離婚」や、そもそも「結婚」というものを、いまいち理解していなかったフシがある。
いずれにせよ、仕事人間というより、お人好しで来た話を断り切れずに困難に出遭ってしまう、「巻き込まれ人生」を送っているらしい父にも、仕事も家事も段取りよく合理的に片付けていく割に、内心はウェットで淋しがりな母にも、今も小さい頃も高広には不満はない。
逆に、「人間って、そういうものなんだ」と十代前半で達観できたことは、よかったと思っている。
父母と好対照なのが、「喫茶とらじゃ」を切り盛りしていた祖父母夫婦だ。
手に手を取って一緒に逃げ、縁もゆかりもないこの地で仲よく暮らし、私生活だけでなく仕事でも一緒。飽きることなく最後まで添い遂げたふたり。
彼らに会ったことがあるとしたら、両親が離婚した十歳よりも前のことだ。
祖父は年寄りながら、こざっぱりとして上背が高い、格好のいいひとだった。そして祖母も、銀髪を頭の高いところで結い上げ、耳に大きな飾りものをつけたキレイなひとだった。
ずいぶんと年寄りに見えていたが、今思うと、まだ七十前後。ごいんきょの宮部さんより少し若いくらいだったのだ。
ふたりが若い頃役者だったのは聞かされていた。何度か訪れた折に見た祖父母のスラッと粋な感じは、子供心に印象に残っていた。だが、訪れたこの店で、過去の仕事にまつわる何かを見せてもらったことはない。衣装も当時の写真も、それからもちろん、台本も。
両隣のふたりの皿が空になったことを確認して、高広は立ち上がった。カウンターの中から手の届く位置に空いた皿を集めていると、良平が「あ、俺やるよ」と流しに立った。
サヤカは今朝は完全に出遅れた。食器洗いを良平に取られたので、サヤカはカウンターを拭いた。そして、開店準備に取りかかろうとスツールをカウンターに上げ始めた。
「遺産を寄こせ」なんて完全に言いがかりだ。台本なんてものは存在しない。
しかも、サヤカがそもそも本当に高広の従妹なのか、そこも確認できていない。それを証明する何も、サヤカは呈示していない。
だが、サヤカは真面目な子だ。一宿一飯の恩義ではないが、迷惑をかけている分働こうとするし、今朝などは三人分の朝食に、パンと材料を買って持ってきてくれた。今どき珍しい、律儀な行動だった。
高広はキビキビと働くサヤカを見下ろして言った。
「そろそろ本当のこと言ったら? 君は何を待ってるの?」
パンとベーコンとサラダの朝食。こんな普通の朝食は久しぶりだ。何と言っても、オムライスじゃない。
良平が訊いた。
「店、どうすんの? あっちへ移るの?」
高広はカウンターに肘をついてコーヒーをすすった。
「どうしましょうかね」
サヤカは大きな身振りとともに、甲高い声でこう言った。
「移るべきよ! ここにいたってジリ貧でしょ!?」
カウンターには、今日も今日とて、三人が座っていた。
今日もピンクのジャケットを着たサヤカ。胸許からブラウスのフリルがのぞく。お客さまの前での可愛らしい笑顔は、早朝の今、痕跡もない。カウンターに肘をついて、ふくれっ面のままコーヒーカップを口にした。
良平はパジャマ代わりのスウェット上下。中途半端に伸びかけた髪が、寝グセで面白いほどあちこちに跳ねている。そろそろ床屋へ行かせないとダメだ。
この子は朝が弱くって、コーヒーの香りにつられてようやくゆらゆらと階段を降りてくる。自分たちの分くらい二階のキッチンで淹れてもいいのだが、毎朝高広が店でコーヒーを落とすのは、朝寝坊の良平を強制起動させるためでもある。
サヤカと良平にはさまれて、というか、ふたりの緩衝材になって、高広はトーストを頬ばっていた。
そこへ、サヤカの「ジリ貧」発言だ。
高広は呆気にとられて呟いた。
「君も、古い言葉知ってますね……」
「ジリ貧」と言われればもう何の反論もできない。その通りだ。
「てか、お前何でいるの!?」
高広の頭越しに良平がサヤカをにらんだ。
サヤカは偉そうに胸をそびやかして言い返した。
「何よ。朝ご飯おごってあげてるでしょ? わたしだってオムライス以外のものを食べたいのよ」
「じゃ、家に帰れよ」
「いやよ! まだ台本が見つかっていないのよ」
ふたりはいつの間にか立ち上がっていた。高広はトーストを皿に戻してため息をついた。
良平はがっくりうなだれる高広を見て、ちょっと反省したのか、黙ってスツールに座り直した。サヤカは「ふん!」と鼻息も荒く、自分のカップに牛乳を足した。
真っ直ぐ前を向いたまま良平は言った。
「……本当にあるのか?」
「あるわよっ!」
サヤカはバンとカウンターを叩いた。
「パパに確かにそう聞いたんだから」
サヤカの相手は良平に任せて、高広は祖父虎之介の記憶をたぐった。
おとといサヤカが現れてから、これまでの人生でのトータルの三倍くらい、祖父や祖母のことを考えている。
小さな頃、彼らには数度会った。多分、まだ新しかったこの店にも来ている。
父和広はいつも忙しく、家族で旅行などほとんどしたことがなかった。というよりも、日本国内にすらあまりいなかったのだと思う。
今の任地は移動もできない危険なところだが、比較的安全な先進国が当たったときなど、父は家族帯同を希望していた。母は母で仕事を持っていて簡単に日本を離れられず、夫婦は少しずつすれ違っていった。高広が十歳の頃父母は離婚した。
両親が離婚しても、高広はそのまま父の姓を名乗っていたし、父はその前から日本にいなかったしで、自分の生活にとくに変化はなかった。そのためか、今振り返ると幼かった高広は「離婚」や、そもそも「結婚」というものを、いまいち理解していなかったフシがある。
いずれにせよ、仕事人間というより、お人好しで来た話を断り切れずに困難に出遭ってしまう、「巻き込まれ人生」を送っているらしい父にも、仕事も家事も段取りよく合理的に片付けていく割に、内心はウェットで淋しがりな母にも、今も小さい頃も高広には不満はない。
逆に、「人間って、そういうものなんだ」と十代前半で達観できたことは、よかったと思っている。
父母と好対照なのが、「喫茶とらじゃ」を切り盛りしていた祖父母夫婦だ。
手に手を取って一緒に逃げ、縁もゆかりもないこの地で仲よく暮らし、私生活だけでなく仕事でも一緒。飽きることなく最後まで添い遂げたふたり。
彼らに会ったことがあるとしたら、両親が離婚した十歳よりも前のことだ。
祖父は年寄りながら、こざっぱりとして上背が高い、格好のいいひとだった。そして祖母も、銀髪を頭の高いところで結い上げ、耳に大きな飾りものをつけたキレイなひとだった。
ずいぶんと年寄りに見えていたが、今思うと、まだ七十前後。ごいんきょの宮部さんより少し若いくらいだったのだ。
ふたりが若い頃役者だったのは聞かされていた。何度か訪れた折に見た祖父母のスラッと粋な感じは、子供心に印象に残っていた。だが、訪れたこの店で、過去の仕事にまつわる何かを見せてもらったことはない。衣装も当時の写真も、それからもちろん、台本も。
両隣のふたりの皿が空になったことを確認して、高広は立ち上がった。カウンターの中から手の届く位置に空いた皿を集めていると、良平が「あ、俺やるよ」と流しに立った。
サヤカは今朝は完全に出遅れた。食器洗いを良平に取られたので、サヤカはカウンターを拭いた。そして、開店準備に取りかかろうとスツールをカウンターに上げ始めた。
「遺産を寄こせ」なんて完全に言いがかりだ。台本なんてものは存在しない。
しかも、サヤカがそもそも本当に高広の従妹なのか、そこも確認できていない。それを証明する何も、サヤカは呈示していない。
だが、サヤカは真面目な子だ。一宿一飯の恩義ではないが、迷惑をかけている分働こうとするし、今朝などは三人分の朝食に、パンと材料を買って持ってきてくれた。今どき珍しい、律儀な行動だった。
高広はキビキビと働くサヤカを見下ろして言った。
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