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六、五月十三日 水曜日 十二時
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栗田さんは考えがまとまったと言って、いつもの前傾姿勢で会社へ戻っていった。
ごいんきょは時折こっくりこっくりと居眠りをしながら、入ってきた誰かとしゃべったり、持ち込んだ本を開いたりしていた。
サヤカは退屈したのか、良平のエプロンを勝手にかけて、スタッフのような顔をして店内をうろついた。
見ていると、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の発声も明るく、注文取りやテーブルの片付けも問題なかった。本人申告のバイト経験も、どうやら嘘ではないようだ。
良平が帰ってきて、自分のエプロンをサヤカが勝手に付けているのを見たら、さぞかし怒るだろう。怖ろしい。
十二時を過ぎて、センセエがやってきた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。あれ? ジョージ来てない?」
ジョージというのは、センセエの大学の外語教員で、在日歴の長い男性だ。年齢はよく分からない。
センセエと川崎さんとジョージは、よくなんだか分からない趣味の話で盛り上がっている。いわゆる「オタ友」だ。いくつになっても楽しそうで、よいことだ。
「いえ、今日はまだお見えになってませんが」
「あ、そう? 昼メシに来るって言ってたから、そろそろ来るよ」
「いつもありがとうございます」
センセエはごいんきょの隣にかけた。サヤカがしずしずと銀のトレイで水を運ぶ。
「あれ、君、ここで働いてるの? 良平くんは?」
高広はカウンターの中から、置き型メニューをセンセエの前へ届けた。
「大学へ行ってます」
「あれれー。彼が帰ってきたら、血を見るんじゃないの」
センセエは軽口を利いた。
普段から若者を見慣れていて、彼らのしでかしそうなことがよく分かるのだろうか。勤務先の大学だけでなく、確か息子もいたはずだ。
「カンベンしてくださいよ」
「あはは、大変だね、マスターも」
センセエは高広の弱音をさらっと流して、話題を変えた。
「俺、今見てきましたよ。例の物件」
「は?」
「あの、ショッピングモールの向かいの」
「それはホントでございますですか?」
隣でごいんきょも目を輝かせる。第一線を退いたとはいえ、実業家の血が騒ぐらしい。
「センセエ、行ってこられたんですか? いかがだったのでしょうか、そのお店」
センセエは数度うなづいた。
「ええ、ええ。車でひとっ走り回ってきただけですけどね。確かに間口も広く、ここの三倍くらいはありそうでしたよ。陽当たりもよかったけど、東向きだから、午後いつまでも陽が入ることもなく快適でしょうね」
センセエは見てきた限りのことを報告してくれた。確かにお店は閉まっていたそうだ。
酒井さん情報だと、店は居抜きでそのまま譲るとのこと。ということは、席数が増えた分の食器やカトラリーの手当も不要。すぐその席数で営業できる。あとは厨房と、ホールを回すメンバーを揃えれば。
酒井さんは、そちらの方も、今急遽休みに入っているバイトさんたちに声をかければ、何割かは残ってくれるとの見通しを伝えくれていた。
本当に、こんな機会は、二度とない。
「お店、今は閉まってますけど、開いてるときはこんな感じです……」
センセエはカバンからタブレットを出して、Googleストリートビューを開いてくれた。ごいんきょはそれをのぞき込んで腕を組んだ。
「そうですねえ、確かにひとは集まりやすい場所でございますわねえ。ただ『コーヒー屋でござい』といっても少々難しいかもしれませんですが、何か名物になるメニューがあれば」
センセエとごいんきょ、そして高広は顔を見合わせた。
「オムライス!」
そうかあ。ここでがんばるにしても、もっといい物件に引っ越すとしても、先立つものはオムライスなのかあ。
「それでしたら、ココよりも多くのお客さまにご来店いただけそうでございますね」
「そうですね、それは間違いないんじゃないでしょうか」
ごいんきょとセンセエはそう言ってうなずき合った。そして、「看板とロゴは菅原さん」「内装・外装は川崎さん」などと、勝手に移転オープンまでの担当を決め始めた。
「客数が増えれば売上も上がります。マスターもおヨメさんをおもらいになって、お子さんを授かって安心してお暮らしになれますですよ」
ごいんきょが目を細めてそう言った。
高広は返事をせず、ただ曖昧に笑っていた。
カラ……ンと澄んだ音がした。
「ハーイ! こんにちはぁ」
そばかすに金茶の髪、ストライプの青シャツのジョージが現れた。
「いらっしゃいませ」
サヤカが笑顔でそう迎えると、ジョージは目を丸くして驚いた。
「ウワーオ。とらじゃさんで麗さん以来の女性スタッフですね」
ジョージはセンセエを指差して付け加えた。
「わたしは彼の友達のジョージと言います」
「サヤカです、よろしくお願いいたします」
ジョージはセンセエの後ろのボックス席に座り、ニコニコと高広に話しかけた。
「マスター、男女差別ではありませんが、やっぱり女のコがいるとお店が華やぎますね」
「はあ。今だけの、その、ピンチヒッターですよ」
高広は微妙な笑顔を浮かべて「まあその……身内のようなものでして」とごまかした。
サヤカが水とおしぼりを持って席へ行った。ジョージは嬉しそうにおしぼりを拡げた。
「そうですか。でもマスター、どうですか? ずっといてもらったら」
高広は慌てた。
「そんな、とても給料を払いきれませんよ」
こんな小さな店、お客さまも常連さんのほかには数えるほどしか来ないのに。自分と良平のふたりが食っていくのがやっとだ。
「いやいや、そうじゃなく。ずっといてもらう方法には、いくつか種類があるじゃないですか」
またそういう煩わしい当てこすりを。おっさんめ!
サヤカが調子に乗った。わざとらしく頬を染めて目を伏せた。
「そうですよ、お兄さま。わたし、何ならずっとここにいたってよろしいのですから」
何が「よろしいのですから」か。夕べからのふてぶてしいもの言いはどこへ行ったやら。
「あはははは。みなさん、そろそろお昼にしませんか? ご協力くださいね」
「願ってもない」
メニューは当然、オムライスだ。
「うーん」
「大変おいしゅうございますけれど」
「そう、うまいんだよ。うまいんだけど」
「マスターのオムライスと、ちょっと違いますね」
うーん。
高広は常連さんたちと一緒に、皿の上に屈み込んだ。
ごいんきょは時折こっくりこっくりと居眠りをしながら、入ってきた誰かとしゃべったり、持ち込んだ本を開いたりしていた。
サヤカは退屈したのか、良平のエプロンを勝手にかけて、スタッフのような顔をして店内をうろついた。
見ていると、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の発声も明るく、注文取りやテーブルの片付けも問題なかった。本人申告のバイト経験も、どうやら嘘ではないようだ。
良平が帰ってきて、自分のエプロンをサヤカが勝手に付けているのを見たら、さぞかし怒るだろう。怖ろしい。
十二時を過ぎて、センセエがやってきた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。あれ? ジョージ来てない?」
ジョージというのは、センセエの大学の外語教員で、在日歴の長い男性だ。年齢はよく分からない。
センセエと川崎さんとジョージは、よくなんだか分からない趣味の話で盛り上がっている。いわゆる「オタ友」だ。いくつになっても楽しそうで、よいことだ。
「いえ、今日はまだお見えになってませんが」
「あ、そう? 昼メシに来るって言ってたから、そろそろ来るよ」
「いつもありがとうございます」
センセエはごいんきょの隣にかけた。サヤカがしずしずと銀のトレイで水を運ぶ。
「あれ、君、ここで働いてるの? 良平くんは?」
高広はカウンターの中から、置き型メニューをセンセエの前へ届けた。
「大学へ行ってます」
「あれれー。彼が帰ってきたら、血を見るんじゃないの」
センセエは軽口を利いた。
普段から若者を見慣れていて、彼らのしでかしそうなことがよく分かるのだろうか。勤務先の大学だけでなく、確か息子もいたはずだ。
「カンベンしてくださいよ」
「あはは、大変だね、マスターも」
センセエは高広の弱音をさらっと流して、話題を変えた。
「俺、今見てきましたよ。例の物件」
「は?」
「あの、ショッピングモールの向かいの」
「それはホントでございますですか?」
隣でごいんきょも目を輝かせる。第一線を退いたとはいえ、実業家の血が騒ぐらしい。
「センセエ、行ってこられたんですか? いかがだったのでしょうか、そのお店」
センセエは数度うなづいた。
「ええ、ええ。車でひとっ走り回ってきただけですけどね。確かに間口も広く、ここの三倍くらいはありそうでしたよ。陽当たりもよかったけど、東向きだから、午後いつまでも陽が入ることもなく快適でしょうね」
センセエは見てきた限りのことを報告してくれた。確かにお店は閉まっていたそうだ。
酒井さん情報だと、店は居抜きでそのまま譲るとのこと。ということは、席数が増えた分の食器やカトラリーの手当も不要。すぐその席数で営業できる。あとは厨房と、ホールを回すメンバーを揃えれば。
酒井さんは、そちらの方も、今急遽休みに入っているバイトさんたちに声をかければ、何割かは残ってくれるとの見通しを伝えくれていた。
本当に、こんな機会は、二度とない。
「お店、今は閉まってますけど、開いてるときはこんな感じです……」
センセエはカバンからタブレットを出して、Googleストリートビューを開いてくれた。ごいんきょはそれをのぞき込んで腕を組んだ。
「そうですねえ、確かにひとは集まりやすい場所でございますわねえ。ただ『コーヒー屋でござい』といっても少々難しいかもしれませんですが、何か名物になるメニューがあれば」
センセエとごいんきょ、そして高広は顔を見合わせた。
「オムライス!」
そうかあ。ここでがんばるにしても、もっといい物件に引っ越すとしても、先立つものはオムライスなのかあ。
「それでしたら、ココよりも多くのお客さまにご来店いただけそうでございますね」
「そうですね、それは間違いないんじゃないでしょうか」
ごいんきょとセンセエはそう言ってうなずき合った。そして、「看板とロゴは菅原さん」「内装・外装は川崎さん」などと、勝手に移転オープンまでの担当を決め始めた。
「客数が増えれば売上も上がります。マスターもおヨメさんをおもらいになって、お子さんを授かって安心してお暮らしになれますですよ」
ごいんきょが目を細めてそう言った。
高広は返事をせず、ただ曖昧に笑っていた。
カラ……ンと澄んだ音がした。
「ハーイ! こんにちはぁ」
そばかすに金茶の髪、ストライプの青シャツのジョージが現れた。
「いらっしゃいませ」
サヤカが笑顔でそう迎えると、ジョージは目を丸くして驚いた。
「ウワーオ。とらじゃさんで麗さん以来の女性スタッフですね」
ジョージはセンセエを指差して付け加えた。
「わたしは彼の友達のジョージと言います」
「サヤカです、よろしくお願いいたします」
ジョージはセンセエの後ろのボックス席に座り、ニコニコと高広に話しかけた。
「マスター、男女差別ではありませんが、やっぱり女のコがいるとお店が華やぎますね」
「はあ。今だけの、その、ピンチヒッターですよ」
高広は微妙な笑顔を浮かべて「まあその……身内のようなものでして」とごまかした。
サヤカが水とおしぼりを持って席へ行った。ジョージは嬉しそうにおしぼりを拡げた。
「そうですか。でもマスター、どうですか? ずっといてもらったら」
高広は慌てた。
「そんな、とても給料を払いきれませんよ」
こんな小さな店、お客さまも常連さんのほかには数えるほどしか来ないのに。自分と良平のふたりが食っていくのがやっとだ。
「いやいや、そうじゃなく。ずっといてもらう方法には、いくつか種類があるじゃないですか」
またそういう煩わしい当てこすりを。おっさんめ!
サヤカが調子に乗った。わざとらしく頬を染めて目を伏せた。
「そうですよ、お兄さま。わたし、何ならずっとここにいたってよろしいのですから」
何が「よろしいのですから」か。夕べからのふてぶてしいもの言いはどこへ行ったやら。
「あはははは。みなさん、そろそろお昼にしませんか? ご協力くださいね」
「願ってもない」
メニューは当然、オムライスだ。
「うーん」
「大変おいしゅうございますけれど」
「そう、うまいんだよ。うまいんだけど」
「マスターのオムライスと、ちょっと違いますね」
うーん。
高広は常連さんたちと一緒に、皿の上に屈み込んだ。
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