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七、二〇一〇年 東京―4
⑤
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「お疲れさま」
暢子は言った。
「……ああ」
綾乃は答えた。
アシスタントたちをみな帰し、広間には暢子と綾乃のふたりだけが残っていた。
蛍光灯の白々しい灯りが広間を明るく照らす。
豪華なシャンデリアの明かりは風情があったが、仕事上それだけでは足りなかった。卓上スタンドのほかに、唯一手を入れたのが照明だった。
暢子は綾乃に何か飲みものを淹れてやろうとした。せっかく未明に終わったのだ。何か眠りを邪魔しないものを。
結局「グリーン」は締め切りに間に合った。さっき輪転機を止めて待っていた出版社にデジタル原稿を送信した。確かに受け取りましたとの池野の返信が来た。また綾乃の伝説がひとつ増えたのだった。
今回の仕事で、仕方なく暢子は数年ぶりに定規を握った。いずみとまなが目を丸くして自分を見ていた。
ロットリングを扱う自信がなくなっていたので、堕落と思いながらミリペンを使った。こんなものマジックと同じだ。そうばかにした割には、ペン先の移動速度を一定にしないと、滲んで入り抜きにメリハリがついてしまう。
マンガ制作など二度とごめんだ。筆を折ってから、たった一度だけペンを手に取ったのがこの「グリーン」の最終回だなんて。
何という巡り合わせだろう。
台所へ向かう暢子の背に、綾乃は「酒がいい」とひとこと言った。暢子は黙って頷いた。
リンも鈴鳴も見つからなかった。鈴鳴は原稿を落としたようだ。筋違いを承知で、暢子はその代原にサブアシ亮子の作品を、と「ギニョル」捻じ込んでやろうと思った。迷惑料だ。
だがあちらはあちらで輪転機の都合上無理だった。もう時間がなかったのだ。
暢子は流しの手前の把手を引いた。床下の室を開け、ワインの瓶を選んでやる。疲労の極みにはすっきりした白よりも渋みのある赤だろう。ひと瓶握って踏み台を上がる。
踏み台。階段。時計塔の高い階段。最上階の機械室。そこで積年の想いを遂げる恋人たち。
綾乃の描線には抑えた色気がある。決して自分はポルノは描かない。いつもそう言う綾乃の言葉通り大した露出もないのに、そこらのエロ作品よりもよっぽどエロチックだった。
あんな美しいラブシーンを描く本人の濡れ場はどんな風なのだろう。ひとは現実が貧しいほど妄想逞しくなるという。これまでの綾乃の男関係を見れば、なるほどと納得できたものだった。
これまでは。
暢子は食堂のサイドボードを開け、考えてグラスをふたつ取った。自分は飲みたい気分ではないが、ひとりでグラスを傾けるのも味気ないだろう。
カーテンごとフランス窓にもたれ、綾乃は広間の隅に座り込んでいた。
「どうしたのそんなとこで。そんなに疲れたなら応接室のソファに行こうか。それとも書斎でゆっくりする?」
綾乃は黙って首を振った。ものを言う気力もないのか。
暢子も綾乃の隣に座り込んだ。五十センチの間隔を開けた。グラスにワインをたっぷり注いで、傍らの綾乃に手渡した。綾乃の指に触れてしまわないよう注意した。
ひとことも口を利かないまま、綾乃はその白い喉を鳴らして渋い赤ワインを流しこんだ。それを横目で見ながら、暢子は手にしたグラスをゆらりと揺らした。
濃いワインレッド。暢子の好きな色だった。
今綾乃がもたれているカーテンもそのイメージで暢子が選んだ。耽美的でエロチックな深い赤。それは血の色よりも青みを帯び、深いながらも透き通っていた。
毒々しい深い赤。濁りなく透徹した液体。その二面性はそのまま綾乃だった。暢子の愛する女神だった。
「遂に終わったね、『フューネラル・グリーン』」
呟くように暢子は言った。唇を微笑みの形に曲げてみた。
「『黒飯』の豆の色なんて、嘘でしょ」
綾乃のグラスが空になった。暢子は腕を伸ばして再びそれを満たしてやった。綾乃は暢子がしたようにグラスをしばらく揺らしていたが、ひとくち口に含んでぽつりと言った。
「ああ。嘘だ」
暢子もひとくち飲んでみた。思いのほかそれは旨かった。暢子は鼻に抜けるその香りを味わいながらまた言った。
「じゃ、何だったの」
綾乃はグラスを持ったまま、もう片方の手で髪を結わえたゴムを外した。首の筋をそっと延ばすように左右に動かし、解けた髪を自由にした。
「お前だよ」
「え……」
暢子はグラスに口をつけたまま固まった。顔を上げると綾乃を見てしまいそうで、自分の表情を綾乃に見られてしまいそうで、動くことができなかった。
耳の後ろで拍動が響く。ばくん、ばくんと重苦しく。暢子は呻いた。
「そんなにわたしのことが嫌いだったの」
フューネラル・グリーン。
弔いの緑。
葬り去りたい、緑が象徴するもの。
それが。
自分であったというのか。
綾乃は長い髪を空いた片手でかき上げた。
「違う」
そう言った綾乃の声は疲れてかすれていた。暢子の頬を涙が伝った。綾乃は髪のウェーブごと頭を抱えてまた言った。
「いくつになっても歳を取らない、成熟しないお前。それが『緑』だ」
「え……」
暢子は視線を上げた。綾乃の美しい白い肌がぼんやり霞んでいた。
「ずるいよなあ。同じ歳に同じ場所でスタートしたってのに。俺は胸にも腰周りにもだぶだぶと肉がついて、その重りが枷となって地上に縛りつけられる。ほんの数センチだって飛べやしない。なのにお前はいつまでも軽い身体のままで、あの頃の透明な目のままで」
そこで綾乃は言葉を切り、グラスのワインを大きく仰った。
空になったグラスにワインを今度は自分で注ぎ、綾乃は大きく息を吐いた。
「今回の『類』は美しかったろ」
主人公の「悠一」が恐る恐る手を伸ばし、やっとつかまえた彼の天使。愛されたそのときの類はとまどいと幸福とでせつないほどの表情をしていた。快楽に身を捩るその姿もキレイで、これぞ藤村綾乃の真骨頂といったところだった。
発売日には全国の綾乃ファンが雑誌を手に取り、一斉に溜息を漏らすだろう。
そして愛する悠一に抱きしめられたそのあとで、悠一が見ていたのは、愛していたのは別の人間だと類は知る。類の絶望は、時計塔に差しこむ薄日の中でその姿を羽に変え、類はその身を空へ躍らせる。
今回「フューネラル・グリーン」完結話で、描かれた類の最期は美しい一幅の絵のようだった。その溜息の出る美しさがあって初めて、主人公の絶望が読者に納得されるのだ。
視界を曇らせたまま暢子は僅かに頷いた。
「あれ、お前だよ。別に死ぬってとこじゃないよ。永遠に成長しない、永遠に緑の若芽のまま。そんな命の有りようのことさ。羨ましいよ。羨ましくって羨ましくって」
勢い余って憎んでしまいそうだ。
暢子は言った。
「……ああ」
綾乃は答えた。
アシスタントたちをみな帰し、広間には暢子と綾乃のふたりだけが残っていた。
蛍光灯の白々しい灯りが広間を明るく照らす。
豪華なシャンデリアの明かりは風情があったが、仕事上それだけでは足りなかった。卓上スタンドのほかに、唯一手を入れたのが照明だった。
暢子は綾乃に何か飲みものを淹れてやろうとした。せっかく未明に終わったのだ。何か眠りを邪魔しないものを。
結局「グリーン」は締め切りに間に合った。さっき輪転機を止めて待っていた出版社にデジタル原稿を送信した。確かに受け取りましたとの池野の返信が来た。また綾乃の伝説がひとつ増えたのだった。
今回の仕事で、仕方なく暢子は数年ぶりに定規を握った。いずみとまなが目を丸くして自分を見ていた。
ロットリングを扱う自信がなくなっていたので、堕落と思いながらミリペンを使った。こんなものマジックと同じだ。そうばかにした割には、ペン先の移動速度を一定にしないと、滲んで入り抜きにメリハリがついてしまう。
マンガ制作など二度とごめんだ。筆を折ってから、たった一度だけペンを手に取ったのがこの「グリーン」の最終回だなんて。
何という巡り合わせだろう。
台所へ向かう暢子の背に、綾乃は「酒がいい」とひとこと言った。暢子は黙って頷いた。
リンも鈴鳴も見つからなかった。鈴鳴は原稿を落としたようだ。筋違いを承知で、暢子はその代原にサブアシ亮子の作品を、と「ギニョル」捻じ込んでやろうと思った。迷惑料だ。
だがあちらはあちらで輪転機の都合上無理だった。もう時間がなかったのだ。
暢子は流しの手前の把手を引いた。床下の室を開け、ワインの瓶を選んでやる。疲労の極みにはすっきりした白よりも渋みのある赤だろう。ひと瓶握って踏み台を上がる。
踏み台。階段。時計塔の高い階段。最上階の機械室。そこで積年の想いを遂げる恋人たち。
綾乃の描線には抑えた色気がある。決して自分はポルノは描かない。いつもそう言う綾乃の言葉通り大した露出もないのに、そこらのエロ作品よりもよっぽどエロチックだった。
あんな美しいラブシーンを描く本人の濡れ場はどんな風なのだろう。ひとは現実が貧しいほど妄想逞しくなるという。これまでの綾乃の男関係を見れば、なるほどと納得できたものだった。
これまでは。
暢子は食堂のサイドボードを開け、考えてグラスをふたつ取った。自分は飲みたい気分ではないが、ひとりでグラスを傾けるのも味気ないだろう。
カーテンごとフランス窓にもたれ、綾乃は広間の隅に座り込んでいた。
「どうしたのそんなとこで。そんなに疲れたなら応接室のソファに行こうか。それとも書斎でゆっくりする?」
綾乃は黙って首を振った。ものを言う気力もないのか。
暢子も綾乃の隣に座り込んだ。五十センチの間隔を開けた。グラスにワインをたっぷり注いで、傍らの綾乃に手渡した。綾乃の指に触れてしまわないよう注意した。
ひとことも口を利かないまま、綾乃はその白い喉を鳴らして渋い赤ワインを流しこんだ。それを横目で見ながら、暢子は手にしたグラスをゆらりと揺らした。
濃いワインレッド。暢子の好きな色だった。
今綾乃がもたれているカーテンもそのイメージで暢子が選んだ。耽美的でエロチックな深い赤。それは血の色よりも青みを帯び、深いながらも透き通っていた。
毒々しい深い赤。濁りなく透徹した液体。その二面性はそのまま綾乃だった。暢子の愛する女神だった。
「遂に終わったね、『フューネラル・グリーン』」
呟くように暢子は言った。唇を微笑みの形に曲げてみた。
「『黒飯』の豆の色なんて、嘘でしょ」
綾乃のグラスが空になった。暢子は腕を伸ばして再びそれを満たしてやった。綾乃は暢子がしたようにグラスをしばらく揺らしていたが、ひとくち口に含んでぽつりと言った。
「ああ。嘘だ」
暢子もひとくち飲んでみた。思いのほかそれは旨かった。暢子は鼻に抜けるその香りを味わいながらまた言った。
「じゃ、何だったの」
綾乃はグラスを持ったまま、もう片方の手で髪を結わえたゴムを外した。首の筋をそっと延ばすように左右に動かし、解けた髪を自由にした。
「お前だよ」
「え……」
暢子はグラスに口をつけたまま固まった。顔を上げると綾乃を見てしまいそうで、自分の表情を綾乃に見られてしまいそうで、動くことができなかった。
耳の後ろで拍動が響く。ばくん、ばくんと重苦しく。暢子は呻いた。
「そんなにわたしのことが嫌いだったの」
フューネラル・グリーン。
弔いの緑。
葬り去りたい、緑が象徴するもの。
それが。
自分であったというのか。
綾乃は長い髪を空いた片手でかき上げた。
「違う」
そう言った綾乃の声は疲れてかすれていた。暢子の頬を涙が伝った。綾乃は髪のウェーブごと頭を抱えてまた言った。
「いくつになっても歳を取らない、成熟しないお前。それが『緑』だ」
「え……」
暢子は視線を上げた。綾乃の美しい白い肌がぼんやり霞んでいた。
「ずるいよなあ。同じ歳に同じ場所でスタートしたってのに。俺は胸にも腰周りにもだぶだぶと肉がついて、その重りが枷となって地上に縛りつけられる。ほんの数センチだって飛べやしない。なのにお前はいつまでも軽い身体のままで、あの頃の透明な目のままで」
そこで綾乃は言葉を切り、グラスのワインを大きく仰った。
空になったグラスにワインを今度は自分で注ぎ、綾乃は大きく息を吐いた。
「今回の『類』は美しかったろ」
主人公の「悠一」が恐る恐る手を伸ばし、やっとつかまえた彼の天使。愛されたそのときの類はとまどいと幸福とでせつないほどの表情をしていた。快楽に身を捩るその姿もキレイで、これぞ藤村綾乃の真骨頂といったところだった。
発売日には全国の綾乃ファンが雑誌を手に取り、一斉に溜息を漏らすだろう。
そして愛する悠一に抱きしめられたそのあとで、悠一が見ていたのは、愛していたのは別の人間だと類は知る。類の絶望は、時計塔に差しこむ薄日の中でその姿を羽に変え、類はその身を空へ躍らせる。
今回「フューネラル・グリーン」完結話で、描かれた類の最期は美しい一幅の絵のようだった。その溜息の出る美しさがあって初めて、主人公の絶望が読者に納得されるのだ。
視界を曇らせたまま暢子は僅かに頷いた。
「あれ、お前だよ。別に死ぬってとこじゃないよ。永遠に成長しない、永遠に緑の若芽のまま。そんな命の有りようのことさ。羨ましいよ。羨ましくって羨ましくって」
勢い余って憎んでしまいそうだ。
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