銀鎖

松本尚生

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五、銀鎖

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 翌日の通夜では、意外なことに小さな会場がいっぱいになった。

 周囲の全てに興味のなかった悟は、一方的に「クール」と思われ、女子生徒に人気だったようだ。盛大に泣いている子が数名、泣いている子の周りにはそれを支える子がそれぞれ二、三名。

 純香と遼一の父が遺した、そして今は篠田氏が経営する江藤建設の取引先からは、大量の花輪。

 坊主の読経に女生徒のすすり泣きが交差して、若い魂が失われた悲惨さが際立つ。

 遼一は、純香の隣で、ぼんやりと遺影を見上げていた。どこから探してきたのか、写真の中の悟は笑っていた。儀礼的な、遠慮がちな笑みだった。

 だが、遼一の記憶の悟は違う。もっと愛らしく笑っていた。甘えるように笑ったり、嬉しそうに笑ったり、流し目も意地悪な小悪魔の笑みだったり。

(悟……)

 ふっと頬を赤くして、幸せそうに笑う悟。その姿は、可憐な薔薇の花が咲くようで。

 首筋に立ち昇る甘い香りと相まって、遼一の心を熱した。幸せという感覚を遼一に感じさせた。

 幸せ。喪われた記憶の断片。断片ひとつひとつに悟がいる。

 めまいがした。



 すすり泣く女子中学生が、かわるがかわる焼香に立ち、会場の混雑は続いた。

 突然上から声が降ってきた。

「あんたがあいつを殺したんだろ」

 押し殺した、低い声。

 遼一は声のした方を見上げた。見たことのある制服の子供がひとり。遼一はぼんやりと記憶をたどった。

 石川だった。血走った目を剥いて遼一の前に立ちはだかっていた。

「俺は何年も、あいつを決定的に壊したりはしなかった。けど、あんたは一年も経たずにあいつをこんなにしちまった。あんた、どうする積もりなんだ」

 盗っ人猛々しいにもほどがある。誰のせいで、悟が世界への扉を閉じたと思っている。

「本当に『壊さなかった』と思っているのか」

 歯ぎしりの間からうなるような低音で遼一は言った。

「ああ、そうさ。俺が殴ったくらいでは、あいつは死んだりしなかった」

 石川は反抗的に怒鳴った。

「あんただろ、あいつの首にキザな鎖をかけたのは。そのせいで、あいつは死んだんだ。あんたが殺したんだ」

「止めなさい」

 拳を握る石川の腕を後ろから誰かがつかんだ。

「大塚先生……」

 遼一はその名を呟いた。

「石川、場所をわきまえなさい」

 石川の言っていることは、結果的に合っていた。遼一が悟を愛さなければ、抱きしめたりしなければ。

 三月に、この石川が悟に暴力を振るっているのを止めなければ。

 いや。それだけは、ない。

 あのガラス玉の瞳を生き返らせなかったら、遼一が生きてきた意味はない。

 生きてきた、意味。

 遼一が生きる意味を見つけたのに、悟はそれを見失って――。

 遼一はおもむろに口を開いた。

「あいつはお前を選ばなかった。お前もあいつに選ばれるような行動はしなかった」

「どうする積もり」と石川は言った。遼一は悟と生きていく積もりだ。悟は石川の暴力を棄てて、遼一を選んだのだから。

 遼一は、自分が出会う前の悟を好きに殴っていたこの石川を許せなかった。遼一の怒りに嫉妬が混じる。悟がそれを喜ばなかったとはいえ、その身体を好きにしていたのは事実だ。

 遼一は座ったまま石川を冷たく睨み返していた。

 大塚は「もう遅いんだから、早く帰りなさい」と石川を促した。石川は渋々去っていった。

 悟が選んだのが遼一であっても。

 悟が本当に好きだったのが遼一であっても。

 悟はもう遼一に笑顔を向けることはない。

 自分の血を呪ってか、産んではいけない自分を産み落として放置した母を怨んでか、遼一のことをどう思ってか。永遠に分からない。だが、いずれにせよ、悟がその体温で遼一を温めてくれることはもうないのだ。

 遼一は祭壇の中心に置かれた棺を見た。棺の中には冷たくなった悟が眠っている。もう目覚めない。明日には冷たい身体もなくなってしまう。

(悟……)

 遼一は手で顔を覆い、深くうなだれた。

 大塚は目を真っ赤に腫らしていた。 

「村上さん、篠田君の叔父さんだったんですね。ひとが悪いな。どうして言ってくれなかったんです?」

 遼一は「すみません」と大塚に謝った。

「わたしは江藤の家では日陰者でしてね。名字も違いますし、胸を張ってそう名乗るのは遠慮してました」

 大塚は詫びるような言葉を口の中で転がして、遺影を振り返りこう言った。

「……可愛い子でしたね」

「ええ」

「そして、賢い子だった」

「ええ」

「わたしは、教え子に死なれるのはこれが初めてではないのですが」

 大塚は膝の上で拳を握った。

「『死ぬ気でやれば何とかなる』なんて、気軽なことは言えないですよ。でも、結論を出してしまう前に、ひと言、何か」

 相談してくれるなり、せめて何かサインを出してくれていれば。

 そう言って大塚はメガネを上げ、拳で涙を拭った。

「篠田君は、明るくなりました。初めは思い詰めたような顔をして、唇をかみしめていることが多かった。でも、二学期頃からずいぶん明るくなって、成績も上がって」

 お兄さんにお電話したときもありましたね。でも、あれからすぐまた回復して。

 大塚はメガネを拭いて元へ戻した。

 純香が湯飲みを乗せた盆を運んできて、大塚の膝の脇に置いていった。大塚は純香に軽く頭を下げ、純香が去るのを待ってこう言った。

「お兄さん。どうしてですか。どうして篠田君は、死んだりしなくちゃいけなかったんです」

「先生……」

 大塚はハッとしたような顔をして拳を握り直した。

「すみません。立場上、こんなこと言っちゃいけないですよね」

 遼一は教え子を喪った教師の悲しみを眺めていた。遼一は静かに口を開いた。

「いじめ、とかでは、ないですよ。もっときっと」

 遼一はそこでいったん唇を閉じた。祭壇に飾られた悟の遺影を、彼の笑顔を見上げて言った。

「人生の……根幹に当たる部分の問題だった」

 そう、思います。遼一はそう言って、遺影を見上げたまま眩しそうに目を細めた。

 大塚は確かによい教師だ。親身にこの子の境遇に寄り添ってくれた。だが。

 悟と自分の秘密を分け与える気にはならない。

 悟の十五年の人生は、丸ごと自分がひとり占めする。

 これからの一生を、遼一は、悟とともに生きていく。

 誰にも邪魔はさせない。俺だけのものだ。

 悟。

 お前ももう、どこにも行かなくていいから。

 ずっと俺の側にいてくれ。

(何なら、取り殺してくれても構わない)

 遼一は目を伏せてふっと笑った。

「お兄さん、くれぐれも、お気落としなく」

 大塚は遼一をそう気遣って帰っていった。

「ほら。今日は少し眠ったら。あと、何か食べて。あなたも倒れちゃうわよ」

 弔問客がみな帰り、身内だけになって、純香がゆっくりとそう言った。

 倒れて、そのまま死ねるなら、そうする。

「……ありがとう、姉さん」

 篠田氏の手前、遼一は常識の範囲の行動を機械的にこなした。

 篠田氏は、遼一のグラスに酒を注いだ。遼一は無言でグラスを掲げ、口をつけた。



 冬の淡い青空に煙が昇っていく。

 愛した小鳥が空へ帰っていく。

 今し方告別式で、遼一はついに自制を失った。通夜と違い参列者も少なく、しんとした式だった。手に手に白い花を棺に入れる。もう目を開かない悟が、花に埋めつくされていく。

「悟ーっ!」

 葬儀社員が棺の蓋を手に近づくのが見えた。遼一はそれを振り払い棺に取りついてその名を叫んだ。

 花の香りがむせるように濃く立ちこめていた。

「悟……悟……」

 遼一はその頬を撫でさすった。冷たい頬。細い身体。

 この頬を、身体を、幾度愛したことだろう。ほんの短い間でしかなかった。もっともっと愛して、大切にしてやりたかった。遼一の腕の中で、この子はあんなにも幸せそうにまどろんでいたというのに。

 遼一の涙でいくつもの花が揺れた。

 数分して、純香が静かに遼一の背をさすった。穏やかに、だがきっぱりとした手の動きが、遼一を棺から引き剥がした。涙で曇った遼一の視界で、棺の蓋が閉じられていく。

 もう、二度と、あの身体に触れることはないのだ。コツコツと釘を打つ音が遠くに聞こえた。遼一は両手で顔を覆った。

 もう誰に何を思われても構いやしない。守るべきものは天に還った。

 遼一は廊下の大きなガラス窓から空を見ていた。

 ポケットには、銀の鎖と指輪。

 遼一はそれを取り出して手のひらに載せた。

 純香が控え室から出てきた。

「あたしの人生も、これで本当に終わったわ」

 遼一は黙って純香を見た。

「もともと何もない空っぽな人生だったんだもの」

 純香は遼一を見るでもなく、遼一と並んでガラス窓から空を見上げた。

「たったひとつ残ってたあの子も去っていった。もう何も残ってないわ」

 遼一は手のひらから指輪を取り上げ、空へかざした。

「あなたは、今度こそ、あなた自身の人生を歩んだらいかがですか」

 純香は感情のこもらない声で問うた。

「そんなこと言って。あなたはあの子のことを忘れられる?」

 遼一は答える代わりに指輪を握りしめ、鎖と一緒にポケットへ戻した。純香は皮肉に少し笑った。

「……いつか忘れるか。あなたは男のコですもんね」

 確かに自分は十年かかって純香を忘れた。そうしてしばらくして、悟と出会った。悟とは一生を一緒に過ごすと決めていた。多分、遼一はそうするだろう。悟がこの世からいなくなっても。

 だが、遼一はそれを純香に説明しはしなかった。純香を残し、黙って廊下を引き返した。



 華奢な身体の、華奢な骨。悟の肌のように白い陶器にそれを納めていく。本当は指輪と鎖も一緒に焼いてやりたかった。悟は多分そうされた方が嬉しいと思うから。

 副葬品は制限されていた。だからそれらは形見にする。遼一の視界は繰りかえし涙ににじむ。

 作業の途中で、唐突に純香は言った。

「遼一くん。どれか持っていく?」

「え」

 分骨っていうか、するなら今よ。純香がそう言うと、篠田氏が珍しく口を挟んだ。

「分骨には証明書が要るぞ。出してもらうなら頼んでおかないと」

「あらそう」

 純香は動じない。

「いえ、いいんです」

 遼一は慌てて断った。あのキレイな身体を思い出させる白い骨は、バラバラにしないで、ひとつところで眠らせてやりたい。

 篠田氏は遼一の方をチラと見て、また無言で作業に戻った。

 外へ出ると、青空の下は風もなく穏やかだった。

「結局、あなたとあの子の関係は、一体何だったんですか」

 ここ数日ほとんど会話を交わさなかった篠田氏が、遼一に尋ねた。

「何だったんでしょうね。僕にもよく分からんです」

 遼一はそう答えて空を見上げた。今日は穏やかな天気だが、近々また冷え込むだろう。雪が積もるのも近い。火葬場の太い煙突からは、煙が上り続けている。何人ものひとの大事なひとが、こうして天に還っていく。

 遼一は冷たい空気を胸いっぱい吸い込んで、ゆっくり吐き出した。

「叔父と甥……でしょうかね、やっぱり」

 遼一は篠田氏を振り返った。篠田氏は納得したのかしないのか、うなずきもせず遼一の返事を聞いていた。

 遼一は彼の小鳥の感触を思い出していた。優しい子だった。よく気のつく子だった。

「あの子は、あなたを解放することができたと言って、喜んでいましたよ」

 本当のことだった。遼一は事実を篠田氏に告げた。

「そうですか……。小さな頃から、不思議な子だった。わたしとはまるで別の世界を見ているようで、大人びていてねえ」

 篠田氏は自分の血が入っていない形ばかりの息子のことをそう語った。篠田氏の感じていた悟は、確かにその通りの子供だったのだろう。

 遼一は幾度かうなずいて、微笑んだ。

「よく気のつく、優しい子でした。そこはきっと、あなたの血なんでしょうね」

 篠田氏は面食らったような表情を浮かべ、黙り込んだ。

 篠田氏の抱える遺影には、ぎこちない笑顔を浮かべた悟。

 遼一はポケットに手を入れ、鎖と指輪に指を触れた。

 これを指にはめられ、頚にかけられたときの悟の笑み。うっとりして、頬を染めて。幸せそうに。涙を流して。

 こっちが本物だ。

(悟。そこにいるのか)

 遼一の頬をそよそよと風が撫でていった。

(早く迎えにきてくれよ。俺も連れていってくれ)

 解放なんてされない。される訳がない。

 高台に設けられた火葬場から市街へ戻る葬儀社の車の前で、純香が待っていた。

 遼一は夫妻の後から車に乗り込んだ。

 パルプの廃液の臭いが立ちこめる、市街へ。

(悟――)

 遼一はこの不幸な血の鎖から逃れることはもうしない。

 なぜなら鎖でつながれた向こうには、遼一の愛した悟がいるから。

 車は枯れた木々の間を縫って、市街地を目指した。
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