銀鎖

松本尚生

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五、銀鎖

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 不安定な悟を落ち着かせるには。

 悟と同居できる日まで、どうすれば悟の正気を持ちこたえさせられるか。遼一は考えた。

 自分の目の届くところに置いておける時間はまだいい。悟がダダをこね始めたら、構わず抱いて、あの細い身体を快楽で満たしてしまえばいいのだ。だが。

 学校へ行っている間。品行方正でいるために、少しは帰っていなければならない親の家。どちらも、今まで十年以上悟を苦しめた環境だった。そんな中に味方もなくひとりでいたら、おかしな考えになってしまっても不思議はない。

 遼一も、やっと悟の苦悩や不安の一部を推測できるようになっていた。

 幸い、手許には株取引で確定できた利益があった。

 悟がひとりでいる時間。

 遼一の心が自分にあると。

 間違いなく、愛されているのは自分だと。

 何も心配することはないのだと。

 そう確かに信じられる、よすがが何かあるといい。



 ある日の午後、遼一は自宅に車を置いて繁華街へ足を踏み入れた。北の方から街路に入ると、シャッターを閉ざしたまま多数の店舗が朽ちていた。なかなかに気の滅入る光景だった。遼一の記憶より、確実に衰退が進んでいた。

 つまりは、三月に帰郷してから、やはり一度もこの通りを歩いていないということか。この点は悟が正しかった。

 遼一は自分の心を再点検してみた。

 悟の言うように、自分の心には、何かわだかまりが残っているか。

 遼一は歩きながら首を振った。

 あのひとはこんなところへは来ない。そもそもこの街にだってもういないかもしれない。

 自分もあれから歳を取った。向こうも同じだけ歳を取ったはずだ。すれ違っても、お互い気づきもしないかもしれない。

 確かに、二度と顔を合わせたくない相手ではある。が、悟が疑うほど、自分はその存在を気にしているだろうか。血の絆すら振り切った遼一だった。

 親にも愛されず、友人もいなかった悟は、ひととのつき合い方が分からない。生まれて初めて心を開いた相手が遼一だった。悟にとって、遼一は百%中の百%だ。だから遼一にとっても、自分が百%だったらと望むのだろうか。

(俺の心は、百%お前のものだよ、悟)

 遼一は器用な人間ではない。ほかの何かを気にかけながら、誰かを何%か愛するなどできない。悟の極端なまでの一途さは、自分にも共通してある特徴だった。

 うっすら記憶にあった時計店は、今も営業を続けていた。外装は全く変わっていたが、同じ場所に、同じ間口で開いていた。

 昔は時計と宝飾を同じ店が扱っていたものだ。今もそうだろうか。遼一は足を止めショーウィンドウをちらとのぞいた。




 クリスマスにはちょっと早いけど。

 そう言って、遼一は悟の前に小さな包みを押し出した。

「なあに? 遼一さん」

 夕食の片付けも済み、穏やかな夜が更けていく。今夜悟はここに泊まる。朝までずっとふたりでいられる。

 悟はテーブルの上に置かれた包みを不思議そうにながめた。

「開けて」

 遼一は促した。

 悟が大事そうに包みを開けると、中からは紺色のビロード張りのケースが出てきた。ケースの中には。

「……遼一……さん……。これ……?」

 ケースを開けた悟は、ものも言えず遼一を見た。

 遼一は笑って、ケースに鎮座した小さな銀色を取り出し、悟の指にはめた。

 指輪だった。

「遼一さん……」

 悟はもう言葉が出ない。指輪をはめられた左手が震えた。瞳がうるんだ。

「泣くの待て。もうひとつあるんだ」

 遼一は揃いのケースをもうひとつ取り出して、テーブルに載せた。ケースの中から、悟の指にはまったものよりわずかに大きい、揃いの指輪が出てきた。

「こっちは俺用。悟がはめて」

 悟は震える指で指輪をつまみとった。呼吸を整えて遼一の差し出した左手を取る。

「えっと……薬指でいいんだよね」

 悟は自分の左手を確認した。「多分」と遼一は笑った。

 悟はぎこちなく遼一の指にそれをはめた。悟は上目づかいに遼一を見た。遼一は「お揃い」と言って悟に笑いかけた。

「俺の魂が悟のものだって、いつも証拠を見ていられればいいだろう」

 エンゲージリング、契約の証だった。

 悟の頬に、涙がひと筋こぼれ流れた。遼一は言った。

「俺はお前のものだよ、悟。俺も、悟が俺のものだって、俺のこと本気で好きでいてくれるって、信じていいか」

 悟は目を伏せた。涙が次々と頬を伝う。

「……決まってるじゃない」

「ああ。でもこれは約束だから。悟もちゃんと言って」

 悟は少しの間唇をかんでいたが、背筋を伸ばして息を吸った。

「約束……するよ。遼一さんは僕のものだ。僕はそれを、疑うのをもう止める。僕が遼一さんを好きなように、遼一さんもそうだって。信じるようにする」

 悟は照れくさそうに少し笑った。

「がんばるから」

 その通りにしてくれたら、遼一は本当に安心できる。だがこの決意表明を聞けただけでも、今日のところは大収穫だ。

「あ、でも……」

 悟は頬を濡らしたまま、困った顔を遼一に向けた。

「学校にはつけていけないよ」

 遼一は「分かってる」というように数度うなずいて、新たに細長い包みを取り出した。悟が開けると、細い銀の鎖が出てきた。

 遼一は悟の手を取った。細い指から指輪を外し、鎖にそれを通した。鎖の両端を左右の手に持って、悟の肩を抱くように腕を回した。

「いつもはこうして身につけておくんだ。俺のいないところで外すなよ」

 悟の首の後ろで金具を止めた。指輪をネックレスにすれば、服の下に忍ばせておける。遼一のアイディアだった。悟は胸許に手を当てた。指輪が揺れた。遼一の指に光るものと揃いの、自分用の小さな指輪。

「ヘンな声が聞こえそうになったら、これを見て。不安な気持ちになったら、胸のこれを握るんだ」

 遼一は悟の頬を指で拭った。

 悟の濡れた瞳はキラキラ光って、鎖骨に揺れる銀の指輪はそれをさらに引き立てた。

 こんなにキレイなのに、遼一の目にはこの上なくキレイに映っているのに、架空のライバルにやきもきする必要がどこにあるのか。

 だが、悟が置かれた環境はストレスフルで、そこにいるだけで不安が増強される。不安の対象のせいでなく、胸に渦巻く不安が強すぎて、何にでも妄想が回るのかもしれない。なら、妄想が回りかけるたび、悟が自分でそれをリセットできるスイッチがあればいい。

 遼一は続けた。

「離れているとき、悟が怖い気持ちになってないか心配になったら、俺もこれを見るよ。そして、悟もがんばってるんだって思う」

 悟の生きた瞳は遼一を見ていた。今この瞬間にも、悟は遼一の瞳の奥に、何かを読み取っているのだろうか。

 遼一は悟の瞳が、自分の気持ちを真っ直ぐ受け取ってくれたらいいと願っていた。遼一も悟も普段ひとづき合いをせず、誰かの気持ちを真っ直ぐ受け取るのに慣れていない。だからこその、約束だった。

 遼一は悟の肩を引き寄せた。悟は素直に遼一の胸に収まった。遼一は悟の身体に腕を回し、腰の辺りをポン……ポン……と軽く叩いた。小さな子供をあやすように。

 泣き声の止まった悟は、遼一の胸の中で安心したように深い息をついた。

「俺たちはどっちも、ひとと信頼関係を築くのが苦手だよな。しょうがないよな、親にも愛されないで育ったんだから」

「遼一さん……?」

 悟は身体をよじり、遼一の顔を見た。遼一は自分の話をあまりしてこなかった。空白が多すぎると悟の妄想が勝手にそれを埋めてしまう。遼一は、もっと自分のことを悟に伝えるべきなのだろうか。特筆すべきところのない、単調で、不幸だった人生を。

 だが、不幸だったのは、過去のことだ。

 自分の胸で息づく、軽くて華奢な、小鳥がいれば。

 悟はそんな遼一の胸の内を知って知らずか、無垢な瞳で遼一を見つめている。

「俺たち、ふたりして、自分の人生を取り戻そう」

 遼一は少し笑って、悟の身体を抱きしめた。

「一緒に幸せになるんだ」


 
 その晩、悟はひとり分しかない狭い寝床で遼一に言ったのだ。



 クリスマスには僕をあげる。

 言っとくけど、返品不可だからね。

 ずっと、あなたのものにしていて。



 嬉しそうに鎖から外したり通したりを繰り返し、明日学校へ行くまでは指にしていようと決めた指輪から目を上げて。

「僕を、もらってくれる?」

 幸福に酔っているのか、たった今全身を満たした感覚に浸っているのか。うっとりしていた瞳をいたずらっぽく遼一に向けて、悟はそう訊いた。

 遼一は「もちろんだ」と言う代わりに回した腕に力を入れ、悟の身体を大きく揺すった。悟は嬉しそうにキャッと笑った。

「後で『返せ』って言っても聞かないぞ」

 笑いながら遼一はつけ加えた。

 長い時間の先の話。

 悟の視界を覆っていた昏い不安を薄めることができたのだった。

 霧の合間から見えた未来は、このとき宝石のように青く輝いていた。
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