銀鎖

松本尚生

文字の大きさ
上 下
33 / 43
四、過ぎゆく秋と、冬の初め

4-12

しおりを挟む
「こら、さー、寝るな。今眠ったら朝になっちまうぞ。腹減ってるんじゃないのか」

「ん……」

「メシ食おう、メシ」

「んー」

 遼一が揺り起こしても、悟はなおも眠そうにベッドで丸まっていた。

「ほら、もうすぐ七時だ。俺は腹減ったぞ。メニュー取ってくるから。眠るなよ」

 遼一は悟の目許にチュッとキスをして立ち上がった。悟の払い落とした白いタオル地のバスローブを拾って肩にかけ、次の間からルームサービスのメニューを持ってきた。

「さー、何食いたい?」

 悟は遼一の突き出したメニューに、目をパチクリさせた。

「遼一さん?」

「ん?」

「どうしたの?」

「何が」

 部屋は充分暖かいが、受験生が万一風邪を引くなんてことがあってはいけない。

 遼一は椅子の背に行儀よくかけられたもう一枚のローブを取り、ベッドの悟の身体の上に投げかけた。窓に向けて置かれたテーブルと椅子のセットは猫足に刺繍で、骨董品のようだった。

 遼一がバスルームにいた間、悟は悟なりに考えたのだろう。どうしたらもっとも遼一を自分に夢中にさせることができるか、選択肢を吟味したに違いない。そうして寝室のベッドで、一糸まとわぬ姿で遼一を待つことにしたのだ。
 
 この椅子の背のバスローブに、遼一はそれを感じとった。羞恥をこらえてローブを脱ぎ、ベッドに潜り込んで――。その様子が目に浮かぶ。

「オードブル、こりゃ酒のつまみだな。洋食、和食、中華、何でもあるぞ」

 遼一はベッドに腰かけ、悟が見やすいように身体の横でメニューをめくった。悟は遼一がかけてやったローブに腕を通しながら、遼一の手許をのぞき込んで、言った。

「……何か、ずいぶん、高価くない?」

 悟は首を振った。

「何も部屋で食べなくったって」

 遼一は鼻歌交じりにページを行きつ戻りつした。

「莫迦。学生服着た中学生連れてホテルの中をうろうろ歩けるかよ。着替え、ないんだから」

 悟はベッドに腕を突き、遼一に食ってかかった。

「じゃあ、コンビニで何か買ってくるとかさ。いくらなんでも贅沢すぎるよ」

「悟」

 遼一は悟の顔をのぞき込んだ。

「俺がお前のために贅沢するのの、どこが悪い」

「だって……」

「いいの。俺にとって、お前はそのくらい価値があるって、それだけ」

 悟は真っ赤になって黙り込んだ。遼一は視線を再びメニューに戻した。

「大体お前が悪いんだぞ。俺の気持ちを疑って、思いあまって俺を振ろうなんてするから。だから俺は俺の気持ちを、躍起になって見せつけなきゃならなくなる」

 悟は照れくさいのか嬉しいのかひと言も発せず、ひび割れた唇をかんだ。

「それが嫌なら、最初からああだこうだ文句言うなよな」

 悟は「ごめん」と言って、ページをめくる遼一の指を握った。タオル地にくるまれた、細い身体が遼一に寄りかかった。

「俺はもう手加減しないよ。年の差ハンデを取っ払って、全力でお前を甘やかすから。それがお前の人格形成に悪影響があろうが何だろうが、一切考慮しない」

「遼一さん……」

「覚悟するんだな。さあ、まず手始めに、さーの食いたいものは何でも注文するぞ。早く決めろ」

 悟は恐る恐る、魚介のトマトソースパスタにフリッタータを選んだ。遼一はそれにフライドチキンとサラダ、果物盛り合わせを加えて注文した。

 料理に合わせてビールかワインでも頼もうかと思ったが、止めた。冷蔵庫のペリエを追加することにした。

 料理が来るまで、悟は次の間でテレビのリモコンをいじっていた。遼一は悟の隣で、悟のすることを眺めていた。

 ふたりとも普段テレビは観ないので勝手が分からない。ケーブルに悟が昔好きだったという子供向けのアニメを見つけて、悟はそれにチャンネルを合わせた。その頃遼一は学生で、その番組を知らなかった。

 懐しがって悟が画面を見ながらわあきゃあ言うのを眺めていると、チャイムが鳴った。

 遼一は悟を寝室に追いやった。

「お前は出てくるなよ」

「どうしてさ」

「いいから」

 遼一は寝室との扉を閉め、急いで部屋のドアを開けた。

 係はしずしずとワゴンを押して入ってきた。料理が応接セットに並べられる。

 遼一がバスローブ姿でいたのはうまくなかった。ノイローゼ気味の受験生のお目付役なら、まだ夜の早い今時分、ひとっ風呂浴びてくつろいでいるのはおかしかった。当の受験生が遼一と同じ姿で、子供向けアニメを観ているところを見せずに済んでよかった。

 それに遼一には、部屋のあちこちに、ふたりの甘い時間のカケラが落ちている気がした。接客のプロに、それを嗅ぎつけられでもしたら身の破滅だった。

「……もういい?」

 ホテルのスタッフが出ていったあと、悟は寝室の扉からちょこんと首だけ出してそう尋ねた。

「ああ。早くおいで」

 いただきまーすと合唱して、ふたりは料理に取りかかった。悟は初めは「こんなに食べられるかな」と首をかしげていたが、食べ始めると、思ったより食が進むようだった。しっかり食べて、やつれた顔色が戻るといいと遼一は思った。

「大塚先生から電話もらったよ。『篠田君の様子がおかしい』って」

 悟の取り皿にフライドチキンをいくつも載せながら、遼一は言った。

「え……」

 悟はフォークを持った腕を下ろして遼一を見た。

「お母さまにお電話しても埒が明かないと思ったので」と前置きして、担任の大塚は遼一の渡した名刺に電話したのだ。

「ああ。僕、教室で倒れたからね」

 うなずきながら悟は答えた。

「あれから一睡もできなくて。立ち上がった瞬間に意識を失って、保健室でやっと二時間だけ眠れたよ」

「悟……」

 遼一は、悟のこけた頬を指でなぞった。

「それがおかしいの。倒れた僕を保健室まで運んだの、誰だと思う? あの石川だよ。同じクラスでもないのに」

 あのいじめの首謀者か。悟は底意地の悪い笑みを浮かべて続けた。

「たまたま教室の入り口で誰かと話してたんだとさ。意識がなかったからしょうがないけど、ぞっとしないよね。運んでる途中で僕に意識が戻ったら、どんな顔する積もりだったんだろ」

 遼一は黙って聞いていた。悟はフリッタータをひとかけフォークに刺して、遼一の口許に差し出した。

「遼一さん、これまだ食べてないでしょ。おいしいよ」

 遼一は一瞬戸惑ったが、卵料理をパクリと食べた。

「どう?」

「うん。うまいな」

「ふふふ」

 悟は嬉しそうに笑っていた。遼一は照れくさくて目を伏せた。

「僕が願ったんだ。『その日』が早く来るといいって」

 悟は笑ってそう言った。遼一は顔を上げた。

「悟?」

「でも、その日が来た『後』のことは想像してなかった。莫迦だよね」

 悟は、いつか遼一が自分の許を去ると思っていた。それを待っている時間が苦痛だった。いっそ早くその日が来てしまえばラクになれると信じていた。

 遼一はそれを知っていた。だが自分は悟を棄てることなどない。悟がそれを納得してくれるのを待つと決めていた。自分が先に音を上げてしまう日が来ようとは夢にも思わず――。

「あんなに空っぽになるなんて」

 悟の声が湿り気を帯びた。

「あんなに苦しいなんて。だって、息ができないんだ。眠れないし。夢に逃げ込むこともできなくて」

 悟はゆっくり皿を置いた。

「でも、一番辛かったのは、あんなあなたの姿を見たときだった」

 悟は両手を遼一の頬に当てた。

「僕のことはいい。辛いのなんてどうせ慣れてる。でも」

 悟の指が遼一のまつげを、鼻筋を、唇をなぞった。

「……多分、僕はもう、自分のことよりもずっとあなたが好きなんだと思う」

 遼一はじっとして、悟の細い指が細かく震えるのを感じていた。

「どうしてあんな風に思えたんだろう。僕がクラゲに戻ればいいだけだなんて」

 悟はソファの上で背を伸ばし、遼一の頭を胸に抱いた。

「僕から離れて歩いていく遼一さんの後ろ姿を見たとき、胸のここが痛くなって。ナイフを突き立てられたように。息もできなくて。あなたがあんな風に苦しむなんて、そんなに僕を思ってくれてたなんて。遼一さんは繰り返しそう言ってくれてたよね。でも、僕はあのときまで、何も分かっていなかった」

「悟」

 遼一は悟の薄い身体に腕を回した。そうしてその背中をポンポンと叩くと、悟の身体を離した。

「もういいよ、悟。分かればいいんだ」

「遼一さん、僕はあなたのことが本当に好き。あなたは僕の大切なひとだから――」

 悟は数回まばたきして、溜まった涙を流しきった。

「誰にもあなたを傷つけさせたりしない。あなたを傷つけるものから、絶対あなたを遠ざける。そう思うよ」

「頼もしいな」

 遼一は目を伏せ、ふっと笑ってそう言った。

 今度こそ、悟は遼一の本心を理解し、納得できただろうか。

 悟はおいしそうに、全ての皿を少しずつ食べた。老舗ホテルの料理だけあって味はよかった。遼一はこんなに味わって食べたのは久しぶりな気がした。

 大塚に心配された悟のみならず、自分もここ数日はあまり食わず、あまり眠っていなかったことに気がついた。

「コーヒーでも頼もうか。飲むか?」

 果物の皿に手をつける頃、遼一はそう悟に尋ねた。悟は大きくかぶりを振った。

「いいよ。僕、この水で充分」

 悟は、遼一が追加を持ってこさせたペリエの瓶を振った。遼一はにやりと笑った。

「それ、コーヒーとほとんど同じ値段だぜ」 

 悟は「え」と驚いて瓶をしげしげ眺めた。遼一はそれを見てくすくすと笑った。

 世間知らずなところと素直なところが、可愛くてたまらなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

熱中症

こじらせた処女
BL
会社で熱中症になってしまった木野瀬 遼(きのせ りょう)(26)は、同居人で恋人でもある八瀬希一(やせ きいち)(29)に迎えに来てもらおうと電話するが…?

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

逃げるが勝ち

うりぼう
BL
美形強面×眼鏡地味 ひょんなことがきっかけで知り合った二人。 全力で追いかける強面春日と全力で逃げる地味眼鏡秋吉の攻防。

告白ゲーム

茉莉花 香乃
BL
自転車にまたがり校門を抜け帰路に着く。最初の交差点で止まった時、教室の自分の机にぶら下がる空の弁当箱のイメージが頭に浮かぶ。「やばい。明日、弁当作ってもらえない」自転車を反転して、もう一度教室をめざす。教室の中には五人の男子がいた。入り辛い。扉の前で中を窺っていると、何やら悪巧みをしているのを聞いてしまった 他サイトにも公開しています

母親の彼氏を寝取り続けるDCの話

ルシーアンナ
BL
母親と好みのタイプが似ているDCが、彼氏を寝取っていく話。 DC,DK,寝取り,未成年淫行,パパ活,メス堕ち,おねだり,雄膣姦,結腸姦,父子相姦,中出し,潮吹き,倫理観なし,♡喘ぎ濁音,喘ぎ淫語

食事届いたけど配達員のほうを食べました

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか? そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。

合鍵

茉莉花 香乃
BL
高校から好きだった太一に告白されて恋人になった。鍵も渡されたけれど、僕は見てしまった。太一の部屋から出て行く女の人を…… 他サイトにも公開しています

処理中です...