銀鎖

松本尚生

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め

4-11

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 最上階のひとつ下の階でエレベータを降りた。遼一は足音もしない絨毯敷きの廊下を進んだ。悟も黙って後を続く。

「え……?」

 悟は遼一の開けた部屋に入るなり、驚きに言葉を失った。

 遼一は立ち尽くす悟をよけて部屋に入り、バーカウンターに無言でもたれた。

 荷物はとくにないとポーターは断ったが、このあと客室係が予備の毛布を持ってくる。チェックインが混み合っていたので時間は読めない。

 悟が小さな声で訊いた。

「遼一さん、どうしたの、こんな部屋」

 遼一は手許で鍵をぶらぶらさせ、無言でそれを眺めていた。

「すぐそばに遼一さんのウチがあるのに、どうして……」

 遼一はなおも答えなかった。

 悟は諦めたのかそれ以上訊かず、重いかばんを手に提げたまま窓から街を見下ろした。大きくはない地方都市だが、明かりが灯るとそれなりに美しい。雑多な汚れが闇に沈む。

 優雅なチャイムが係の訪問を告げた。遼一は扉を開けに立った。部屋係は低めの声で挨拶し、予備の毛布と枕を置いていった。遼一がフロントで話した事情は抜かりなく伝わっているようだった。

「こうして見ると、それなりにキレイだな、この街も」

 遼一は悟の背後でそう言った。

「遼一さん……」

 悟は遼一を振り返った。遼一は真っ先に悟の瞳を確認した。大丈夫。生きている。

「……ひどい顔だな」

 呟くような遼一のひと言に、悟はまた拳で顔を隠した。

「可哀想に」

 遼一はゆっくりと腕を上げ、顔を隠す悟の拳をそっとつかんだ。

「遼一さん」

 悟の膝が崩れ、遼一の胸にふわりと倒れてきた。何日間かでさらに質感が軽くなった、細い身体。強がりでようやく立っていたのだろう。

 遼一は小鳥をその胸に取り戻した。

「悟……」

 この名を呼ぶのも何日ぶりか。

「何」

 遼一の胸に突っ伏したまま、くぐもった声で悟は答えた。遼一は胸の小鳥に小さく尋ねた。

「今でも俺を疑ってるか」

 悟は身体を硬くした。

「俺を信じられないか」

 悟は遼一の胸の中で身じろぎした。が、返事はない。

「俺さ……さすがにこの歳で、これまで何もなかったとは言わないよ。だけど、もう随分昔のことだし、いい思い出なんて何もない。もし生まれ変わったら、絶対別の人生を選ぶよ。そのくらい」

 遼一はそこで言葉を切った。そのくらい。

「……不幸な人生だった」

 認めてしまうのは初めてだった。初めて来し方を正当に評価できたのは……。

「今の俺がそう気づけたのは、俺が『幸せ』ってヤツを経験したからだ」

 そう、小鳥が身の周りを飛び交う幸せ。そのさえずりを楽しむ幸せ。小鳥はひとりの生きた人間で、遼一と愛を交歓できる。

「遼一さん……」

 悟がその腕を遼一の腰に回した。ギュッと自分の身体を遼一に押しつけてくる。

「解説が必要か?」

 遼一は悟の頭を撫でてそう訊いた。

「主語と目的語を明確にして、もっとかみ砕いて言わなきゃダメか?」

 ウケなかったギャグを解説させられるより、もっとキビシイけど、悟がどうしてもと言うのなら。

 悟はぶんぶんと首を振った。

「いい。もういいよ、遼一さん」

 僕が悪かった。ごめんなさい。悟はそう遼一に詫び、その胸に頬をすりつけた。

 窓の外はすっかり夜だった。高層階の周りにはほかに明かりもなく、車の騒音もない。森の中の洋館のように静かだ。

「俺ももうこんな歳だ。若い頃のようには回復しない。これ以上お前が俺を捨てようとするなら、俺はもう手を離すよ。次は、ない」

 限界だった。悟が納得するまで何度でもつき合えるとうぬぼれていたが、自分はそんなに強くなかった。遼一の小鳥が、遼一の許を飛び立ち、去ってしまう。それがあんなにもざっくりと、遼一の胸を深くえぐった。

「もう一度言うぞ。俺は悟、お前が好きだよ。愛してる。ほかの誰のことも心にはない。お前はどうだ?」

 俺のこと、好きか。そう問うた自分の声は震えていた。そのことに遼一は驚いた。そして小鳥が返事をするまで、判決を待つ囚人のように怖れている。

「僕は、これまでに何度も言ってるよ」

 そしてそんな遼一の気持ちを知ってか知らずか、悟は焦らすように結論を延ばす。

「知ってるでしょ、遼一さん。僕は……」

 こんなとき、悟はまさに小悪魔だ。

「遼一さんのこと…………ずっと好きだよ」

 初めて会ったときから、ずっと。

 耳を寄せても聞き取れないような小さな声で悟はそう呟いた。

 体温を感じて、耳許でささやきを交わして。そうしていると、めまいのような熱い想いが立ち昇る。脳髄が痺れるような狂おしさが。

 衝動に唇をむさぼり合って、離れたあと、遼一は優しく悟の背を押した。

「先にシャワー、浴びておいで」

 悟はパタンとバスルームの扉を閉めた。中では初めて見る豪華さに、この部屋に足を踏み入れたときと同じくらいには驚いているだろう。



 遼一が髪をざっと乾かして部屋に戻ると、悟の姿が見えなかった。ソファの足下にかばんが置かれてあるのをを横目で確認して、遼一は冷蔵庫を開けた。ペリエを取り出し、その半分をグラスに注いだ。

「悟ー、のど乾いてないか」

 遼一は声を張った。返事はなかった。

 中身を一気に飲み干して、遼一はバーカウンターに無造作にグラスを置いた。

「悟?」

 遼一は次の間と寝室をつなぐ扉を開けた。扉は完全には閉まっていなかった。指で軽く押すだけで、音もなく扉はスーと開いた。

「悟……疲れたか?」

 担任の大塚からもらった電話では、悟はかなり参っているようだった。遼一はクイーンサイズのベッドの縁に腰かけた。スプリングが心地よくその体重を受け止めた。

 シーツの隙間から悟の頭の先が見えていた。その髪を、遼一はそっと撫でた。悟はびくりと大きく震えた。震えながら遼一の手をつかんだ。

 細い指は意外な力で、遼一の身体を引き寄せた。その勢いで上掛がめくれ、桃色の肌が現れた。悟はその身に何もつけず、裸のまま大きなベッドで遼一を待っていた。震えながら、悟の手はもどかしげに遼一の肩からバスローブを払った。

 遼一は逆らわず、悟の身体の上に倒れ込んだ。悟の指が遼一の髪に絡む。悟の若い肌は、吐息は熱かった。その熱は遼一の欲望を煽った。

 優しくしてやりたい気持ちとめちゃくちゃにしてやりたい衝動が、同時に遼一の胸に燃えた。遼一は悟の桃色の裸身をくまなく指で、唇で、舌と歯で責めた。

 悟が快楽と苦痛に陶酔するさまは、遼一をさらに駆り立てた。執拗に加えられる感覚にこらえきれず悟は痙攣した。悲鳴にも似たあえぎが白い歯の隙間から何度も漏れた。

 この声。

 その身を反らして、膝を震わせ、遼一の与えた快楽にさらわれる幼い小鳥。

 悟は快楽の海に溺れて脱力した。

 そうさせた自分の効果に遼一は満足し、残しておいた悟のもうひとつの快楽に踏み込んだ。悟の放出した快楽を、大切にとっておいた楽園の扉に塗り込んだ。悟の咽からまた叫びがもれた。

 苦痛を訴えるようなその叫びが、その実遼一のさらなる侵食を誘っていることを遼一は知っていた。その証拠に、悟の腰が淫らにくねった。その太腿は遼一を拒みもせず、受け容れるように緩く開いた。

 遼一は悟の楽園の扉を、時間をかけてゆっくりと開いた。悟が大きく崩れるところをすでに遼一は知っていた。指で楽園を出たり入ったりしながら、遼一は注意深く悟の快楽を導いた。決定的なその場所を避け、ときにはわざとそこをかすめて、悟の身体中を欲望で満たす。

 もう一秒も待てないところまで悟を焦らして追い詰めた。焦らされきって、悟は泣いた。

「遼一さんお願い、もう……」

 遼一は悟の瞳にあふれる欲望の光をのぞきこんだ。それは嘘など入り込む余地のない、動物の純情だった。悟も自分の瞳にこれを見つけてくれればいいと遼一は思った。

 遼一は悟の腰に枕をあてがい、楽園の奥へ身体を深く沈み込ませた。

 九月に初めて抱いてから、こんなに長く触れずにいたことはなかった。獣のようにベッドの上を転がって、悟の楽園をより深くえぐった。いつもの煎餅布団の上と違い、わずかな動きが弾けて快楽を増幅した。

 理性は遙か後方へ吹き飛び、悟は泣き叫びながら遼一の腰を離さず、遼一は悟をより大きく叫ばせることしか考えられなかった。悟が泣けば泣くほど、その身体は遼一の器官をむさぼるように大きく震えた。

 遼一のコントロールを失った動きは悟を、そして遼一自身を昇りつめさせた。
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