銀鎖

松本尚生

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三、雨

3ー7

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 紅い夕陽が低く二階のこの部屋を照らしていた。

 悟は遼一の着ていたダークレッドのシャツをつかみ、素肌に羽織った。のろのろとけだるく立ち上がり、台所へ向かった。

 遼一は枕元に積んだ本から一冊手に取り、見るともなしにめくっていた。台所でピーと湯の沸く音がした。遼一は下だけ衣服をつけて台所へ歩いた。

 悟はコーヒーを落としていた。濃色のシャツ一枚を身につけて流しに立つ悟の肌は、薄暗がりに白くなまめかしかった。遼一は無言で悟をシャツごと背後から抱きしめた。

「んん……」

 悟は嬉しそうに咽を鳴らし、薬缶をゆっくりと傾けた。遼一は悟の首に顔をうずめ、悟の体躯に回した腕を下へ滑らせた。昨日と今日とで把握した悟の弱い部分を指でなぞると、悟は身をよじらせて声を上げた。

「あ……っ」

 遼一は悟の首筋に唇を這わせた。悟の膝が震えた。

「危ない!」

 そう小さく叫び、悟は遼一を振り払った。

「お湯使ってるんだから。火傷するでしょ」

 たしなめるような口調でそう言いながら、悟は遼一の身体を押しのけた。

 悟は自分の身体には大きい遼一のシャツを、ボタンを三ツだけ無造作に止めて着ていた。ダブついたシャツの裾から太腿がすらりと伸びる。その姿を無言で見つめている遼一に、その視線に、困ったように目を伏せて言った。

「ちょっとだけ、待っててよ。もうすぐコーヒー入るから」

 遼一は黙って冷蔵庫にもたれ、五〇cm離れた悟のうなじを眺めていた。悟はゆっくり二つのカップにコーヒーを注ぎ、ひとつを遼一に手渡した。遼一は礼を言って受け取った。好みの苦味だ。

「三年、早いんだよな」

 香りと苦味を味わって、遼一はおもむろに言った。

「え……。何のこと」

 悟は牛乳を取ろうと冷蔵庫の扉にかけた手を止め、かたわらの遼一を見上げた。

「悟が十八になるまで、あと三年だってこと」

 悟は冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出した。悟の頬がオレンジに光った。

「何それ」

 悟は自分のカップに砂糖と牛乳を投入し、ひと口飲んだ。遼一は牛乳を戻すのにもう一度冷蔵庫を開ける悟のために、身体を脇へどかせながら言った。

「歳が近ければいいんだろうけど、これだけ離れてるとな」

 手に手に湯気の出るカップを持って、ふたりは狭い台所で向かい合っていた。

 陽が落ちる。

「だから、何?」

 悟は流しにもたれ、カップを口に当てた。遼一は自分のカップに目を落とした。 

「青少年育成何とかさ。いけない大人が未成年に手を出したってことにされちまう」

「ひどいよそんなの」

 悟は勢いよくカップを流し台に置いた。

「三年なんて。僕それまでに死んじゃうよ」

 そう言いながら悟は遼一の肩に額をつけた。

「十八にならないと、好きなひとに愛してもらうこともできないなんて」

 カップを持ったまま遼一は動きを止めた。

 遼一は昨日今日と、自暴自棄になった悟の自傷願望につき合わされたのではないかという疑いを手放せずにいた。思春期まっただ中の若い魂が、自分のような薄汚れた暗いオッサンを本気で慕ってくれると、素直に信じることを自分に禁じていた。

 だが今悟は言ったのだ。「好きなひと」と。

 黙ったままの遼一の手からカップを取り上げ、悟はそれを手探りで流し台に置いた。

「遼一さん、ごめん。僕、余計なこと言った」

 悟はそう言って遼一の裸の胸に頬を寄せた。

「今のは嘘だから。気にしないで」

 悟は遼一の胸の上で「冗談だよ」と笑った。悟の肩が震えた。遼一は胸に温かいしずくを感じた。遼一は悟の頬を両手ではさみ、自分の胸から引き剥がした。

「悟……?」

 暗がりでも、悟が目を真っ赤にしているのは気配で分かった。

「悟」

 遼一は両手で悟の頬をはさんだまま、親指で悟の目許を拭った。遼一に繰り返し名を呼ばれ、悟は耐えられなくなったのか、遼一の手の中でふるふると首を振った。

「ごめんなさい。本当は嘘じゃない」

 悟はそう言ってひっくと咽を鳴らした。


 僕ね、ずっと遼一さんが好きだったよ。初めて会ったとき、川で僕を助けてくれたときから、ずっと。

 初めはね、これが「好き」って気持ちだとは分からなかった。でも、今は分かる。遼一さんが好き。そしてこの気持ちは、初めて会ったときに感じた気持ち。あのときからずっとそうだったんだ。

 だから、自分から距離を詰めた。もっとこのひとに近づきたい、もっとこのひとの側にいたい、そう思ったから。遼一さん、僕が近づくのを許してくれて、すごく嬉しかった。

 気づいてた? 遼一さん。僕があなたを好きだって、気づいてた?


(気づいてた?)

 遼一は数ヶ月を振り返った。

 気づいて、いた。

 確かに悟が自分に恋い焦がれていることを遼一は知っていた。

 気づかない振りをしていた。悟にも自分にも。

 十代は刻の経つのが早い。ほんの一瞬の気の迷いかもしれないではないか。うっかり本気にしてしまったら、季節が移り変わったその先、自分はどうすればいいのか。

 そして、気づいていない振りをしていたのは、もうひとつ。

「……気づいてたよ」

 遼一は悟の頬から手を離し、悟の華奢な肩に腕を回した。そうして悟の髪を撫でた。悟は夢見るように、淋しそうにこう続けた。

「本当? 恥ずかしいな。遼一さん、知ってて僕を受け止めてくれてたんだね」

 ありがとう。嬉しいよ。

 悟はそう言って遼一の胸に顔を埋めた。

「いいんだ。遼一さんが僕を好きじゃなくても。僕が遼一さんを好きだから、それでいいんだ」

 悟の咽から泣き声が漏れた。嬉しい。いいんだ。そう口では言いながら、自分の胸で泣きじゃくっているのではないか。

 素直に「自分を愛してくれ」と言えばいいのに。どうして言う前から諦めているのか。愛されないと決めてかかっているのか。

 どうして俺がお前を愛していないと――。

「悟……」

 遼一は泣きじゃくる悟の背を、でき得る限りの優しさを込めて撫でてやった。遼一の脱いだシャツを大事に羽織って着ている悟の背中を。

「俺のことで、悟の知らないことがひとつあるよ」

 泣き声の合間に「何?」と悟が小さく聞いた。遼一は悟の背を撫でる手を片時も止めずに言った。

「俺、気持ちがついてこない相手とは、こういうことをできない人間なんだ」

 本当だった。ひとづき合いが苦手とはこの方面も含んでいた。あちこちで随分変人扱いされたものだが、遼一にとって身体を開くことは心を開くことと同義であった。

 若い頃の失敗の痛手が大きすぎたのも暗い影を落としていた。心やすくひとと深い間柄になれなくなっていたのだ。 

「俺の言ってることが分かるか?」

「遼一さん……?」

 頬を濡らしたまま悟は遼一の胸から顔を上げた。

 泣き顔も愛おしい。可愛い子どもだ。

 この子供はこれまで全てを諦めることで、何とか生きてきたのだ。

 それは遼一の昔と同じ。あの家に生まれた子供たちはみな同じ――。だからその気持ちがよく分かる。あの喪失感、全てを予め奪われている感じ。だから、この子は、悟は、あそこから救い出してやりたい。

 欲しいものを手にすることが叶う。そんな希望を信じられるようにしてやりたかった。

 今、自分がそれを言葉にしてやる。遼一が、自分自身にも気づかないふりをして目をそらしていたそれを、今。

「悟、俺もお前が好きだ」

 お前を愛しているよ。俺の心は、もう全部お前のものだ。

「遼一さん……」

 もう。

 離れられない。
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