銀鎖

松本尚生

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三、雨

3ー6

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 夜具を延べ、遼一は資料をパラパラとめくっていた。シャワーの音が聞こえていた。安普請のアパートだ。ユニットバスも防音効果はない。

「後悔するな」と言ってはみたものの。

 寝そべってページをめくっても、頭には何も入ってこなかった。読まなくていいように、遼一はわざと興味のない契約条項の資料を選んで寝床に持ち込んでいた。そうは言ったが、自分は役に立つだろうか。もしことの途中で悟の気が変わったら……。

 湯音が止まった。

 湯上がりの桃色の肌をして、悟が現れた。

 悟は泣きそうな顔をして、身体に巻き付けたバスタオルを握りしめて部屋の手前で立ち止まった。充分に温まったはずなのに震えていた。石けんの軽い香りの奥に、熱した肌の匂いがした。

「おいで」

 遼一は真っ赤になって震えている悟を優しく呼んだ。悟は小さくうなずいて、ふとんの隅に膝をついた。バスタオルからほっそりした太腿がのぞいた。遼一はバスタオルを握りしめる悟の指に口づけた。悟の手から力が抜けた。バスタオルは胸から落ちて、悟の膝の上にわだかまった。

「俺も男だから。途中では止まらないぞ」 

 止めるなら今だ。遼一は悟の瞳をのぞき込んだ。悟は逃げずに遼一の視線を受け止めた。

 唇が触れ合った。遼一はそっと悟の背中に腕を回した。背骨のラインを指でなぞる。唇を塞がれたまま悟の咽はくぐもった声を漏らした。悟の身体が反り返る。

 背骨の上を何往復かされて、悟の太腿が、腰が痙攣した。悟の背の窪みを堪能した遼一は、悟の上体に重心をかけた。悟の身体はふわりと崩れるように夜具の上に倒れ込んだ。

 上気した悟の肌は熱く、遼一の指に、唇に、こらえきれず反応する自分を恥ずかしがって震え続けた。噛みしめた唇の奥から漏れ出る声は、遼一の欲望を駆り立てるのに充分だった。

 結果として、遼一の心配は杞憂に終わった。  



「遅くなったな。送っていくよ」

「……うん」

 秋の日はとっぷりと暮れ、夜になっていた。悟は遼一に背を向けゆっくりと身体を起こした。背から腰への白い線がぼんやりと浮かび上がった。

 遼一は濡れた悟の衣服の代わりに、自分のを貸してやった。ズボンの裾を数回折り、ベルトは穴を無視して腰で結わえて止めてやった。

 いつものコンビニの角に車を停めた。悟は俯いて呟いた。

「帰りたくないな……」

 少しかすれたその声を、遼一ももう少し聞いていたかった。

「……ああ。そうだな」

 遼一はハンドルに手を乗せたまま答えた。

 悟はそのまま数分じっと座っていた。遼一もとくに急かさなかった。

 コンビニから賑やかな集団が出てきた。高校生くらいの男子が数人、じゃれ合いながら何か叫び、自転車に乗って左右に散った。悟はゆるゆるとドアを開けた。

「ありがとう」

 送ってもらったことに悟は礼を言った。いつものように。

「ああ」

 遼一の目の前を、ゆっくり悟は横切っていき、細い道を遠ざかった。

 遼一は頭の後ろで手を組み車の天井を見つめていた。




 翌日は打って変わって爽やかな秋晴れだった。

 遼一は中学校の前に車を停めていた。

 昨日の今日で、遼一は行くのをよそうと思っていた。

 自宅で仕事をしていた午後は、数分おきに時計を見た。悟の課業の終わる時間が近づき、遼一は観念した。とても落ち着いて座っていられなかった。手につかないなら、仕事を放って出かけても同じことだった。

 悟が校門から出てきた。深く俯いている割に、見逃すことなく遼一の車を見つけてやってきた。腕を伸ばして遼一は助手席のドアを開けてやった。悟は微かに頭を下げて、するりと車に乗り込んだ。遼一は車を出した。

 秋の陽はこの時間でもそう高くない。通り過ぎる覇気のない建物のすきまを、陽の光は出たり入ったりして街を照らす。悟の頬のうぶ毛が山吹色に照らされて眩しい。

 悟はかばんのひもを握って小さく言った。

「遼一さん……僕にキスして」

 遼一は昨日の雨でできた大きな水溜まりを慎重に避け、歩行者に気を配ってハンドルを切った。

「ここでか?」

 ひもを握る悟の指が白くなった。次の交差点の信号が変わった。遼一は車を減速させた。悟はいたたまれなくなったのか、肩にかばんをかけた。

「ごめん。帰る」

 車が停まった。悟は把手に手をかけたが、一瞬早く遼一がドアをロックしていた。悟は数回ガチャガチャやったが、ドアは開かない。悟は遼一を振り返った。何か言いかけた悟の唇に、遼一は自分の唇を押し当てた。

 信号が青になり、遼一は再び車を発進させた。

「蟹みたい」

 遼一は笑いを含んだ声でそう言った。

「え?」

 悟は遼一を見上げた。

「茹でると真っ赤になる」

 遼一がそう言うと、悟は拳で顔を隠した。

 口ではそう言ったが、遼一は内心、真っ赤になった悟のことを蟹のようだとは思っていない。

 可憐な薔薇の花が咲いたようだ。

 車内の温度が上がった。

 悟の唇からチラリと白い歯がのぞき、何かをこらえるように拳を噛んだ。



 遼一は部屋の鍵を開け、悟が靴脱ぎに入るまでドアを支えてやった。遼一が手を離すと同時に、悟はするりと遼一の懐に飛び込んできた。

 遼一は待つように開いた悟の唇を吸った。悟はおずおずと遼一の背中に腕を回し、自分の身体を遼一の胸に押し当てた。

 遼一が唇を離すと悟は呟いた。

「シャワー貸して」

「ああ」

 風呂場の前の床に悟はかばんを下ろした。固い布のすれる音をさせて悟は制服を脱ぎ、かばんの上に落として風呂場へ消えた。ザーザーとシャワーの音がした。

 遼一は悟が脱ぎ捨てていった学生服とズボンをハンガーに吊した。
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