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三、雨
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一面の花畑。
黄色やら赤やら紫やら。鮮やかな色とりどりのパッチワーク。
遼一は悟を乗せて、写真で有名な観光農園にやってきていた。確かにこれはわざわざ眺めに来るだけの価値がある。
「本当に山の斜面ごと花が植わってるんだな。写真家の腕がいいのかと思ってたよ」
遼一は呆れて言った。広すぎる。
遼一が漏らした言葉に悟は笑った。
「遼一さん、これを『山』とは言わないよ」
山とは、あの向こうの青い稜線を指すそうだ。
「じゃあこれは何と言うんだ」
「『丘』でしょ」
悟はそう言ってすましていた。
夏休み期間とはいえ平日はどこもひとが少なかった。道も気分よく空いていた。
山間の空気は花の香りが混じって清涼だった。夏なのに気温が高すぎないのが心地よい。湿度もなく爽やかだ。
「そろそろ行こうか。メシの時間だ」
「うん」
遼一が声をかけると、悟は素直についてきた。ふたりは遼一のセダンに乗り込んだ。
悟はいたずらにラジオのスイッチを入れた。流れ出した曲に悟は首をひねった。
「この曲、聞いたことがある。すごく有名な曲だよね」
「ツィゴイネルワイゼン」
遼一は即答した。
悟はホーッと遼一を見上げた。
「すごいね。すぐ曲名が出てくるんだね」
カーブに差しかかり、遼一はゆったりとハンドルを切った。
「昔、かえるがぴょんぴょん飛び跳ねてるような曲だなと思った」
「かえるーっ!?」
悟はコロコロと笑った。
「どうして? とてもそんな風には聴こえないよぉ」
そうして笑っていると、悟は年相応に明るい。連れ出してよかったと遼一は思った。
昼食はもう少し走った先のレストランを予約しておいた。評判のよさそうな店だった。中学生を連れてくるならもう少しくだけた店の方が気楽かとも思ったが、悟は育ちがいいようだ。多分気後れすることもないだろう。
「着いたな。ここだ」
山の中のオーベルジュが、夏休み期間の今だけランチ営業もしている。年の半分は雪に閉ざされクローズするしかないのだ。残り半年で一年分稼いでおくのだろう。
奥まった庭園のよく見える席に着くと、開かれたフランス窓から、緑の風がホールを吹き抜けた。別荘として建てられた古い家を改装して使っているらしい。遼一は悟にはグレープフルーツジュースを、自分にはノンアルコールのビールを注文した。
遼一は普段あまり酒は飲まないが、せっかくうまいメシを食うときくらい飲みたいものだ。夕食に来たならワインの一本も飲んで、そのまま寝てしまえばいいのだが。食堂として解放している広間がこんなに快適なら、客間も悪くなさそうだ。
「今日は何と言って家を出てきた?」
出てきた飲みもので乾杯の真似をして、乾いた咽をうるおしてから遼一は尋ねた。
「別になにも」
悟は冷たいジュースをおいしそうに飲んでそう答えた。
「『なにも』って……」
悟は面倒くさそうに、いつものようにお手伝いさんに昼食をキャンセルしてきたと言った。
「親御さんには? お母さん、家にいたんだろ?」
取るべき手続きを省略すると、何かあったときに厄介だ。とくに今日のドライブは、保護者の了解なく未成年を連れ回したとされる危険がある。
「頼むよ悟クン。俺を犯罪者にしないでくれよ」
悟はストローでグラスの氷をつついて、何の感情もなく言った。
「あのひとは僕に何の興味もないから」
言うだけ無駄ですよ。
ふわりと高原の風が吹き、悟の前髪をさらさらと揺らした。
親の話題が出ると、悟はいつも無表情になる。黒い瞳がガラス玉のように生命を失う。
春にふたりで悪ガキどもと直接対峙し、いじめを止めさせてから、悟は表情豊かになった。だが、親の話が出ると途端にこうだ。母も父も、ロクに息子の面倒を看ていないのは確からしいが、実際のところはどうなのだろう。
遼一は慎重に、ただの反抗期の可能性を保持していた。
カレイのブールブランソース、牛ほほ肉の赤ワイン煮。料理はどれも定番の献立を丁寧に仕上げてあった。誠実な仕事だ。悟は自分で銀器を正しく使い美しく食べた。よくしつけられている。親に放置された子供の所作ではなかった。
一学期で上がった英語の成績、この間読んだ本、先日遼一のアパートからの帰り道うっかり虫に刺されて腫れ上がったすねの話。親の話でさえなければ、悟は楽しそうによく話した。
デザートが運ばれてきて、ふたり別々のものを選んでいたが、遼一は自分の皿も悟にやった。その積もりで、悟が迷って選ばなかった方を注文したのだ。
悟は目を輝かせて「いいの?」と聞いた。遼一は笑ってうなずいた。
悟は甘いものを好む。悟が上品にタルトに飾られた洋酒漬けのさくらんぼを口へ運んだとき、小さな舌がちらりと見えた。
「遼一さん? どうかした?」
悟にのぞき込まれて、遼一は慌ててコーヒーのカップを置いた。マナー違反にもテーブルに肘をつき、笑って答えた。
「どうもしないよ。おいしそうに食べるなと思って」
悟はちょっと赤くなって、下を向いた。
街に戻ると、いい塩梅に夕暮れどきだった。
遼一はいつもの角で車を停めた。
「悟、どうして早い時間に来ない?」
夏休みに入っても、悟は律儀に学校が終わる頃に現れた。だから遼一は今日の遠出を、あえて平日の昼に誘ってみたのだった。
「……だって遼一さん、昼間は仕事あるじゃない」
「やっぱり、気を遣ってたんだな」
遼一の仕事は請負だ。時間から時間で拘束される性質のものではない。そもそも曜日も関係ない。それに。
「悟がいたって、どうせ俺は放ったらかしで仕事してるだろ。飽きたら構うし。余計な気を遣うなよ」
いじめの問題が片付いたら、次は家庭の問題だろうか。日中、悟は自宅でどんな顔をして過ごしているのだろう。死んだような目をしてひとり座っている悟が目に浮かぶ。
「……邪魔じゃない?」
おずおずと悟は遼一に尋ねた。
「邪魔じゃないよ」
悟の表情がパッと明るくなった。
「じゃあ宿題全部持っていく」と言って、悟は弾むように車を降りた。
黄色やら赤やら紫やら。鮮やかな色とりどりのパッチワーク。
遼一は悟を乗せて、写真で有名な観光農園にやってきていた。確かにこれはわざわざ眺めに来るだけの価値がある。
「本当に山の斜面ごと花が植わってるんだな。写真家の腕がいいのかと思ってたよ」
遼一は呆れて言った。広すぎる。
遼一が漏らした言葉に悟は笑った。
「遼一さん、これを『山』とは言わないよ」
山とは、あの向こうの青い稜線を指すそうだ。
「じゃあこれは何と言うんだ」
「『丘』でしょ」
悟はそう言ってすましていた。
夏休み期間とはいえ平日はどこもひとが少なかった。道も気分よく空いていた。
山間の空気は花の香りが混じって清涼だった。夏なのに気温が高すぎないのが心地よい。湿度もなく爽やかだ。
「そろそろ行こうか。メシの時間だ」
「うん」
遼一が声をかけると、悟は素直についてきた。ふたりは遼一のセダンに乗り込んだ。
悟はいたずらにラジオのスイッチを入れた。流れ出した曲に悟は首をひねった。
「この曲、聞いたことがある。すごく有名な曲だよね」
「ツィゴイネルワイゼン」
遼一は即答した。
悟はホーッと遼一を見上げた。
「すごいね。すぐ曲名が出てくるんだね」
カーブに差しかかり、遼一はゆったりとハンドルを切った。
「昔、かえるがぴょんぴょん飛び跳ねてるような曲だなと思った」
「かえるーっ!?」
悟はコロコロと笑った。
「どうして? とてもそんな風には聴こえないよぉ」
そうして笑っていると、悟は年相応に明るい。連れ出してよかったと遼一は思った。
昼食はもう少し走った先のレストランを予約しておいた。評判のよさそうな店だった。中学生を連れてくるならもう少しくだけた店の方が気楽かとも思ったが、悟は育ちがいいようだ。多分気後れすることもないだろう。
「着いたな。ここだ」
山の中のオーベルジュが、夏休み期間の今だけランチ営業もしている。年の半分は雪に閉ざされクローズするしかないのだ。残り半年で一年分稼いでおくのだろう。
奥まった庭園のよく見える席に着くと、開かれたフランス窓から、緑の風がホールを吹き抜けた。別荘として建てられた古い家を改装して使っているらしい。遼一は悟にはグレープフルーツジュースを、自分にはノンアルコールのビールを注文した。
遼一は普段あまり酒は飲まないが、せっかくうまいメシを食うときくらい飲みたいものだ。夕食に来たならワインの一本も飲んで、そのまま寝てしまえばいいのだが。食堂として解放している広間がこんなに快適なら、客間も悪くなさそうだ。
「今日は何と言って家を出てきた?」
出てきた飲みもので乾杯の真似をして、乾いた咽をうるおしてから遼一は尋ねた。
「別になにも」
悟は冷たいジュースをおいしそうに飲んでそう答えた。
「『なにも』って……」
悟は面倒くさそうに、いつものようにお手伝いさんに昼食をキャンセルしてきたと言った。
「親御さんには? お母さん、家にいたんだろ?」
取るべき手続きを省略すると、何かあったときに厄介だ。とくに今日のドライブは、保護者の了解なく未成年を連れ回したとされる危険がある。
「頼むよ悟クン。俺を犯罪者にしないでくれよ」
悟はストローでグラスの氷をつついて、何の感情もなく言った。
「あのひとは僕に何の興味もないから」
言うだけ無駄ですよ。
ふわりと高原の風が吹き、悟の前髪をさらさらと揺らした。
親の話題が出ると、悟はいつも無表情になる。黒い瞳がガラス玉のように生命を失う。
春にふたりで悪ガキどもと直接対峙し、いじめを止めさせてから、悟は表情豊かになった。だが、親の話が出ると途端にこうだ。母も父も、ロクに息子の面倒を看ていないのは確からしいが、実際のところはどうなのだろう。
遼一は慎重に、ただの反抗期の可能性を保持していた。
カレイのブールブランソース、牛ほほ肉の赤ワイン煮。料理はどれも定番の献立を丁寧に仕上げてあった。誠実な仕事だ。悟は自分で銀器を正しく使い美しく食べた。よくしつけられている。親に放置された子供の所作ではなかった。
一学期で上がった英語の成績、この間読んだ本、先日遼一のアパートからの帰り道うっかり虫に刺されて腫れ上がったすねの話。親の話でさえなければ、悟は楽しそうによく話した。
デザートが運ばれてきて、ふたり別々のものを選んでいたが、遼一は自分の皿も悟にやった。その積もりで、悟が迷って選ばなかった方を注文したのだ。
悟は目を輝かせて「いいの?」と聞いた。遼一は笑ってうなずいた。
悟は甘いものを好む。悟が上品にタルトに飾られた洋酒漬けのさくらんぼを口へ運んだとき、小さな舌がちらりと見えた。
「遼一さん? どうかした?」
悟にのぞき込まれて、遼一は慌ててコーヒーのカップを置いた。マナー違反にもテーブルに肘をつき、笑って答えた。
「どうもしないよ。おいしそうに食べるなと思って」
悟はちょっと赤くなって、下を向いた。
街に戻ると、いい塩梅に夕暮れどきだった。
遼一はいつもの角で車を停めた。
「悟、どうして早い時間に来ない?」
夏休みに入っても、悟は律儀に学校が終わる頃に現れた。だから遼一は今日の遠出を、あえて平日の昼に誘ってみたのだった。
「……だって遼一さん、昼間は仕事あるじゃない」
「やっぱり、気を遣ってたんだな」
遼一の仕事は請負だ。時間から時間で拘束される性質のものではない。そもそも曜日も関係ない。それに。
「悟がいたって、どうせ俺は放ったらかしで仕事してるだろ。飽きたら構うし。余計な気を遣うなよ」
いじめの問題が片付いたら、次は家庭の問題だろうか。日中、悟は自宅でどんな顔をして過ごしているのだろう。死んだような目をしてひとり座っている悟が目に浮かぶ。
「……邪魔じゃない?」
おずおずと悟は遼一に尋ねた。
「邪魔じゃないよ」
悟の表情がパッと明るくなった。
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