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二、秋の終わり、そして、冬
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少し気まずい食事のあと、遼一はいつものように自分の部屋で勉強した。
食堂での微妙な空気に緊張したのか、肩が凝っていた。少し身体を動かしたくなった。
遼一は静かに外へ出て、身体をほぐしがてら敷地内を歩いた。
蛍のような明かりが目の前を行き過ぎた。蛍が通ったあとには花の香りがして、数秒経つと奥の作業場の明かりがついた。
のぞいてみると、純香がいた。今作業場を使っているのは純香なのだ。
作業台の奥の隅に置かれたソファの上で、ブランケットにくるまってぽつんと膝を抱えていた。
遼一は作業場の窓をコツンと叩いてみた。純香は顔を上げた。嫌がる風もなかったので、遼一は作業場の扉を開けた。
「びっくりしたよ。冬の蛍かと思った」
遼一は作業台の間を純香の座る奥のソファまで歩いていった。
「ああ、これ?」
純香は懐中電灯を持ち上げてみせた。古いカンテラを模した渋い代物だった。
「カッコイイね」
「そう?」
純香は耳からイヤホンを外した。
「遼一くん、コーヒー飲む?」
「コーヒー?」
「そう。ポットに淹れてもらったの。その辺に予備のカップがあると思う」
純香が指さした業務用のキャビネットを開けると、古そうな来客用のお茶道具が仕舞われていた。
遼一はカップをひとつ手に取った。隅の流しには水が来ており、遼一はそこでカップの表面を軽く水で流した。
「水も電気も来てるんだね」
純香のいるソファへ戻ると、純香はポットを差し出した。遼一が手にしたカップにコーヒーを注ぎながら、純香は答えた。
「灯油もね。住めるわよ」
ソファの横では煙突のついた灯油ストーブがオレンジ色の炎を揺らめかせていた。
湯気の出るカップを手に、遼一は純香と並んでソファにかけた。
「ここにはよくいるの?」
「たまにね」
「冬、寒くない?」
今はまだ序の口だが、本格的な冬、この地は零下二十度にもなる。
「寒いわよ。そして夏はこの窓からの西日が強烈」
純香はソファの後ろの窓を振り返った。
「何でそんな居心地悪いところにいるの」
遼一はちょっと笑った。つられたのか、純香もほんの少し口の端を上げた。
床も作業台も窓枠も木製で、確かに温度調節は難しかろう。母屋の純香の部屋の方がずっと居心地よいに違いない。離れの遼一の居室が、陽当たりがよくシャワー・トイレ完備なのだから、推して知るべしだ。
ならなぜ純香はわざわざ母屋を出て、こんなところで音楽を聴いたりしているのだろうか。秘密基地?
「何、聞いてたの?」
遼一はイヤホンの先のiPodを指さした。純香は仏頂面で、
「メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64』」
と答えた。そして、演奏は別のバージョンだけどとつけ加えた。
遼一は嬉しくなって下を向いた。
「気に入った?」
公園でバッタリ会った日に、純香にプレゼントした楽曲だ。純香はムスッとしたまま答えた。
「そうね、『自分は地球にたったひとりで、行くあてもなくて、何だかなあ』って気分のときには、もっと明るい曲を選ぶわ」
遼一は笑った。笑いながらこう言った。
「そうだね、ちょっと暗いよね。でも、ホントに沈んでるときって、モーツァルトみたいな軽薄な曲だとギャップが大きくて、余計落ち込むと思うんだよなあ」
純香はカップに口をつけながら、「それはそうかもしれないわね」と呟いた。
風が吹きストーブの炎が大きく揺らめいた。窓枠がカタカタ鳴った。冬の嵐が来ている。
「純香さん、ここが好きなの? 何か思い出とかあるの?」
寒いし、窓はガタピシ言うし、心細くはないのだろうか。だがそうしたマイナス要因を上回る何かがあるのなら。
遼一は控えめに尋ねた積もりだった。自分がこの屋敷の人間になったと思い上がってはいないが、見たことのない家族の記憶に憧れを感じたのも確かだった。
遼一は答えを待ったが、いつまで経っても純香は無表情のまま返事をしなかった。
遼一は思い出した。
自分たちが歓迎されていないことを。
自分は純香には憎まれているのだった。
初めてここへ来た夜に母屋で遼一をにらんでいた純香の瞳。あの瞳を忘れていた。気まぐれに一度純香が笑顔を見せたからといって、すべて許された訳ではない。
遼一は自分の厚顔を恥じた。
「ごめんなさい、お邪魔でしたよね。失礼します」
遼一はカップを手に慌てて立ち上がった。流しの水でカップをすすいでいると、奥のソファから純香が何か言ったのが聞こえた。
遼一は手を止め聞き返した。
「はい?」
「あたしね」
あたし、今度ケッコンすんの。
その声は平坦で何の感情もなかった。
遼一はガチャリとカップを台に置いた。
「へえ……、……おめでとうございます」
遼一の胸のどこかがチクリと痛んだ。
「おめでたくなんかないわ、別に好きなひとでもないし」
感情のこもらない純香の声は、遼一を苛立たせた。
「どうしてですか? 好きでもないひとと、どうして結婚したりなんかするんですか!」
そんな無感動な結婚が自分たちのような子供を作るんじゃないのか。
遼一は唇をかんだ。
純香は身体をゆうらりと傾けた。黒髪がさらりと揺れた。どこを見ているか分からないガラス玉のような瞳のまま、ゆっくりと純香は口を開いた。
オヤジがさ、どうやらあんまりよくないらしい。
会社も、あんたやあんたの母さんは知らないかもしれないけど、外から見えるほど安泰じゃなくてね。この状態でオヤジに何かあったら、あたしたちどころか、従業員みんな路頭に迷うわ。
あんたを跡継ぎにってのもあるけど、さすがにまだ高校生だし、間に合わなかったら元も子もない。
社長候補の筆頭らしいわ。知らない、興味ないし。
そいつも気の毒よ。婚姻関係を盾にババ引かされて、逃げ道を塞がれるんだから。
あたしにしたって、うっかり会社が潰れちゃって、オヤジの負債を引き継がされること考えたら、安いもんよ結婚くらい。
「純香さん……」
遼一は言葉を失った。
そこからどうやって帰ってきたか分からない。
いたたまれなくなって、辞去する言葉もそこそこに、逃げるように離れの自室へ逃げ帰ってきたのだと思う。
純香は大人だった。
たった二つしか違わないのに、遼一よりもずっとずっと大人で。
あの細い華奢な身体で、たくさんのものを背負わされ、その重みに耐えていた。
遼一は思った。
あの無表情の黒い瞳は、どれだけ多くの感情を呑み込んできたのだろうと。
呑み込みすぎ、背負いすぎたものたちの重力はブラックホールになり、あらゆる感情は外へ出られなくなっているのか。
脱出することしか考えなかった自分は幼かった。だが遼一は母に、家に、血に巻き取られ絡め取られて生きることはできない。
母との暮らしは表面は穏やかで幸せな家庭を装っていたが、内実は陰鬱で不幸の匂いが濃く立ちこめていた。
常に虚実が入り交じり、二重の意味に挟まれて圧し潰されそうな混乱。幼い自分にその混乱を強いた環境から脱出することだけが希望だった。
何も知らず、無邪気にも純香に「なぜ」と聞いた、愚かな闖入者。
純香は自分を許さないだろう。
夢の中で、純香の冷たい瞳は無言で遼一を非難していた。いつまでも、ガラス玉のような虚ろな瞳で。
食堂での微妙な空気に緊張したのか、肩が凝っていた。少し身体を動かしたくなった。
遼一は静かに外へ出て、身体をほぐしがてら敷地内を歩いた。
蛍のような明かりが目の前を行き過ぎた。蛍が通ったあとには花の香りがして、数秒経つと奥の作業場の明かりがついた。
のぞいてみると、純香がいた。今作業場を使っているのは純香なのだ。
作業台の奥の隅に置かれたソファの上で、ブランケットにくるまってぽつんと膝を抱えていた。
遼一は作業場の窓をコツンと叩いてみた。純香は顔を上げた。嫌がる風もなかったので、遼一は作業場の扉を開けた。
「びっくりしたよ。冬の蛍かと思った」
遼一は作業台の間を純香の座る奥のソファまで歩いていった。
「ああ、これ?」
純香は懐中電灯を持ち上げてみせた。古いカンテラを模した渋い代物だった。
「カッコイイね」
「そう?」
純香は耳からイヤホンを外した。
「遼一くん、コーヒー飲む?」
「コーヒー?」
「そう。ポットに淹れてもらったの。その辺に予備のカップがあると思う」
純香が指さした業務用のキャビネットを開けると、古そうな来客用のお茶道具が仕舞われていた。
遼一はカップをひとつ手に取った。隅の流しには水が来ており、遼一はそこでカップの表面を軽く水で流した。
「水も電気も来てるんだね」
純香のいるソファへ戻ると、純香はポットを差し出した。遼一が手にしたカップにコーヒーを注ぎながら、純香は答えた。
「灯油もね。住めるわよ」
ソファの横では煙突のついた灯油ストーブがオレンジ色の炎を揺らめかせていた。
湯気の出るカップを手に、遼一は純香と並んでソファにかけた。
「ここにはよくいるの?」
「たまにね」
「冬、寒くない?」
今はまだ序の口だが、本格的な冬、この地は零下二十度にもなる。
「寒いわよ。そして夏はこの窓からの西日が強烈」
純香はソファの後ろの窓を振り返った。
「何でそんな居心地悪いところにいるの」
遼一はちょっと笑った。つられたのか、純香もほんの少し口の端を上げた。
床も作業台も窓枠も木製で、確かに温度調節は難しかろう。母屋の純香の部屋の方がずっと居心地よいに違いない。離れの遼一の居室が、陽当たりがよくシャワー・トイレ完備なのだから、推して知るべしだ。
ならなぜ純香はわざわざ母屋を出て、こんなところで音楽を聴いたりしているのだろうか。秘密基地?
「何、聞いてたの?」
遼一はイヤホンの先のiPodを指さした。純香は仏頂面で、
「メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64』」
と答えた。そして、演奏は別のバージョンだけどとつけ加えた。
遼一は嬉しくなって下を向いた。
「気に入った?」
公園でバッタリ会った日に、純香にプレゼントした楽曲だ。純香はムスッとしたまま答えた。
「そうね、『自分は地球にたったひとりで、行くあてもなくて、何だかなあ』って気分のときには、もっと明るい曲を選ぶわ」
遼一は笑った。笑いながらこう言った。
「そうだね、ちょっと暗いよね。でも、ホントに沈んでるときって、モーツァルトみたいな軽薄な曲だとギャップが大きくて、余計落ち込むと思うんだよなあ」
純香はカップに口をつけながら、「それはそうかもしれないわね」と呟いた。
風が吹きストーブの炎が大きく揺らめいた。窓枠がカタカタ鳴った。冬の嵐が来ている。
「純香さん、ここが好きなの? 何か思い出とかあるの?」
寒いし、窓はガタピシ言うし、心細くはないのだろうか。だがそうしたマイナス要因を上回る何かがあるのなら。
遼一は控えめに尋ねた積もりだった。自分がこの屋敷の人間になったと思い上がってはいないが、見たことのない家族の記憶に憧れを感じたのも確かだった。
遼一は答えを待ったが、いつまで経っても純香は無表情のまま返事をしなかった。
遼一は思い出した。
自分たちが歓迎されていないことを。
自分は純香には憎まれているのだった。
初めてここへ来た夜に母屋で遼一をにらんでいた純香の瞳。あの瞳を忘れていた。気まぐれに一度純香が笑顔を見せたからといって、すべて許された訳ではない。
遼一は自分の厚顔を恥じた。
「ごめんなさい、お邪魔でしたよね。失礼します」
遼一はカップを手に慌てて立ち上がった。流しの水でカップをすすいでいると、奥のソファから純香が何か言ったのが聞こえた。
遼一は手を止め聞き返した。
「はい?」
「あたしね」
あたし、今度ケッコンすんの。
その声は平坦で何の感情もなかった。
遼一はガチャリとカップを台に置いた。
「へえ……、……おめでとうございます」
遼一の胸のどこかがチクリと痛んだ。
「おめでたくなんかないわ、別に好きなひとでもないし」
感情のこもらない純香の声は、遼一を苛立たせた。
「どうしてですか? 好きでもないひとと、どうして結婚したりなんかするんですか!」
そんな無感動な結婚が自分たちのような子供を作るんじゃないのか。
遼一は唇をかんだ。
純香は身体をゆうらりと傾けた。黒髪がさらりと揺れた。どこを見ているか分からないガラス玉のような瞳のまま、ゆっくりと純香は口を開いた。
オヤジがさ、どうやらあんまりよくないらしい。
会社も、あんたやあんたの母さんは知らないかもしれないけど、外から見えるほど安泰じゃなくてね。この状態でオヤジに何かあったら、あたしたちどころか、従業員みんな路頭に迷うわ。
あんたを跡継ぎにってのもあるけど、さすがにまだ高校生だし、間に合わなかったら元も子もない。
社長候補の筆頭らしいわ。知らない、興味ないし。
そいつも気の毒よ。婚姻関係を盾にババ引かされて、逃げ道を塞がれるんだから。
あたしにしたって、うっかり会社が潰れちゃって、オヤジの負債を引き継がされること考えたら、安いもんよ結婚くらい。
「純香さん……」
遼一は言葉を失った。
そこからどうやって帰ってきたか分からない。
いたたまれなくなって、辞去する言葉もそこそこに、逃げるように離れの自室へ逃げ帰ってきたのだと思う。
純香は大人だった。
たった二つしか違わないのに、遼一よりもずっとずっと大人で。
あの細い華奢な身体で、たくさんのものを背負わされ、その重みに耐えていた。
遼一は思った。
あの無表情の黒い瞳は、どれだけ多くの感情を呑み込んできたのだろうと。
呑み込みすぎ、背負いすぎたものたちの重力はブラックホールになり、あらゆる感情は外へ出られなくなっているのか。
脱出することしか考えなかった自分は幼かった。だが遼一は母に、家に、血に巻き取られ絡め取られて生きることはできない。
母との暮らしは表面は穏やかで幸せな家庭を装っていたが、内実は陰鬱で不幸の匂いが濃く立ちこめていた。
常に虚実が入り交じり、二重の意味に挟まれて圧し潰されそうな混乱。幼い自分にその混乱を強いた環境から脱出することだけが希望だった。
何も知らず、無邪気にも純香に「なぜ」と聞いた、愚かな闖入者。
純香は自分を許さないだろう。
夢の中で、純香の冷たい瞳は無言で遼一を非難していた。いつまでも、ガラス玉のような虚ろな瞳で。
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