銀鎖

松本尚生

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二、秋の終わり、そして、冬

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 遼一は腹が減っていた。

 母屋の脇、離れの玄関へ向け、引越トラックが大きな口を開いていた。

 荷物を運び込む運送業者に、甲高い声で何ごとか言いつけている母の声がした。

 面倒くさい。どこに何を置いたって、大して変わりはないものを。

 母は一事が万事その調子で、すべてを自分の好きなように采配しなければ気が済まない女だった。その彼女の生活の中心には、これまで長らく、自分の思うとおりにできなかったたったひとつの大きなことが存在していた。

 それが晴れてこのたび、成就したのだ。

 有頂天になるのもやむを得ない。

 十七にもなる遼一はそれを理解してやっていた。だが、理解してやれることと、疳に障るのをガマンできるのとは、全く別のことだ。

 遼一は母の声の聞こえないところまで歩こうと思った。母がギャンギャン言っている離れからさらに敷地を奥へ進むと、そこは林のようになっていた。黄色い銀杏の葉が上からザンザカ振ってきた。銀杏の葉はべっこうの櫛によく似ている。

 どこかへ行ってしまいたい。引越荷物なんて、いつだって片付けられる。全てを放り出してしまいたかった。母はともかく、自分は引越なんてしたくなかった。狭くはあっても、住み慣れた我が家だったのだ。

 まあ、いずれにしても、再来年は受験をする。進学して、この街を出ていく。あとたった一年半の辛抱だ。

 それにしても腹が減った。遼一はポケットの財布を開いた。外食できるほどの手持ちはなかった。遼一はため息をついた。金がないと、自由もない。

 これからは、多少の自由が手に入るだろうか。

 小遣いの額は増えるだろうか。母のための成績表として存在する息子から、母の関心は幾分それるだろうか。

 あまり期待しない方がいいだろう。遼一は諦め慣れていた。あらゆるものを。

 林の中には、無造作を装って敷石が配置されていた。そのさりげない通路の先に小屋が見えた。遼一はそちらへ歩いていった。

 何かの作業場のようだった。今来た方を振り返ると、木々に阻まれて離れも母屋もよく見えない。大したものだ。個人の邸宅にしてこれだ。

 遼一は作業場の窓から中をのぞいてみた。窓枠も外壁も木製で、ドラマに出てくる大昔の学校のようだ。誰もいない。

 入り口の扉も木製で、カギはかかっていなかった。

 遼一はこっそりその扉を開けてみた。ギーッと渋い手応えがした。少しほこりっぽいが、汚いほどではなかった。何かの折に使われているのか、木製の作業台と、多分木材をカットする機械。手狭になった木工場だろうか。

 そこで初めて、遼一は父の職業に思い至った。

 建設資材といえば昔は木材が中心だったろう。うち捨てられたにしてはこざっぱり片付いている。誰かが使っているにしてはほこりっぽい。父が趣味の手内職でたまに使っているのだろうか。

 遼一は父が普段何をしているか知らない。経営者として社屋にいるのか、現場に出てあれこれ口を出す方なのか、空き時間に昔を懐かしんで手を動かすのが好きなのか。想像もつかなかった。

 遼一と母の住む家へやってくるとき、父は仕事の気配を一切見せなかった。それはそうだろう。仕事や日々の生活の憂さを晴らすために囲った別宅なのだから。

 遼一のことはそれなりに可愛がってくれたし、生活にそう不自由はなかったし、遼一は母と自分の状況に不満はなかった。そもそもあまり興味もなかった。

 運動会などの行事には一切参加しない、そのくせ母の用意した重箱をつつきに夜になったら現れる。そんな父の行動を不思議に思い、母にいろいろ尋ねたりもしたが、幼い頭で「そういうもん」と納得したあとは疑問にも思わなくなった。父の姓が江藤といって、母や自分とは異なることも、それと同時に呑み込んだ。

 愛人、妾、二号、いろんな表現があるが、そのことをませた悪ガキ連に知られ、莫迦にされたり嫌がらせされたこともあった。遼一が腕っぷしで負けないようになってからはそんなこともなくなった。

 午後の光が差し込む作業場で、しばし考えにふけっていた遼一の背後で、ギーッと渋い音がした。扉の音だ。誰か来た。

 別に悪いことをしている訳じゃない。入り口だってカギはかかってなかった。遼一は言い訳を探しながら動けずにいた。

「あんた、なんでここにいるのよ」

 険のある声がした。

 遼一は振り返った。

 長い黒髪の、若い女が戸口に立っていた。


 引越初日の夕食は、母屋の食堂に呼ばれて摂った。

 お手伝いさんたちは微妙に冷たい態度だったが、母は気にもしていないようだった。

 荷物を解くのもそこそこに、離れの一角に衣装敷きを広げ、上機嫌で着付けたお気に入りの付下げで、乙にすまして席に着いた。母は遼一にもスーツを着るよう指示したが、遼一はそれを無視し段ボール屑がついたままのジーンズでいた。

 母にとって、自分は自慢の作品なのだ。成績優秀、身長も伸びて見栄えもそう悪くない。母屋に住む全てのものにこれを見せびらかしたいのだ。そして、これからはここに君臨するのは自分なのだと知らしめたいのだ。

 多分、まだその辺にいる、本妻のゆうれいに。

(本妻さんが亡くなって、四十九日過ぎるか過ぎないかで、もう乗り込んでくるなんて)
(すごいわねえ。亡くなった奥さまのご心痛が分かるわ)

 食堂に続く廊下では、台所からお手伝いさんたちの陰口が聞こえた。当然だ。言われるようなことをしているのだ。

 乗り込んできた母も母だが、それを許した父も父だ。この男が何を考えているのか。遼一にはサッパリ分からなかった。

 母の言うように、離婚に承諾しない本妻を疎ましく思う気持ちがあったのだろうか。

 別宅である母と遼一の家に来たときと、本宅での父は全く変わりがなかった。遼一には最近何が面白いかとか、成績はどうかとか、いつもと同じ話題をいつもの順番で繰り返した。

 父はきっと遼一には興味ないのだ。遼一が父に興味を持たないのと同じように。
 
 食卓には、四人分の食事が用意されていた。父と、母と、自分と、もうひとつの席は食事が終わるまで空いたままだった。

 本妻との間には娘がいると聞かされていた。本妻さんが跡継ぎとなる男子に恵まれなかったのも、母が自分の勝ちだと思っている点のひとつだった。
 
 今どき、跡継ぎとか、息子とか娘とか、関係ないだろうに。

 異母姉は遼一よりも少し歳上だった。確か、二歳くらい?

 後妻(というより愛人)とその子供との食事を彼女はボイコットしたのだ。歓迎される訳もなく、多感な十代の娘なら当然の行動だ。

 愛人のところには息子ができてなかなか優秀らしい。そんな噂が耳に入って、彼女はどう感じていたろう。母は何が何でも本妻に勝とうと、遼一の尻を叩いてあらゆることをさせようとしたが、本妻さんは彼女をどう育てたのだろうか。

 夫を奪う愛人への憎しみをことある毎に吹き込んで、決して負けるなと呪いをかけたか。それとも、愛するひとを取られた悲しみを娘に見せまいと、慈しんで優しい娘に育てたろうか。

 どんなひとだろう。

 ハイテンションの母にうんざりして、遼一は勉強にかこつけて先に離れに引き上げることにした。靴をはいていると、玄関の扉がゆっくりと開いた。

 遼一は顔を上げた。姉の純香だった。

 純香は遼一を見ると、キッと眉をつり上げた。すれ違いざま、遼一は会釈らしいものをして、さっさと出ていこうとした。純香の長い黒髪が揺れた。

「ここはあんたなんかの来るところじゃないわ」

 母屋のことか。いや、この屋敷そのもののことだろう。遼一は立ち止まった。

「そうですね。俺もそう思います」

 とは言え、同じ敷地に住むのなら、すれ違う事故は起こる。そのたびにからまれてはかなわない。何かひとこと、純香の気が済むような言葉をかけられれば。そう思って遼一は顔を上げ、姉の顔を見た。

 不思議な感じがした。

 初めて会ったのに懐かしいような、冷たいのにとても親しいひとのような。

 玄関の計算された穏やかな照明が、黒い瞳に映って揺れていた。化粧っ気のなさが、かえってその造作を際立たせていた。表情はきついが、笑うと多分もっとキレイだ。

 遼一は彼女から目を離せなかった。

 玄関で、ふたりはしばらくお互いの顔を見つめ合っていた。

 もっとも純香は遼一を見つめるというより、にらみつけていたのだったが。 
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