銀鎖

松本尚生

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一、川辺

1ー8

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 ゆめゆめ油断はしないこと。

 そう誓って悟は学校に通い続けた。

 第三者の目のないところで、いじめっこたちと一緒にならないように。持ちものは常に確認して、なくなったものがあればすぐに分かるように。周囲の人間の言動に注意して、連中があらぬ噂を流していないように。
 
 公園での直談判から二週間を過ぎる頃、悟は授業で使う機材を取りにやらされた理科室で、石川と鉢合わせした。石川が理科室を出ていくのを廊下で待っていた悟に、すれ違いざま石川はこう言ったそうだ。

(お前にあんなデカイ兄貴がいたかよ)

 僕たち、身内を紹介し合う仲だったことがあった?

 悟はそう言い返したらしい。

 痛快だ。それを聞いて遼一は笑った。

 三人組にいじめを止めると約束させたとき、悟は「ようやく人間になれた」と言った。

 それまでの悟は、連中にとってのサンドバッグであり金づるだったのだ。

 だが、十年もそんな状態に黙って耐えているのもおかしい。なぜそんなに無気力に、されるがままになっていたのだろう。瞳がガラス玉になるほどに。遼一は訝しんだ。

 長く経過を見る必要があるとは言え、ひとまずいじめは止んだ。遼一はセイフティスポットとしての自分の役割は終えたと思った。

 今週、悟は一度も遼一の部屋に来なかった。

 土曜日、遼一は真昼の光が差し込む眩しい台所で、やかんに湯を沸かした。

 食器棚からま新しい揃いのカップの片方を出して、ココアを淹れてみた。悟がここへ英語を勉強しに来るようになっていく度目かの週末に、ホームセンターで買ったものだ。

 ひとづき合いをしない遼一は、客用の食器を持たなかった。卒業する先輩から譲り受ける、通りすがりの陶器市で投げ売りを拾う、そんな経緯で遼一のところへやってきた最小限の食器は、大きさも用途もバラバラだった。特段不便を感じたことはなかった。

 そこへ、悟がやってきた。

 凸凹のあり合わせのカップに初めて不便を感じ、食料品や細々とした買いものにつき合わせた悟と、揃いのカップを買ったのだった。

 ココアは甘かった。

 遼一は自分から甘いものは摂らない。悟が好むので、ココアと、たまに菓子を買うようになった。
 
 悟がやってくるとき、まずトントン軽い足音がする。外の階段を上がってくる音だ。

 部屋の前で必ずひと呼吸入れてから、悟は部屋のブザーを押す。カギはかけていないのに、遼一が出ていって、ドアを開けてやるまで行儀よく待っている。

 遼一がドアを開けると、悟は細い隙間からスルリと靴脱ぎに入ってくるので、それまで遼一は外開きのドアを開けたまま押さえておいてやる。まるで小鳥が遼一の懐に飛び込んでくるのを待つように。
 
 台所で窓越しの光に灼かれながら、ぼんやりと遼一はドアを眺めた。開くことのないドア。

 この街へ来て二ヶ月ちょっとが過ぎていた。東京で過ごした十五年より、他人と接した気のする二ヶ月だった。

 遼一には今気怠い達成感がある。二ヶ月で、悟というひとりの中学生は、目に感情が戻り、いじめが止まり、人間になったのだ。自分という人間が、誰かほかのひとの役に立てたのだ。

 カップを手に流し台にもたれ、遼一は居間兼仕事場に目をやった。

 悟はよい生徒だった。物覚えもよかったし、語彙も増えた。語順と時制に慣れてしまいさえすれば、英語の点数は順調に伸びるだろう。あれだけの読書家なのだ、言語に親和性は高いはずだ。

 悟はいつも部屋に入ってテーブルの向こう側に座った。少しずつ笑うようになった。悟の笑顔に遼一は安心した。ここでだけは、心を解いて悟は笑っていられると。
 
 子供は成長するものだ。

 傷ついて庭に下りてきた小鳥の世話をしたのだ。傷が治って、小鳥は巣立った。

 遼一は遼一ひとりの生活に戻る。

 甘いココアをもてあまし、残っていた三分の一を流しに捨てた。遼一はコーヒーを淹れ直そうと再びやかんを火にかけた。

 窓の外でトントンと軽い音がした。

 すりガラス越しに人影が見えた。

 ブザーが鳴る前に、遼一はドアを開けていた。

 悟が、笑って遼一を見上げていた。
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