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一、川辺
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見覚えがあるのは、橋と、古びたいくつかの建物だけ。だが、川とこの臭いだけは何も変わらない。
三月。午後の太陽は、川の流れていく先にあった。目を細めた遼一の視界に、橋のシルエットが二つ、近くに、遠くに浮かんでいた。
川と橋の周りに拡がった街。かつての交通の要衝。羽振りのよかった家具屋はドラッグストアになり、子供時分遼一が通った古本屋は侘しい廃屋だった。川沿いの遊歩道で、すれ違ったのは犬を連れた老人ひとり。
遼一はコートの襟を立てた。川向こうから吹く風は、三月というのにまだ冷たい。
濁った川から臭いが沸き立ち、街に流れる。パルプ工場の廃液の臭いだった。十数年ぶりの臭いは遼一の古い記憶と違わなかった。
遼一は工場の最盛期を知らない。潤沢な森林資源を背景にした産業も、安価な海外資源に押されてとうに凋落していた。昭和の終わりにこの街に生を受けた遼一は、街が麻痺したように川へ沈んでゆくのをうっすら肌で感じていた。
たまにやってくる父が持ってくる珍しい菓子や果物。母の打算。短かったお屋敷での豊かな暮らし。そして、自分の犯した取り返しのつかない過ち。それは遼一をこの街から叩き出した。
子供の殻を尻につけていた遼一にとって人生を一変する打撃だったが、大人たちの打算により、斜陽の街から、遼一だけは脱出できたのだ。
すると、あれは幸運だったのか。
いや。あれを幸運と言い換えることはできない。
たとえその後十数年、都会で予想外にひとり気楽に生き延びられた今の遼一であってもだ。
その証拠に、今の今まで、ただの一度も故郷であるこの街に足を踏み入れることをしなかったのだから。何があっても帰らないと決めていた。母の死んだときでさえ。
一生この街には戻らない。そう決めていた。その街に、今また住もうというのだから、人間は変わるものだ。
どんな過去も、いずれ風化する。
三十を過ぎた遼一は、卒業後もダラダラと居残り続けた研究室の恩師から、半ば引導を渡されるように仕事を斡旋された。
遼一は金には困っていなかった。大学ではしがないオーバードクターだったが、遼一の本業はむしろ株のトレーダーだった。負けることもあったが、ここぞという勝負には勝つことが多かった。
故郷からの仕送りはとうに途絶えていたが、急いで就職する必要はとくになかった。
だが、年齢とともに反射神経は落ちていく。そろそろ世俗的な生活に下りていってもよかろうかと、そんな気分でいたものだ。
そんなときに紹介された仕事だった。拘束のゆるい、フリーランスに近い働き方を提案されたのも渡りに船だった。飽きるまで、トレーダーとの二足のわらじでいこう。
勤務地を知らされても断らない自分に遼一は苦笑した。自分の神経が鈍磨したことがおかしかった。
これが、生きていくということか。
川の向こう半分は色が違う。この緑だか紫だかによどむ水に魚が住めるのだろうか。
こんな色の水にも、かつては釣り糸を垂れるひとがいたものだ。今でも、もう少し暖かくなれば、そんな釣りびとが見られるだろうか。
橋を横切り、車停めの杭の隙間を遼一は通り過ぎた。
堤防に設えられた遊歩道は、解けて凍って、また解けてを繰り返した春先の雪で、ザラザラと歩きにくかった。ところどころ顔を出すアスファルトに、雪解け水が溜まっていた。
子供の声が聞こえた。遼一は周囲を見回した。
声は足下から聞こえていた。河畔で数人の子供たちが戯れていた。
戯れ――?
数秒観察した遼一は、四人の子供の姿を認めた。四人は三対一に分かれ、三人がひとりの生徒を小突き回したり、カバンや上着をひったくったりしているのだった。
やられている子供が首に巻いたマフラーを引っぱられ、春の粒子の粗い雪に倒れ込んだ。ついに立ち上がる気力も失せたか、背を丸めて蹴られているその姿に、日頃眠っている遼一の柔らかい部分がキリリと痛んだ。
久々の故郷の風景に感傷を呼び起こされたか。遼一はザラザラした雪の上を靴底ですべるように堤防を駆け下りた。
「君たち、何をしてるんだ!」
遼一は大声で叱りつけた。180センチの背丈と相まって、子供を威嚇するには充分だった。
「うるせえな、オッサンに関係ないだろ」
反抗的に胸を反らしてひとりがそう言った。この子がリーダー格なのだろう。
「関係ないことあるか。ひとりに三人なんて卑怯じゃないか」
「卑怯?」
子供たちがクスクス笑った。自分たちの悪行をごまかすような、卑屈な笑いだった。
「卑怯だったら悪いかよ」
リーダー格の子供がマフラーを握ったまま、ふてぶてしく見知らぬ大人に言い返した。ほかの二人が殴る蹴るをしやすいよう、マフラーをつかんでやられている子供が動けないようにしていたようだ。
子分二人の表情が強ばった。「遊んでただけ」というごまかしが利かなくなった。逃げ腰だ。遼一はリーダー格の少年に狙いをつけた。
「そうだな。じゃあ、せめて三対二だ」
遼一はコートの袖をまくり上げた。
自分と見知らぬ大人との体格差と、子分たちの戦意喪失を悟ったか、リーダー格の少年は握りしめていたマフラーを振り捨てた。
「へっ、くだらねえ。帰るぞ」
そう吐き捨てて、悔しそうに大股で堤防を上がっていった。ほっとしたような息をつき子分たちがそれに続いた。
彼らが退散するのを視界の端に確認しつつ、遼一は倒れ込む子供を助け起こした。
「おい君。大丈夫かい」
小さな子供のように見えたが、グレーのコートの下は学生服だった。
(中学生か)
少年は遼一の腕につかまりながらよろよろと立ち上がった。生まれたばかりの子鹿のような頼りなさ。これが年齢よりも幼く見せている。遼一の身体のどこかが、また小さく痛んだ。
「歩けるかい? どこか痛むところはない?」
遼一の腕にすがりついたままひとことも発しない少年の顔を遼一はのぞき込んだ。
何の表情もない黒い瞳。
その瞬間、決壊した記憶の奔流に遼一は勢いよく押し流された。めまいがした。記憶の濁流は遼一の口を、鼻を塞いだ。
三月。午後の太陽は、川の流れていく先にあった。目を細めた遼一の視界に、橋のシルエットが二つ、近くに、遠くに浮かんでいた。
川と橋の周りに拡がった街。かつての交通の要衝。羽振りのよかった家具屋はドラッグストアになり、子供時分遼一が通った古本屋は侘しい廃屋だった。川沿いの遊歩道で、すれ違ったのは犬を連れた老人ひとり。
遼一はコートの襟を立てた。川向こうから吹く風は、三月というのにまだ冷たい。
濁った川から臭いが沸き立ち、街に流れる。パルプ工場の廃液の臭いだった。十数年ぶりの臭いは遼一の古い記憶と違わなかった。
遼一は工場の最盛期を知らない。潤沢な森林資源を背景にした産業も、安価な海外資源に押されてとうに凋落していた。昭和の終わりにこの街に生を受けた遼一は、街が麻痺したように川へ沈んでゆくのをうっすら肌で感じていた。
たまにやってくる父が持ってくる珍しい菓子や果物。母の打算。短かったお屋敷での豊かな暮らし。そして、自分の犯した取り返しのつかない過ち。それは遼一をこの街から叩き出した。
子供の殻を尻につけていた遼一にとって人生を一変する打撃だったが、大人たちの打算により、斜陽の街から、遼一だけは脱出できたのだ。
すると、あれは幸運だったのか。
いや。あれを幸運と言い換えることはできない。
たとえその後十数年、都会で予想外にひとり気楽に生き延びられた今の遼一であってもだ。
その証拠に、今の今まで、ただの一度も故郷であるこの街に足を踏み入れることをしなかったのだから。何があっても帰らないと決めていた。母の死んだときでさえ。
一生この街には戻らない。そう決めていた。その街に、今また住もうというのだから、人間は変わるものだ。
どんな過去も、いずれ風化する。
三十を過ぎた遼一は、卒業後もダラダラと居残り続けた研究室の恩師から、半ば引導を渡されるように仕事を斡旋された。
遼一は金には困っていなかった。大学ではしがないオーバードクターだったが、遼一の本業はむしろ株のトレーダーだった。負けることもあったが、ここぞという勝負には勝つことが多かった。
故郷からの仕送りはとうに途絶えていたが、急いで就職する必要はとくになかった。
だが、年齢とともに反射神経は落ちていく。そろそろ世俗的な生活に下りていってもよかろうかと、そんな気分でいたものだ。
そんなときに紹介された仕事だった。拘束のゆるい、フリーランスに近い働き方を提案されたのも渡りに船だった。飽きるまで、トレーダーとの二足のわらじでいこう。
勤務地を知らされても断らない自分に遼一は苦笑した。自分の神経が鈍磨したことがおかしかった。
これが、生きていくということか。
川の向こう半分は色が違う。この緑だか紫だかによどむ水に魚が住めるのだろうか。
こんな色の水にも、かつては釣り糸を垂れるひとがいたものだ。今でも、もう少し暖かくなれば、そんな釣りびとが見られるだろうか。
橋を横切り、車停めの杭の隙間を遼一は通り過ぎた。
堤防に設えられた遊歩道は、解けて凍って、また解けてを繰り返した春先の雪で、ザラザラと歩きにくかった。ところどころ顔を出すアスファルトに、雪解け水が溜まっていた。
子供の声が聞こえた。遼一は周囲を見回した。
声は足下から聞こえていた。河畔で数人の子供たちが戯れていた。
戯れ――?
数秒観察した遼一は、四人の子供の姿を認めた。四人は三対一に分かれ、三人がひとりの生徒を小突き回したり、カバンや上着をひったくったりしているのだった。
やられている子供が首に巻いたマフラーを引っぱられ、春の粒子の粗い雪に倒れ込んだ。ついに立ち上がる気力も失せたか、背を丸めて蹴られているその姿に、日頃眠っている遼一の柔らかい部分がキリリと痛んだ。
久々の故郷の風景に感傷を呼び起こされたか。遼一はザラザラした雪の上を靴底ですべるように堤防を駆け下りた。
「君たち、何をしてるんだ!」
遼一は大声で叱りつけた。180センチの背丈と相まって、子供を威嚇するには充分だった。
「うるせえな、オッサンに関係ないだろ」
反抗的に胸を反らしてひとりがそう言った。この子がリーダー格なのだろう。
「関係ないことあるか。ひとりに三人なんて卑怯じゃないか」
「卑怯?」
子供たちがクスクス笑った。自分たちの悪行をごまかすような、卑屈な笑いだった。
「卑怯だったら悪いかよ」
リーダー格の子供がマフラーを握ったまま、ふてぶてしく見知らぬ大人に言い返した。ほかの二人が殴る蹴るをしやすいよう、マフラーをつかんでやられている子供が動けないようにしていたようだ。
子分二人の表情が強ばった。「遊んでただけ」というごまかしが利かなくなった。逃げ腰だ。遼一はリーダー格の少年に狙いをつけた。
「そうだな。じゃあ、せめて三対二だ」
遼一はコートの袖をまくり上げた。
自分と見知らぬ大人との体格差と、子分たちの戦意喪失を悟ったか、リーダー格の少年は握りしめていたマフラーを振り捨てた。
「へっ、くだらねえ。帰るぞ」
そう吐き捨てて、悔しそうに大股で堤防を上がっていった。ほっとしたような息をつき子分たちがそれに続いた。
彼らが退散するのを視界の端に確認しつつ、遼一は倒れ込む子供を助け起こした。
「おい君。大丈夫かい」
小さな子供のように見えたが、グレーのコートの下は学生服だった。
(中学生か)
少年は遼一の腕につかまりながらよろよろと立ち上がった。生まれたばかりの子鹿のような頼りなさ。これが年齢よりも幼く見せている。遼一の身体のどこかが、また小さく痛んだ。
「歩けるかい? どこか痛むところはない?」
遼一の腕にすがりついたままひとことも発しない少年の顔を遼一はのぞき込んだ。
何の表情もない黒い瞳。
その瞬間、決壊した記憶の奔流に遼一は勢いよく押し流された。めまいがした。記憶の濁流は遼一の口を、鼻を塞いだ。
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