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卓也と翼編【【貴方がいれば】】前

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 世界はいつもはっきりせず、どこかぼんやりしている。それが卓也の主観だった。物の境界線も、色の違いも困ったときに役立つ文字さえぼんやりしている。
 卓也はそれが普通だと思っていた。しかし、そうではなかった世界はもっと一目見てわかりやすくはっきりとした物だった。
 自分が弱視だと理解し、生きていく中で、他の人にはできることができずに悔しい想いも、たくさんした。
 幼い弟のほうがうまくでき、悔しさで随分わがままを言った覚えがある。
 もしかするとDomの片鱗が出ていたのかも知れない、卓也は両親を離したくなくて独占していた。いくら弱視といえども、年下の弟からすればその状況に納得できなかったのだろう。何度も喧嘩をしたし、なんなら未だに一線を崩せないでいる。
 とはいえ仲違いしたわけでも、嫌いな訳でもない。ただ、二人で出方を探っているようになるだけだ。
 しかし、今も自分の隣にいてくれる彼がいなければそれも敵わなかっただろう。

「卓也、朝!」

 ぼんやりとした視界の中、一際しっかりと存在感を示す声と共に、体が大きく揺すられた。腕の中で暴れる存在に朝から深い幸せを感じながら戯れにしっかりと抱きしめた。

「ちょ、ちょっと! 離して! 温泉行くんでしょ! 起きなきゃ!」
「もう少しぐらい大丈夫だって」
「ダメだって、ダメ・・・・・・」

 そう言いながら腕の中で暴れる愛しいその身を優しく撫でれば、少しずつ大人しくなり、やがて寝息が聞こえてきた。

(暖かい)

 愛しのパートナーである翼の寝息を聞きながら、卓也は再び目を閉じた。休みの日のこの時間が卓也は好きだ。いや、翼とならばどんな時間だとしても好きだ。

「もう! こんなに遅くなったの卓也の所為だからね!」
「すまん、すまん。あまりに気持ちよくて甘えてしまった」

 怒る翼の運転する車に揺られついたのは卓也が気に入っている有名な温泉街だった。窓を開けているだけで、車内一杯に硫黄の匂いが漂う。

「いい匂いだ。混んでるか?」
「混んでるよ。もうお昼の時間だからね!」
「アハハ、随分遅くなってしまったんだな」

 当初の予定では昼前につくはずだったのに、すっかり遅くなってしまった。怒る翼に悪びれた様子もなく軽快に笑いながら、窓の外の匂いや人々の声に耳をすませる。

「饅頭の匂いがする」
「後でね」

 少しして、車を本日泊る旅館の駐車場へ止めた。慌てて受付をすませると、ソファーで待っていた卓也の傍に戻ってくる。

「よし、いくよ」

 声をかけられ、手を掴みながら立ち上がると、翼の腕に掴まる。一人で歩くときは必要な白杖も、翼がいれば何も心配はいらない。

「今日は平日だけど、連休の合間だから結構混んでるし、家族連れも多いよ」
「そうか、翼の仲間はいるか?」
「やっぱ、それ気になる? 今のとこCollarつけてる人はいないかな。見えないだけかも知れないけど」

 いたからどうという訳ではないが、卓也が訪ねてみれば翼は少しキョロキョロと見回したらしくそう返した。
 王華学校のDomならば大抵一目見ればSubかわかるものだが、あいにく卓也にはわからない。無論、近づいたり会話をすれば気配や感覚でわかるが、人の輪郭しかわからない視力では表情や仕草、瞳に宿る本質もわからない。
 しかし逆にDomならば見えなくともわかる。大切なパートナーである翼を奪われないように気を張っていたからか、Domの気配にはかなり敏感なのだ。
 カチャカチャと鳴るタグの音に耳をすませつつ、歩いていた卓也は足を止めた。

「どうしたの?」
「この漬物屋さん、うまかったとこだろ」
「覚えてたんだ。卓也気に入ってたよね。よってもいいけど帰りにね」
「ああ」

 漬物の匂いで前回来た時の事を思い出し、尋ねれば翼はすぐに理解した。再び歩き出した翼に案内されついた蕎麦屋で二人して天ぷら蕎麦を味わっていると不意に翼が“あっ”と声を上げた。

「どうした?」
「Sub発見」

 特に気にしている様子はなかったが、探してくれていたのか翼はそう言うと、Subがいる方向を卓也に教えた。

「男の子かな?」
「女の子だよ。可愛いCollarとタグつけてる」
「ってことは王華学校か」
「だね。ご主人様は・・・・・・」
「きた」

 浴衣を着たSub女性が一人きりの様子に、キョロキョロとしていた翼だが、その言葉で入り口へ視線を送った。卓也が言ったとおり、丁度ドアが開き、中に一人の女性が入ってきた。入ってきた女性は先に中に入っていた彼女に駆け寄る。

「ほんとだ。冬真君と同じ歳ぐらいかな。仲よさそう」
「そうだな」

 Subが幸せならばそれだけで、心が穏やかになる。ぼんやりとした視力では、彼女たちがどんな動きをしているかはほとんどわからないが、弾む声は聞こえてくる。
 
「あ、向こうも気づいたみたい」

 目でもあったのか、そう言った翼と共に彼女たちがいる方向に視線を向ける。翼と同じように、向こうも首に揺れるタグに気づいたのかもしれない。

「あ、お辞儀してくれたよ」

 それに答えるように軽く頷き返し、食事を再開する。サクサクと音を立て、蕎麦の匂いを楽しみながら完食するとそば屋を出てのんびりと歩く。

「次は足湯」
「足湯と言うとこの先か」
「そうそう、川の傍のとこ」

 不意にワンと言う犬の鳴き声が聞こえ、思わず声が聞こえた方に顔を視線を下げる。どうやら目の前に犬がいるらしい。

「卓也、トイプードルだよ」
「すみません」

 飼い主だろう女性の声に、顔を戻しにっこりと微笑みを浮べる。

「トイプードルか。触っても大丈夫ですか?」
「は、はい。どうぞ」

 飼い主の女性に同意を得て、卓也は少し身をかがめた。伸ばした手を翼が誘導し犬の頭に触れさせる。

「ふかふかだな。いいこだ」
「尻尾振ってるよ。うれしそう」
「そうか、それはよかった」

 その頃には飼い主の女性も卓也の状況に気づき、どこか不安そうに卓也を見た。ふかふかとした頭を撫でれば“ワンワン”とうれしそうな鳴き声が聞こえこっちまでうれしくなる。
 撫でられ、テンションが上がったのか、足に両足が触りはしゃいでいるのがわかる。

「可愛いな」
「うん、可愛いよ」

 こうして犬を撫でていると、Subを撫でている時のような気分になる。優しく撫でるだけでこれほど喜んで貰えるならばいくらでも撫でていたい。

「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」

 ひとしきり撫でると立ち上がり飼い主の女性にお礼を言えば、彼女も軽くお辞儀をして返してくれたらしい。

「よかったね。犬撫でられて」
「ああ」

 そう言いながら、先ほど犬にしたように翼の頭に手を伸ばす。既に位置を覚えているおかげで迷うことのない手は正確に翼の頭を撫でる。

「なに?」
「俺の盲導犬も撫でたくなってな」
「盲導犬は仕事中でーす」

 仕事中に邪魔をしないようにと、言われ卓也はおかしそうに笑った。まるで拗ねたような言葉だが、本気ではないのはわかっている。

「パートナーなのにか。俺の大事な翼を沢山可愛がりたいのに、そんな寂しいこと言うなよ」

 頭を撫で、そのまま頬を伝い顎に両手を添えそっと口づける。弱視の卓也にとってここがどこかは関係ない、好きな時に翼を甘やかし愛していると示す。
 道の真ん中とは言わないが、人通りのある道の脇で急に繰り広げられる甘いラブシーンに道行く人々の視線が集まる。
人目を気にしない行為を翼も慣れている所為で、抵抗しないのをいいことに角度をかえ何度もキスをする。
 ついには舌を差し込もうとした卓也に、やっと翼がその体を叩き、押し戻した。

「めっ!」

 叱るようにセーフワードを言われ、笑いながら体を離す。ほとんど見えていないとはいえ、ここが往来だとはわかっている。さすがに恥ずかしかったのだろう。

「悪い、悪い」
「もう! 卓也はいつも唐突なんだよ!」
「したくなったんだ。見られてたか?」
「見られてたよ! 大注目されてたよ!」

 いくら慣れているとは言え、口調から恥ずかしかったのはわかる。赤く染まっているだろう翼の顔を想像し、可愛いだろうなと笑みを浮べる。
 無論、卓也は翼の顔をはっきりと知らない。手で触れ、想像するだけだ。
 卓也の頭の中には人の顔の情報が少ない、その為格好いい顔、可愛い顔、綺麗な顔、平凡な顔などの情報もない。
 卓也が想像する翼はいつでも誰よりも可愛く、愛らしい。

「そうか、そうか。ならこれで俺の翼に手出しする奴はいないな」
「むしろ避けられてるよ!」

 それが目的ではないことなど、既に見破られている。居たたまれなくなったのだろう歩調を合わせるいつもとは違い、急ぎ足になった翼に引かれるようにして歩く。
 少しして、足湯につけば先ほどまで怒っていた翼は転ばないようにしっかりと誘導した。
 椅子に案内され、座り靴と靴下を脱ぎ足湯につかる。

「暖かいな」
「気持ちいいね」

 足湯はどうやら他に利用者のいない貸し切り状態らしく、翼の声以外に近くから声は聞こえてこない。
 パシャパシャと足を動かし、お湯をかき混ぜる。足だけ浸かっていても体全体に暖かさが伝わってくる。
 手を伸ばし、隣にいる翼の肩を抱き寄せ、頭を胸へ抱え込む。先ほどは怒っていたが、他に人がいないからだろう抵抗することもなく大人しく体重を預けてくる。

「よかったね。冬真君にもパートナー見つかって」
「ああ、ずっと寂しそうにしていたからな」
「力也君いいこだし、卓也もうれしいでしょ。可愛いSubが増えて」

 からかうように言われ、甥っ子が連れてきたパートナーの事を思い出す。素直な人柄が宿るような声に、触ってわかったたくましい体つき、顔つきも冬真とも翼とも違うしっかりとした顔つきだった。
 話してみると、明るく楽しく人好きのする頼もしいと思える男性だった。どこか頼りなく不安定だった甥っ子と生涯を共にしてくれる大切なパートナー、力也は可愛いというよりも格好いいのだろう。

「冬真君と力也君お似合いだったよ」
「冬真はだらしない顔してたんじゃないか?」
「かなりだらしない顔してたよ。卓也そっくり」
「酷い言われ方だな。そんなにだらしない顔しているか?」
「うん」

 身も蓋もないほど、はっきりと頷かれ笑い返すしかない。だらしない顔も、自分の顔もよく知らないが、翼が言うならばそうなのだろう。

「と言うことは翼は俺のだらしない顔しか知らないことになるな。格好いい顔なんか見たことないか」
「・・・・・・ない訳でも・・・・・・ないけど・・・・・・」

 言いにくそうに呟いた翼はごまかすように顔を胸へとこすりつけた。恥ずかしそうな様子に愛しさがこみあげ抱きしめ返し頭を撫でる。
 腕の中にある暖かい体温に幸せをかみしめていると人の話し声が近づいてくるのに気づいた。その瞬間、我に返ったかのように腕の中で暴れ始めた翼の様子に思わず悪戯心が沸き、抑えこむようにしっかりと抱きしめる。

「卓也! 離して!」
「やだ」
「離せって!」

 胸を両手で押し返され、仕方なく体を離す瞬間に顔を両手で掴み額へ口づけする。DomにはどこでもSubを甘やかす権利があると王華学校では教えている。
 支配や操る権利ではなく、Domにあるのは甘やかし愛する権利、それはこのような時に発揮する物だろう。
 恥ずかしいながらもうれしいことを言ってくれた愛しい相手に愛を伝えるキスを送り、卓也は体を離すと頭を撫でた。

「卓也の馬鹿」
「ハハハッ、なんか今日は怒られてばかりだな」
「自業自得! もういくよ!」

 恥ずかしさが抑えきれなくなったのか立ち上がったらしい翼に、掴まりゆっくりと立ち上がる。ある意味常にくっついているような物だが、それは気にならないらしい。
 靴をはき直し、腕に掴まると再び歩き出す。
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