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第六十八話【価値】前

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 生きてきてあれほどの恐怖を味わったことはない。
 打ち合わせの最中に、不意に意識を失った冬真が気づけばそこにはマネージャーが心配そうな顔をしていた。

「よかった。大丈夫ですか?」
「スマホ! 俺の荷物は!?」
「え、荷物ならそこに」

 打ち合わせの最中、邪魔にならないように横によけていた荷物を指さされ、慌てて駆け寄り手に取ったその瞬間、スマホがバイブ音と共に着信を告げた。

「傑さん!?」

 消えない不安と共に、すぐに着信に切り替えれば神月が大きく息を吐く音が聞こえた。

「よかった。でれたか」
「力也、力也になにかあったんですか!?」
「あ、ああ。落ち着いて聞けよ」

 そう言うと傑は落ち着いた声色でもう一度、大きく息を吐いた。

「力也が事故で川に落ちた」

 その瞬間、頭が真っ白になった気がした。先ほどとは違い、クラクラと頭が揺れる。ドキドキと心臓がけたたましい音を立てる。

(事故・・・・・・スタントじゃなく?)
「冬真、聞いてるか!?」

 体中の体温が下がるように感じる。ガタガタと手足が震え、これまで味わったことのない恐怖が襲い来る。

「落ち着け! 力也は無事だ!」

 その言葉に、崩れそうになっていた精神が引き戻された。

「本当ですか!?」
「ああ、うまく淵に落ちたらしい。ピンピンしてる。ちょっと待ってろ」

 神月がそう言った数秒後、力也の名が呼ばれ、拍子抜けするほどいつも通りの力也の声が聞こえた。

「冬真? あれ、仕事は?」
「今聞くことがそれかよ」

 何事もなかったかのような声に、冬真は大きく息を吐いた。先ほどまでの恐怖が一気にどこかに行った。

「お前、落ちたって何だよ」
「あー、なんて言うかいきなり風が吹いて、体勢崩しちゃって」

 簡単に説明をする力也の声に混じり、メソメソと涙声の孝仁の声が聞こえる。

「力也君、本当によかった。僕の所為でごめん・・・・・・」
「何度も言ってるじゃないっすか、孝仁さんの所為じゃないっすよ」

 なだめるように力也は言うと、冬真が誤解をしないように説明を始めた。
 たまたま吹いた強い風の所為で、吊り橋が揺れ、孝仁は守れたが自分は堪えきれずに落ちてしまったこと。落ちながらもなんとか体勢を変え、一番深い淵へと落ちたこと。
 ちゃんと自力で岸まで泳ぎつき、そこから別荘に戻りちょうど来ていた神月と一緒に病院に来たと説明した。

「ほんと勘弁しろよ」
「ごめん、でもうまく落ちれたから全然平気だよ」
「本当か? 医者はなんて言ってるんだ?」
「問題なさそうだけど、一応精密検査するって」
「精密検査?」

 精密検査と聞いてまだ疑うような声を出した冬真の声に、神月が横からフォローを入れた。

「こいつらスタントマンはちょっとした異変が命取りだからな。一応徹底的に調べるって事になったんだ」
「そうなんですね」

 神月も医者もそう言っているなら本当に問題はないのだろう。安心して気を抜くと、頭を抱えるともう一度息を吐く。

「とにかく今から俺行くから」
「来なくていいよ」
「はぁ?」
「はぁ? じゃなくて冬真明日の朝まで仕事あるんだろ?」

 確かにあるが、それどころではないだろう。今すぐにバイクに乗って、全速力で病院に行きたいのに力也はなにを言っているのだろうか。

「いきなり代役だって見つからないだろ?」
「そんな、重要って役じゃないし」
「それでも、冬真台本しっかり覚えてただろ? 俺は全然大丈夫だし来てもやることないから」

 そこまで言われてしまうと、それ以上粘ることもできずに冬真は押し黙った。

「そりゃ、俺の事が心配すぎて演技できないって言うなら仕方ねぇけど。冬真はそんな情けないこと言わないだろ?」

 その言葉は冬真の自尊心をくすぐるには十分な言葉だった。

「お前本当に俺をその気にさせるのがうまいな」

 先ほどまで情けないほど、消沈していた冬真だがそう答えるときにはもう瞳に光がもどっていた。

「かっこいい演技、期待してる」
「全然、かっこいい役じゃねぇけどな」
「あれ? そうだっけ?」
「ハハハッ、そうだよ。適当だな」

 相変わらず、発破をかけた割にどこかズレた力也の言葉に声を上げ大笑いを返し、冬真はあふれ出した涙を軽く拭った。

「頑張ってくる。だからお前は、今日はゆっくり休んでちゃんと隅々まで調べてもらえ」
「わかった」
「明日の仕事が終わったらすぐ行くから、いいこで待ってろ」
「一眠りしてからでいいよ。事故りそうだし」
「余計なお世話だ。ちゃんと気をつけていくからおとなしく待ってろ」
「はーい」

 力也との会話が終わり神月に戻され、改めてよろしくお願いしますと頼むと冬真は通話を終わりにした。

「冬真さん・・・・・・」
「すみません、お騒がせしました」
「いえ、明日はそのまま力也さんのところに行けるよう手配しておきますから」
「ありがとうございます」

 そう苦笑を返す冬真は、少し疲れたように見えるものの、いつも通りの軽い口調だった。

 冬真への連絡が終わり、力也はまだ落ち込んでいる孝仁の肩をたたいた。

「孝仁さんも、俺この後付き合えなくなっちゃいましたけど、完璧な演技してきてください」
「力也君、僕も冬真君と同じ扱いしてない?」
「そんなことないっすよ。孝仁さんは俺が言わなくても完璧な演技すると思ってます。いつでも最高の演技するのが孝仁さんだって知ってるんで」

 冬真とは違い孝仁がこんなことで、ペースを乱すことなどないと力也は疑いもしなかった。孝仁は役者のなかの役者、カリスマ性もあり、誰もがその演技に引き込まれるそんな役者だ。

「孝仁さんの演技見れないのは残念ですけど、俺楽しみにしてるんで・・・・・・」
「もう、力也君ずるいな・・・・・・そんなこと言われたら頑張るしかないじゃん」

 そう言った孝仁はにっこりといつも通りの人を惹きつける笑顔を見せた。そうして立ち上がると、力也の頭を撫でる。

「助けてくれてありがとう。力也君の分まで最高の演技してくるから」
「はい」

 そう言った孝仁は、力也に向かい頭を下げるマネージャーと一緒に病室を後にした。

「おみごと」
「傑さんも、帰っても大丈夫ですよ?」
「いや、氷室が戻ってくるまでもう少し待つ」

 そう言いながら、椅子へと腰をかけた神月は、にこりと優しく包み込むようなDomの笑みを浮かべた。いま、氷室は事務所への連絡と別荘に一泊分の荷物を取りに行っている。

「この前はマコが世話になったな」
「いえ、むしろ俺がなんにもわかってなくてすみません」
「お前と一緒にネット配信できてすごく楽しかったと言ってた」
「俺もすごく楽しかったです」

 初めてのことでわからないことだらけだったが、とても楽しかった。あんなこと言っていたが冬真も気に入っていたらしく、どんな風に映っていたか二人で見たときは楽しそうに笑っていた。

「そうか。お前達二人がいいなら、また構ってやってくれ」
「はい、今度は結衣も入れてジェンガやろうって話になってるんですよ」
「ジェンガか、楽しそうだ。配信楽しみにしている」
「はい」

 ニコニコと楽しみな笑顔を浮かべる力也の様子に、神月は微笑みを浮かべた。
 その後氷室が戻ってきて、神月と交代した。

「社長なんか言ってました?」
「ああ、金も代役も心配しなくていいからしっかり体調整えろってさ」

 今回の撮影には力也と同じ事務所の役者が何人か参加していた。宿泊費がかからないということで脇役であっても、途中で返すことなくそのまま勉強やエキストラとしてかり出していたのが幸いした。

「みんな快く引き受けてくれたぜ」
「よかった。後でお礼言わなきゃ」

 いくら出番が増えるだけとはいえ、残っているのは危険度も少ない乱闘や通行人のような役ばかりだ。たいしたお金にも実績にもならない。

「ああ、なんならジュースでもおごってやれ」
「はい」

 力也にとって皆少なからず交流のある人々ばかりだ。おそらく本当に快く引き受けてくれたのだろう。

「ありがたいな」
「そうだな」
「氷室さんもありがとうございます」
「本当ならお姫様だっこで運びたかったんだが」

 そう冗談めかしていう氷室へ、自分では大きすぎるし似合わないと、笑い返した。

 数時間後、面会時間の終了時刻となり、氷室はまた明日の朝来るからと言って帰って行った。

「みんな心配性だな」

 ベッドに横たわると、そっとスマホを開く。マコと結衣、孝仁、それに冬真からもメッセージが届いていた。

「個室にしてもらってよかった」

 検査入院だからとシャワーやトイレも付いている個室を用意して貰えたことで、こうして院内でもスマホをいじることができた。
 そんなに沢山いじるつもりはないが、メッセージの確認だけはしたかった。
 冬真も孝仁も、撮影は問題なく終わったらしく自信ありげな言葉がおくられてきていた。

「よかった」

 孝仁と冬真におやすみを返し、力也はチラリとベッドサイドに置かれたCollarをみた。寝るときは危険だから、つけるなと冬真に言われていたし、撮影中も診断中もつけていない。

(今日は一日つけてないな)

 それが珍しいことではないがなんとなく寂しく感じられ、そっと一撫でする。

「明日はつけててもいいよな」

 明日は冬真もこっちにくると言っていた。正直明日か遅くても明後日には帰れるのだから迎えに来なくてもいい気がしていたが、早く会えるのは素直に嬉しい
 そう思いながら力也は目を閉じた。
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