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第三十六話【手を伸ばせば】前

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 人は記憶力がいいことを羨ましいという。一度あった人の顔、その日話したこと、その時にあったこと、昔から記憶力のいい孝仁は多くを覚えていた。
 いや、多くを覚えようとしていたというほうが正しいだろう。本当に赤ちゃんのときから芸能界に入った孝仁は、この業界に染まりきり自分の実力に確固とした自信を持っていた。
 それはよくいう誇りではなく、ただただ傲慢なまでの自信。確かに運動が苦手な自分ではできないこともあるだろうが、そんなことなど関係ないほどの演技力に、社交性、そして見た目も含め孝仁は大多数に好かれる天性を持っていた。
 あどけない笑顔と表現力豊かな演技力、それは多くの子役が壁に行き詰まる年齢になっても変わらず人気は衰えることがなかった。
 ただ一つ心配だったのは、ダイナミクスの診断だけだった。ダイナミクスがない、またはSubであれば問題なく続けることはできるだろう。しかし、Domと診断されれば今までのキャラとは合わなくなり隠さなくてはならなくなる。それは避けたかった。
 ダイナミクス検査結果、孝仁はDomでもSubでも、UsualでもなくSwitch、つまり全ての可能性を持つ非常に稀な第二性を持つことがわかった。
 “よし!”その時の喜びを孝仁は忘れことがない、一般的に不安定とされ折り合いをつけるのが大変とされるSwitch性も孝仁は己の糧としたのだ。

「ということで、これが最新の出演依頼の一覧です」
「アクションがありそうなのは?」

 都内の高層マンションの自宅で、孝仁は女性マネージャーを前にリラックスした様子で話を聞いていた。

「これとこれですね」
「じゃあとりあえずそれは受けようかな」
「わかりました。事務所に話つけておきますね」
「力也君には僕から話しておくね」

 既に予想していたマネージャーはわかりやすい理由に笑いながら、頷いた。

「他はどうしますか?」
「うーん、面白そうなのある?」
「孝仁さんが好きそうなのは、これとこれとこれなんですけど……」
「ですけど?」
「これなんですが、予定されているメインの出演者の中にDomがいるんです」

“どうしますか?”と目線だけで聞き返され、孝仁は子供のように露骨に顔をしかめた。

「断って」
「はい」

 もしかしたら受けるかもと思っていたマネージャーは、内容も見ずにされた返事に苦笑を浮かべ頷いた。

「残念ですね。せっかく好きなドッキリバラエティー系の話なのに」
「ほんとだよ。その人外せないの?」
「できるとは思いますがどう伝えますか? Domとは共演NGって伝えても冬真さんの件がありますし」
「あれは、力也君が嬉しそうだから…」

 “だってだって”と本当に子供のように揺れて不満を表す姿に、マネージャーは柔らかな笑みを浮かべ、改めて依頼の内容をみせた。

「Domってどの人?」
「彼女です」
「女性?」
「はい」
「じゃあ、受けよっかな」

 同性ではないと聞き、更に相手を確認し態度を変えた孝仁の隣にマネージャーは苦笑を浮かべ座った。手にしていたタブレットをテーブルへと置き、孝仁を見つめる。

「私がいるのに受けるの?」
「だって楽しそうなんだもん、だめ?」
「だめと言ったら?」
「どうしよう。どうしたらいい?」
「……仕方ない子」

 甘えるように尋ねる孝仁に、優しい微笑みを浮かべその額に人差し指を緩く当てた。慈愛に満ちた瞳と共に、そよ風のようなわずかなグレアが漏れる。

「低ランクの私では彼女に勝てないのに」
「僕が負けなきゃ関係ないでしょ?」
「負けないでいられるの?」
「できるよ、僕はSwitchだから」
「それでこそ孝仁さんです」

 自信にあふれた言葉を返され途端に、マネージャーとしての顔に戻った彼女は、改めてタブレットを手渡し番組の趣旨を説明し始めた。

「僕は仕掛ける側?」
「はい、種明かしの時にさらに驚かせたいからと」
「あ、Domの人司会者側じゃん。どうやったら外せるのこれ」
「孝仁さんが出演する回だけなら可能です」
「強引」

 低ランクながら、発したDomらしい言葉に孝仁は可笑しそうに笑うと他の依頼も確認し始めた。

「これってさ、騙される側の指名ってできるの?」
「できると思います」
「将人と冬真君は?」
「将人さんは難しいですが、冬真さんならすぐに話が通ると思います」
「じゃあ、それで」

 ドッキリというDom性をくすぐる内容に、孝仁は楽しそうな笑みを浮かべた。

「これで完全にDomとの共演NGのうわさはなくなりそうですね」
「一応、随分前に否定してはあるんだけどね」

 孝仁が否定しても、事実気が向かずに断っていたのだから信憑性があるわけがなく、世間的には問題ないが、なるべくかかわらせないようにとずっと配慮されていた。
 そもそも、実際孝仁はDomとの共演を一時期NGにしていた。

「それより、これドッキリの種類とかもあるよね?」
「打ち合わせの時に提案すればいいと思いますよ」
「そう、じゃあホラー系を提案しよう」

 映画の後に、冬真が怖がって大変だったと力也が言っていたからいい絵が撮れるはずだと、本人が聞けば“なんの恨みがあるのか”と騒ぎそうなことを考えた。
 恨みがあるかないかと言われたら、大した恨みはない。あるのは恨みじゃなく妬みだ。お気に入りのSubをものにしているという妬みだった。

「大体さ、冬真君は生意気なんだよね」
「真面目なほうだと思いましたが」
「まあ、男のDomにしては真面目だと思うよ。でも、僕と力也君の話に入ってきたり、僕が力也君を褒めてるのにさらに褒めて」
「つまりヤキモチですね」
「違う。新人で年下なのに生意気だっていってるの。これだから男のDomは」

 本気で怒っているわけじゃないとわかっているマネージャーは、相槌を打つことに努めることにした。
 孝仁はグチグチと文句を言っている間は大丈夫なのだ。問題なのは、文句を言わなくなった時、孝仁は本当に無理だと思えばあっさりと切り捨てる。実際、共演NGになったのはあるDomが原因だ。
 名も売れてないのに、孝仁をSubだと位置づけちょっかいを出してきた。結果その男は芸能界を去ることになった。
 それで終わればよかったのだが、記憶力のいい孝仁はその時の怒りを引きずり、Domとの共演を断り続けた。

「いかにも幸せですって顔しちゃって腹立つ。力也君も最近どんどんかわいくなってるし」
「確かに、Sub味が出てきてますね。私もお話だけでもって思っちゃいます」
「だよね、絶対ほかのDomも思うよ。やだやだ、僕のなのに」
「冬真さんのSubでしょ?」
「でも僕のスタントブルなの」

 人のSubに抱くべきではない独占欲が色濃い発言を咎めることもせずに、マネージャーは苦笑し聞き流した。その時、不意に部屋の中にスマホのバイブ音が響いた。

「すみません、電話みたいです」

 一言断って、立ち上がり少し離れたマネージャーをチラッと見ると孝仁はソファーに寝転がった。数日前にあった力也の誕生日にプレゼントをあげた時は喜んでくれたが、それを知らなかったらしい冬真には軽く睨まれた。怒らせてしまったかと心配したけど、後々力也に聞けば怒ってなかったし、甘やかしてもらったから嬉しかったとのろけられた。もちろん、力也が怒られてないのは安心したが、自分のプレゼントよりも上回ったのが気に食わない。
 あくまで気を使わなくていいような物を贈っていただけで、自分だってもっと喜ばせることができるのにと思ってしまう。
 力也が喜ぶ顔が見たい、名前を呼んでほしい。Playの演技をした時、沸き上がったあの気持ち、健気ともいえるまなざしが愛おしかった。
 もっとあの瞳に自分を映したいと思えた。あんなの、いままで力也といて初めてだった。
 スタントブルとして初めて紹介された時に抱いた安心感とはまた違う、あの気持ち、あれはきっともっと危険な物。手を伸ばせば届きそうだと思えるそんな、誘惑だった。

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