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灰燼
五
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月が高く昇っている。
静かな夜だった。時折、城の敷地のどこかから、歩哨の呼び交わす声が響いている。それも、アダムがいる場所まではほとんど届いてこない。アダムが侵入したことも、気づかれてはいないようだった。
孟王城が襲撃された理由については、霊術師のプルノ・クスパから聞き出すことができた。
炳辣国の中心とされる炳都は、軍馬に適した良馬を欲し、西域の蕘皙国は耕作に適した農地を欲していた。
炳北の僻地に城を構える孟王を、頑固者として長らく疎ましく思っていた炳都は、西域の駱駝部隊が孟王城を攻め落とすための手筈を整える。そのひとつが、当初から襲撃の障害になると見られていた孟王城の隠術師であり弓術の達人、エフレム・ヴィクノールの排除だった。
孟王の従臣が内応したことでエフレムは謀略にかかり、死罪こそ免れたものの流刑となっている。
そして間もなく、エフレムが不在となった孟王城を、西域の駱駝部隊が襲撃した。
炳都はこの襲撃に表面上は一切の関与をせず、侵攻についても黙認を決めこんでいる。ただしそれには条件がひとつあり、それは周辺豪族の一斉蜂起を防ぐための、孟王一族の皆殺し、というものであった。事実、孟王という中心を失った豪族たちはまとまりを持たず、いまは炳都からの沙汰を待ちながら、日和見の姿勢を取らざるを得ない状況に陥っている。
城が落ちたあとも、孟王に仕えた隠術師たちと、炳都の隠術師たちが入り乱れての暗闘があったようだ。襲撃を生き延びた次代の孟王ルネル・グゼイブも、その暗闘で幾度も命を狙われながら、北辺の山小屋に流れ着いた。
ルネルは、まだ生きている。しかし、もうこの地を踏むことはできないだろう。血が流れすぎた。そして、その仕上げとしてルネルの血が流れることを連中は望み、眼を光らせてもいるのだ。
アダムが請けたそもそもの仕事は、山小屋にある荷物の移送だった。荷物、というのが符牒だとは思いもしなかったが、やはり依頼通りに、ルネルを北方の簪呂国へと連れて行くということは、やらなければならない。それは、単に仕事を終えるためではない。それがルネルのためだ、ともアダムは考えていなかった。
「それにしても、あんたの狙いはなんだ、プルノ。なぜ、こうもあっさり口を割る?」
「俺はよう、霊召術を専門にする霊術師だぜ、旦那。俺には俺の目的があって当然だろう。それが済んじまえば、あとのことはどうでもいいのさ」
「目的というのは、まさか」
「そうだ、屍体だ。未練を残して死んだ、大量のな」
プルノが、左頬の刃傷を歪めながら、いやらしい笑みを浮かべた。月明かりのなかで、眼と歯だけが白く、不気味に濡れた光を放っているように見える。
「旦那も知っての通り、炳辣国は原理神教が根強く信仰されてる。ってのは同時に、屍体が手に入りにくいってことでもあるんだよ。死者は荼毘に付す、つまりみんな燃やしちまうんでな。薪の買えない貧乏人ですら、葬儀だけやって川にどぼんと放りこんじまう」
孟王城が滅びれば、戦死者の屍体がまとまって手に入る機会が得られる。それがプルノの動機とするところだった。
「そのためだけに、相談役の術師として炳王に近づいたのか」
「俺は長年、偉人たちが遺した功績から学んできたが、霊召術には、まだ試すべきことが多くある。発展途上というやつだな。俺が目指すのは、屍役や霊役といった術を基礎とした、霊体を使って新たな価値を生む、ある種の創造だ。それらを試みるには、屍体や魂が必要不可欠なんだ。いくらあっても足りないくらいにな」
「壺の並ぶ厨房で、私の腕を掴んだのは、なんだ?」
アダムの言葉を聞いて、プルノがまたにやりと笑った。
「あれは、屍役のなかでも、操僵と呼ばれるもんだ。簡単に言えば、屍体を動かす術だな。そこらを漂っている魂を屍体に押しこんで、動かしてみせるのさ。そして薬草や茸から調合した粉を浴びた者を、標的にさせる」
「あの壺の中身が、すべて屍体だと」
「そりゃあもう、察しのいい旦那のご想像通りさ。あそこを通り抜けて来るやつがいるとは、俺は未だに信じられんがね」
薬湯の蒸気に包まれた厨房に並んでいた異様な数の大壺。その縁まで注がれていた薬液に漬けられていたのは、孟王城で死んでいった大勢の人間たちだったのか。
これを狂気の術と呼ばずしてなんと呼ぶのか。耳を疑うような話を聞きながら、アダムは肚の底から胸へと、渦巻いてこみあげるものを感じていた。不快感や嫌悪感といったものの類なのか。霊召術。そこに理屈ではなく、出した手を思わず引いてしまうような危うさを、肌で直接感じているためなのかもしれなかった。
「私には、そんな術をあんたが使うなんて、にわかには信じられないな」
「信じる必要はねえよ。その腕を掴まれた感覚が、すべてさ」
アダムの腕には、確かにきつく掴まれた跡が青痣となって残っている。躰に押しあてられた掌の跡も、全身に残っているのかもしれない。考えただけで、アダムの背筋には冷たいものが走った。
「償うすべを知っているのか、プルノ。死者を好きなように弄んでおいて、無事で済むとは思わないことだ。それに、あんただけでなく、それを炳都が許すことも、原理神教の教えに背く行為に値するはずだ。違うか?」
アダムが言うと、プルノが低く笑った。
「言うまでもないと思ってたが、霊召術を使う俺は、原理神教の信徒じゃない。俺には黴の生えたような教えなんて、知ったことじゃねえよ。炳都のことは、炳都のやつらに訊いてくれ」
プルノの傷が、また蠢いて見えた。頬を歪めて、笑っているのだ。闇のなかでは、虫が這っているようにも見えた。
「これはよ、昔の傷だ、子供のときのな。若旦那に短剣で斬りつけられたときのもんだ」
アダムの視線を見透かしたように、プルノが言った。
「若旦那?」
「俺は、炳西の僻地で、奴隷の子として生まれた。屋敷の大旦那が、奴隷の女に産ませたのさ。俺を産んだとき、おふくろは十四歳だった」
遠くを見つめるようなプルノの眼が、不意に暗い光を放った。
「おふくろは鞭で打たれても、腹を蹴られても、不満ひとつ漏らさなかった。原理神教のいう、宿業というやつを信じていたんだ。ひでえ目に遭うのは、前世で自分が悪いことをしてきたせいなんだってな。それを横目で見ながら、幼い俺は抵抗した。それが生意気だったんだろうよ。若旦那、つまり大旦那の嫡男から、俺は納屋の柱に縛りつけられて、短剣でじっくりと斬られた。黙らせるためだったんだろうが、あのときのやつの嬉々とした眼は、忘れられねえよ」
縛られ、拘束されるのをプルノが極端に嫌ったのは、そういうことか、とアダムは思った。
自由への渇望。プルノの眼は、屈することを知らず、不敵な眼をして隙をうかがう、檻に入れられた虎や狼にも似ていた。檻のなかで、たとえ食うものに困らないとしても、それだけでは生きていけない。生きているともいえない。そういう意志を失わずに、もがいた時期が確かにあったのだろう。
「俺は打たれるのが嫌で、いつも逃げ出すことばかり考えてたよ。ある晩、逃げ出そうとしたところを捕まった。にやついた若旦那が棒で打ったのは俺ではなく、おふくろだった。打たれ続けて、おふくろは動かなくなった。俺は呆然としていて、死んだんだと、しばらくしてわかったよ。おふくろは、熱心な原理神教の信徒だった。大旦那や若旦那も同じく、信徒だった。こんなことは、原理の神々というやつらの名のもとでは、べつに珍しくもなんともねえのさ」
プルノが、ひとつ大きく息をついた。眼は、相変わらず遠くを見たままだ。物言いは、自虐的というのともどこか違った。嘆きながら、諦めている。それが、この男のこれまでの人生だったのかもしれない。
プルノが続ける。
「原理神教では、人は生まれながらに宿業を背負っていて、生業にできる仕事も、住む場所も、生まれたときから決まっている、とされている。馬鹿げてるとは思わねえか。生まれながらに他者を鞭で打つことができるやつもいれば、理由もなく打たれるしかないやつもいるってわけだ」
暗く、沈んだ声だった。自分は後者だった、とプルノは言っているのだ。さっきまでの遠くを見ていた眼ではなく、不敵なものを宿しながら、いまはアダムを睨みつけるようにじっと見つめている。
「原理神教や、東方で流行ってる穩教の説くような、因縁や宿業なんてあるものか。俺はずっと、そう考えていた。奴隷の子として生まれたが、逃亡した。それだけで、おふくろや俺に、宿業の報いとかいうものを与えていたやつは、そばにいなくなった。宿業は、俺を追いかけてはこなかった。わかるか、そうやってはじめて俺は、自由を得たんだ。逃げたことが間違っていたとは、いまでも思ってねえ」
「それでなぜ、霊召術を?」
「逃亡先で東西の書を読み漁るうちに、霊術師というものに興味を持った。はじめは、無惨に打ち殺されたおふくろの魂のことを考えていたと思う。霊術師の噂を聞けば、どこまででも訪ねて行ったよ。彼らには生い立ちなんてのはどうでもいいことで、いつも素質の有無だけで俺を見ていた。それがまた、俺の居場所になっていった理由だ。いろんなことを試したよ。おぞましいといわれるようなこともな。それでたどり着いた。悪行とされるあらゆる行為も、逆に善行とされる行為も、人間の行いが、魂にまで刻まれることなどない。その報いなんてものもない、ってな」
「因果というものは存在しないと?」
「罪を犯せば、いつかは罰を受ける。逆に、神に祈り、恵まれない者に慈悲を与えたのでいつかは救われる。みんな、そう思いたいだけなのさ。自分が過ちを犯したときは、神に祈れば赦|《ゆる》される。だけど、汚い真似をしながらうまく生きているやつは赦されるわけがない、いまに必ず不幸があるはずだ、ってな。状況に合わせて、都合よく自分の気持ちを書き換える。俺に言わせりゃ、善悪なんてその程度のもんだ」
「私にも信じる神はいないが、同意しかねるな。信仰を日々の支えにしながら慎ましく生きる者を、あえて否定しようとは思わない。彼らが大切にしていることを、尊重すべきだとも思う」
「疑問を持たないことを、愚かだと言っているのさ、俺は。炳都の上層部が信仰を強く推すのも同じことだ。結局のところ、自分たちにとって都合がいいからにすぎねえ。中央から腐敗が進んで、信仰は民を縛るために捻じ曲げられていると言ってもいい。孟王は、それを撥ね退けた。だから殺されたんだ」
狭量になればなるほど、信仰というものは排他的になっていく傾向にあるものだった。長く信仰されてきた原理神教も、中央の権力が強固になるあまり、末端から新たな派閥に分かれて分裂していくというような段階になっていたのかもしれない。
それも、ひとつの争いの火種だったのだ、とアダムは思った。大きく燃え広がらなかったのは、ただの結果にすぎない。
「俺はよう、旦那。この国が、原理神教が嫌いだ。だから俺はここで、信仰に縛られたまま死んでいった民に、新たな生を与えてやっているんだよ」
「死者を弄んだとは、少しも思わないんだな、プルノ」
「くどいな。いかなる行為も、ただの行為なんだ。魂は永遠のものだ。そして、善にも悪にもならない」
「その考えが、傲慢ではないと?」
「ただ、真理だ。真理を知らぬ魂に、俺は教えてやるだけさ」
強い憎しみや怨みを持つ者の死霊はやがて怨霊となる、といわれている。それが事実かどうかはともかく、霊術師がそれを知らないわけはなかった。それでもこの男が、自身の考えを変えることはないのだろう。
それでいいのか。原理神教を信仰しながら死んだ者たちに対してすべきなのは、その教えに則した弔いなのではないのか。彼らに生かされ、彼らを失ったルネルも、真実を求めながら、最後にはそれを望んでいる。
死者の願いは確かめようもなかった。死者を敬い、弔うこと。そして憶えておくこと。どれだけ強く思っていても、生き残った者ができることなど、ほとんどないのだ。
蒼剣ブラウフォロウ。柄に手をやる。斬れるのか。斬るべきなのか。それ以前に、自分にはこの霊術師を裁くことなどできるのか。アダムは、柄に手を掛けたまま、動けなくなった。
「嘘だろおい、やめろ、近づくな。こっちへ来るなっ」
唐突に、プルノが叫びはじめた。アダムは近づいてなどいない。プルノの眼は、アダムの背後に向けられている。
足もとをひやりとした風が抜け、突然、強烈な耳鳴りがした。左耳にさげた羽の耳飾りが、激しく揺れている。
「やめろっ、やめてくれ」
叫んだプルノの口に、なにか白い靄のようなものが束になって吸いこまれていく。いや、一方的に流れこんでいるのか。
プルノが、苦悶の表情で眼と口を開いたまま、低く絞り出すような叫びをあげた。長く尾を引く嫌な声が途切れると、全身を痙攣させたあと、毀れた人形のようにだらりと弛緩した。頭上で縛った手首だけで、躰を支えている状態である。
プルノには、なにが見えたのか。
アダムは近づき、プルノの両肩を掴んで揺すった。覗きこむが視線は合わない。プルノは眼を見開いたまま、唇をわずかに動かしている。違う、違う、違う。耳を近づけると、それだけを繰り返し呟いていることがわかった。
プルノの体内に、なにかが入った。今度こそ、蒼剣で斬ってやるべきなのか。
次の瞬間、月に照らし出されたプルノの形相が一変した。叫び、大声でわめきながら、手首を縛っていた布を引き破ると、アダムの肩に掴みかかってきた。
狂気を宿した眼。吠えるように向かってくるプルノの息が顔にかかる。アダムはプルノの手首を掴み、押さえこもうとした。揉み合う。アダムの躰が浮いた。投げ飛ばされたのだ。馬乗りに覆いかぶさってくるプルノの股間を膝で蹴りあげ、左の肘で眉横の急所を打った。わずかに外したが、プルノは転がるようにして距離をとった。
体当たり。理性がないのか、攻撃は直線的なものばかりだった。アダムは躰を開き、体当たりをかわす。すれ違いざま、足を飛ばしてプルノの足もとをすくった。プルノは派手に転んだが、跳ね起きたままの勢いで、また向かってくる。アダムはかわしながらプルノの手首を引き、そのまま壁に叩きつけるように押しやった。壁に背を打ちつけたプルノが、瞬間息を詰まらせる。
一歩飛び退り、間合いを取る。プルノは歯を食いしばり、低く唸っている。正気ではない。獰猛な狼と向き合っている。そんな気分だった。
まだ向かってくるのか。そう思って身構えたとき、アダムの横を鋭い風が抜けた。光が、闇を切り裂いたような気さえした。
プルノが、壁に背を擦りつけながら座りこむ。ひと呼吸置いて、プルノの胸に矢が一本突き立っていることに、アダムは気づいた。
とっさに、城の西側の丘を振り返る。アダムが夕刻まで潜んでいた場所。闇に浮かぶような月下の丘に、ひとつの影が見えた。
それはほんの一瞬で、すぐに人影は丘の向こうに見えなくなった。
静かな夜だった。時折、城の敷地のどこかから、歩哨の呼び交わす声が響いている。それも、アダムがいる場所まではほとんど届いてこない。アダムが侵入したことも、気づかれてはいないようだった。
孟王城が襲撃された理由については、霊術師のプルノ・クスパから聞き出すことができた。
炳辣国の中心とされる炳都は、軍馬に適した良馬を欲し、西域の蕘皙国は耕作に適した農地を欲していた。
炳北の僻地に城を構える孟王を、頑固者として長らく疎ましく思っていた炳都は、西域の駱駝部隊が孟王城を攻め落とすための手筈を整える。そのひとつが、当初から襲撃の障害になると見られていた孟王城の隠術師であり弓術の達人、エフレム・ヴィクノールの排除だった。
孟王の従臣が内応したことでエフレムは謀略にかかり、死罪こそ免れたものの流刑となっている。
そして間もなく、エフレムが不在となった孟王城を、西域の駱駝部隊が襲撃した。
炳都はこの襲撃に表面上は一切の関与をせず、侵攻についても黙認を決めこんでいる。ただしそれには条件がひとつあり、それは周辺豪族の一斉蜂起を防ぐための、孟王一族の皆殺し、というものであった。事実、孟王という中心を失った豪族たちはまとまりを持たず、いまは炳都からの沙汰を待ちながら、日和見の姿勢を取らざるを得ない状況に陥っている。
城が落ちたあとも、孟王に仕えた隠術師たちと、炳都の隠術師たちが入り乱れての暗闘があったようだ。襲撃を生き延びた次代の孟王ルネル・グゼイブも、その暗闘で幾度も命を狙われながら、北辺の山小屋に流れ着いた。
ルネルは、まだ生きている。しかし、もうこの地を踏むことはできないだろう。血が流れすぎた。そして、その仕上げとしてルネルの血が流れることを連中は望み、眼を光らせてもいるのだ。
アダムが請けたそもそもの仕事は、山小屋にある荷物の移送だった。荷物、というのが符牒だとは思いもしなかったが、やはり依頼通りに、ルネルを北方の簪呂国へと連れて行くということは、やらなければならない。それは、単に仕事を終えるためではない。それがルネルのためだ、ともアダムは考えていなかった。
「それにしても、あんたの狙いはなんだ、プルノ。なぜ、こうもあっさり口を割る?」
「俺はよう、霊召術を専門にする霊術師だぜ、旦那。俺には俺の目的があって当然だろう。それが済んじまえば、あとのことはどうでもいいのさ」
「目的というのは、まさか」
「そうだ、屍体だ。未練を残して死んだ、大量のな」
プルノが、左頬の刃傷を歪めながら、いやらしい笑みを浮かべた。月明かりのなかで、眼と歯だけが白く、不気味に濡れた光を放っているように見える。
「旦那も知っての通り、炳辣国は原理神教が根強く信仰されてる。ってのは同時に、屍体が手に入りにくいってことでもあるんだよ。死者は荼毘に付す、つまりみんな燃やしちまうんでな。薪の買えない貧乏人ですら、葬儀だけやって川にどぼんと放りこんじまう」
孟王城が滅びれば、戦死者の屍体がまとまって手に入る機会が得られる。それがプルノの動機とするところだった。
「そのためだけに、相談役の術師として炳王に近づいたのか」
「俺は長年、偉人たちが遺した功績から学んできたが、霊召術には、まだ試すべきことが多くある。発展途上というやつだな。俺が目指すのは、屍役や霊役といった術を基礎とした、霊体を使って新たな価値を生む、ある種の創造だ。それらを試みるには、屍体や魂が必要不可欠なんだ。いくらあっても足りないくらいにな」
「壺の並ぶ厨房で、私の腕を掴んだのは、なんだ?」
アダムの言葉を聞いて、プルノがまたにやりと笑った。
「あれは、屍役のなかでも、操僵と呼ばれるもんだ。簡単に言えば、屍体を動かす術だな。そこらを漂っている魂を屍体に押しこんで、動かしてみせるのさ。そして薬草や茸から調合した粉を浴びた者を、標的にさせる」
「あの壺の中身が、すべて屍体だと」
「そりゃあもう、察しのいい旦那のご想像通りさ。あそこを通り抜けて来るやつがいるとは、俺は未だに信じられんがね」
薬湯の蒸気に包まれた厨房に並んでいた異様な数の大壺。その縁まで注がれていた薬液に漬けられていたのは、孟王城で死んでいった大勢の人間たちだったのか。
これを狂気の術と呼ばずしてなんと呼ぶのか。耳を疑うような話を聞きながら、アダムは肚の底から胸へと、渦巻いてこみあげるものを感じていた。不快感や嫌悪感といったものの類なのか。霊召術。そこに理屈ではなく、出した手を思わず引いてしまうような危うさを、肌で直接感じているためなのかもしれなかった。
「私には、そんな術をあんたが使うなんて、にわかには信じられないな」
「信じる必要はねえよ。その腕を掴まれた感覚が、すべてさ」
アダムの腕には、確かにきつく掴まれた跡が青痣となって残っている。躰に押しあてられた掌の跡も、全身に残っているのかもしれない。考えただけで、アダムの背筋には冷たいものが走った。
「償うすべを知っているのか、プルノ。死者を好きなように弄んでおいて、無事で済むとは思わないことだ。それに、あんただけでなく、それを炳都が許すことも、原理神教の教えに背く行為に値するはずだ。違うか?」
アダムが言うと、プルノが低く笑った。
「言うまでもないと思ってたが、霊召術を使う俺は、原理神教の信徒じゃない。俺には黴の生えたような教えなんて、知ったことじゃねえよ。炳都のことは、炳都のやつらに訊いてくれ」
プルノの傷が、また蠢いて見えた。頬を歪めて、笑っているのだ。闇のなかでは、虫が這っているようにも見えた。
「これはよ、昔の傷だ、子供のときのな。若旦那に短剣で斬りつけられたときのもんだ」
アダムの視線を見透かしたように、プルノが言った。
「若旦那?」
「俺は、炳西の僻地で、奴隷の子として生まれた。屋敷の大旦那が、奴隷の女に産ませたのさ。俺を産んだとき、おふくろは十四歳だった」
遠くを見つめるようなプルノの眼が、不意に暗い光を放った。
「おふくろは鞭で打たれても、腹を蹴られても、不満ひとつ漏らさなかった。原理神教のいう、宿業というやつを信じていたんだ。ひでえ目に遭うのは、前世で自分が悪いことをしてきたせいなんだってな。それを横目で見ながら、幼い俺は抵抗した。それが生意気だったんだろうよ。若旦那、つまり大旦那の嫡男から、俺は納屋の柱に縛りつけられて、短剣でじっくりと斬られた。黙らせるためだったんだろうが、あのときのやつの嬉々とした眼は、忘れられねえよ」
縛られ、拘束されるのをプルノが極端に嫌ったのは、そういうことか、とアダムは思った。
自由への渇望。プルノの眼は、屈することを知らず、不敵な眼をして隙をうかがう、檻に入れられた虎や狼にも似ていた。檻のなかで、たとえ食うものに困らないとしても、それだけでは生きていけない。生きているともいえない。そういう意志を失わずに、もがいた時期が確かにあったのだろう。
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暗く、沈んだ声だった。自分は後者だった、とプルノは言っているのだ。さっきまでの遠くを見ていた眼ではなく、不敵なものを宿しながら、いまはアダムを睨みつけるようにじっと見つめている。
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「それでなぜ、霊召術を?」
「逃亡先で東西の書を読み漁るうちに、霊術師というものに興味を持った。はじめは、無惨に打ち殺されたおふくろの魂のことを考えていたと思う。霊術師の噂を聞けば、どこまででも訪ねて行ったよ。彼らには生い立ちなんてのはどうでもいいことで、いつも素質の有無だけで俺を見ていた。それがまた、俺の居場所になっていった理由だ。いろんなことを試したよ。おぞましいといわれるようなこともな。それでたどり着いた。悪行とされるあらゆる行為も、逆に善行とされる行為も、人間の行いが、魂にまで刻まれることなどない。その報いなんてものもない、ってな」
「因果というものは存在しないと?」
「罪を犯せば、いつかは罰を受ける。逆に、神に祈り、恵まれない者に慈悲を与えたのでいつかは救われる。みんな、そう思いたいだけなのさ。自分が過ちを犯したときは、神に祈れば赦|《ゆる》される。だけど、汚い真似をしながらうまく生きているやつは赦されるわけがない、いまに必ず不幸があるはずだ、ってな。状況に合わせて、都合よく自分の気持ちを書き換える。俺に言わせりゃ、善悪なんてその程度のもんだ」
「私にも信じる神はいないが、同意しかねるな。信仰を日々の支えにしながら慎ましく生きる者を、あえて否定しようとは思わない。彼らが大切にしていることを、尊重すべきだとも思う」
「疑問を持たないことを、愚かだと言っているのさ、俺は。炳都の上層部が信仰を強く推すのも同じことだ。結局のところ、自分たちにとって都合がいいからにすぎねえ。中央から腐敗が進んで、信仰は民を縛るために捻じ曲げられていると言ってもいい。孟王は、それを撥ね退けた。だから殺されたんだ」
狭量になればなるほど、信仰というものは排他的になっていく傾向にあるものだった。長く信仰されてきた原理神教も、中央の権力が強固になるあまり、末端から新たな派閥に分かれて分裂していくというような段階になっていたのかもしれない。
それも、ひとつの争いの火種だったのだ、とアダムは思った。大きく燃え広がらなかったのは、ただの結果にすぎない。
「俺はよう、旦那。この国が、原理神教が嫌いだ。だから俺はここで、信仰に縛られたまま死んでいった民に、新たな生を与えてやっているんだよ」
「死者を弄んだとは、少しも思わないんだな、プルノ」
「くどいな。いかなる行為も、ただの行為なんだ。魂は永遠のものだ。そして、善にも悪にもならない」
「その考えが、傲慢ではないと?」
「ただ、真理だ。真理を知らぬ魂に、俺は教えてやるだけさ」
強い憎しみや怨みを持つ者の死霊はやがて怨霊となる、といわれている。それが事実かどうかはともかく、霊術師がそれを知らないわけはなかった。それでもこの男が、自身の考えを変えることはないのだろう。
それでいいのか。原理神教を信仰しながら死んだ者たちに対してすべきなのは、その教えに則した弔いなのではないのか。彼らに生かされ、彼らを失ったルネルも、真実を求めながら、最後にはそれを望んでいる。
死者の願いは確かめようもなかった。死者を敬い、弔うこと。そして憶えておくこと。どれだけ強く思っていても、生き残った者ができることなど、ほとんどないのだ。
蒼剣ブラウフォロウ。柄に手をやる。斬れるのか。斬るべきなのか。それ以前に、自分にはこの霊術師を裁くことなどできるのか。アダムは、柄に手を掛けたまま、動けなくなった。
「嘘だろおい、やめろ、近づくな。こっちへ来るなっ」
唐突に、プルノが叫びはじめた。アダムは近づいてなどいない。プルノの眼は、アダムの背後に向けられている。
足もとをひやりとした風が抜け、突然、強烈な耳鳴りがした。左耳にさげた羽の耳飾りが、激しく揺れている。
「やめろっ、やめてくれ」
叫んだプルノの口に、なにか白い靄のようなものが束になって吸いこまれていく。いや、一方的に流れこんでいるのか。
プルノが、苦悶の表情で眼と口を開いたまま、低く絞り出すような叫びをあげた。長く尾を引く嫌な声が途切れると、全身を痙攣させたあと、毀れた人形のようにだらりと弛緩した。頭上で縛った手首だけで、躰を支えている状態である。
プルノには、なにが見えたのか。
アダムは近づき、プルノの両肩を掴んで揺すった。覗きこむが視線は合わない。プルノは眼を見開いたまま、唇をわずかに動かしている。違う、違う、違う。耳を近づけると、それだけを繰り返し呟いていることがわかった。
プルノの体内に、なにかが入った。今度こそ、蒼剣で斬ってやるべきなのか。
次の瞬間、月に照らし出されたプルノの形相が一変した。叫び、大声でわめきながら、手首を縛っていた布を引き破ると、アダムの肩に掴みかかってきた。
狂気を宿した眼。吠えるように向かってくるプルノの息が顔にかかる。アダムはプルノの手首を掴み、押さえこもうとした。揉み合う。アダムの躰が浮いた。投げ飛ばされたのだ。馬乗りに覆いかぶさってくるプルノの股間を膝で蹴りあげ、左の肘で眉横の急所を打った。わずかに外したが、プルノは転がるようにして距離をとった。
体当たり。理性がないのか、攻撃は直線的なものばかりだった。アダムは躰を開き、体当たりをかわす。すれ違いざま、足を飛ばしてプルノの足もとをすくった。プルノは派手に転んだが、跳ね起きたままの勢いで、また向かってくる。アダムはかわしながらプルノの手首を引き、そのまま壁に叩きつけるように押しやった。壁に背を打ちつけたプルノが、瞬間息を詰まらせる。
一歩飛び退り、間合いを取る。プルノは歯を食いしばり、低く唸っている。正気ではない。獰猛な狼と向き合っている。そんな気分だった。
まだ向かってくるのか。そう思って身構えたとき、アダムの横を鋭い風が抜けた。光が、闇を切り裂いたような気さえした。
プルノが、壁に背を擦りつけながら座りこむ。ひと呼吸置いて、プルノの胸に矢が一本突き立っていることに、アダムは気づいた。
とっさに、城の西側の丘を振り返る。アダムが夕刻まで潜んでいた場所。闇に浮かぶような月下の丘に、ひとつの影が見えた。
それはほんの一瞬で、すぐに人影は丘の向こうに見えなくなった。
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