砥石に語りて

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七 霜丘

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 息が、白く舞った。
 町の北側にある、小さな丘へと足を運んでいる。
 小さな丘とはいっても、歩けば山道である。老いた脚にこたえる道ではあったが、岨道そばみちを行くわけではない。
 左右に灌木かんぼくが並び、傾斜の強い箇所には丸太を横に走らせて低い段差が設けられている。土も踏み固められたうえに、この時季は冷えて固くなっているのか、足を取られるようなことはなかった。
 玄馬は、布で額の汗を拭った。
 家を出たときは町なかを乾いた風が吹き抜け、通りには砂埃すなぼこりが舞っていた。歩き、襟元を掻き合わせるように着こんだ羽織も、丘を登るうちに必要がなくなっている。
 冬らしい、晴れた日が続いている。次に降るときは、雨ではなく雪だろう。穂香は、雪が降るのを楽しみにしているようだった。引き取った幼いころから、それは変わっていない。
 領主だった田所は、投獄された。いまは別の任地から、一時的に国が選んだ者が来て、代役をこなしているようだ。
 約竹祥太は、薬店を畳んで姿を消した。囲っていた女が三人いたらしく、また別の騒ぎも起きているらしかった。
 時々、谷口が状況を伝えに来るが、いまの玄馬にとってはどうでもいいことだった。騒ぎそのものも、すでに遠いことのように思える。
 樹間に、頂上の様子が見え隠れしはじめた。
 逢英霊教ほうえいれいきょうの墓地。澄んだ空気のなか、林のほうから鳥の啼き声が響いている。
 朝餉あさげを済ませ、すぐに支度をして出かけたが、昼をいくらか過ぎている。
 穂香に持たされた握り飯を途中で頬張り、一人でここまで来た。ひと月が経って刃傷はすっかり塞がっている。冷えこみの激しい日は痛むこともあるが、歩けないような痛みではなかった。
 樹の陰に残る霜柱を踏み、並ぶ墓のひとつに歩み寄る。
 十年間、ここを訪れることは一度もしなかった。ただ黙って、墓石に刻まれた名を見つめる。こうして墓を見るのも、はじめてだった。
 進むべき道を見失っても、念昇ねんしょう(逢英霊教の信徒が唱える言葉)を唱えるような生き方はしてこなかった。作法は知っているが、心が伴っていなければ行為に意味は生まれない。信じる者、意味があると感じる者が、それぞれに手を合わせればいい。正しくあるために、不安や乱れを鎮め、心安らかならんとする。それが宗教の本来の目的であるはずだ。玄馬は、そう思っていた。
 倉岡。若いころから闊達かったつで、いつでも陽気な男だった。それが穂香を産んだ妻を亡くしてからは人が変わったように弱り、笑っていても表情にはどこか暗いかげが貼りついたようになった。
 穂香が七歳のころに、倉岡の腹のなかにできた病。手は尽くしたが、どんな薬を試しても病を取り除けなかった。
 幼い穂香のためにも、自分は生きなければならない。倉岡は、玄馬の顔を見るたびにそう口にしていた。
 お前は、一生を思うように生きられたのか。心のなかで問いかける。答えはない。夢に現れる倉岡は、いつも穂香を頼む、とだけ言ってきた。穂香にはいい亭主も見つかった。これからはもう、玄馬の夢に現れることはないかもしれない。
 墓は綺麗に手入れされていた。穂香は、数日置きに足を運んでいる。名前はわからないが、薄紫の花もそなえられていた。
 脇にさげていた包みを解く。冬の弱い陽射しのなかでも、それはまばゆく光を放った。
 倉岡真一。その墓前に、短刀を置く。倉岡。お前が望んだ、病を切り取る短刀だ。
 どれほどの歳月を費やしたのか。倉岡が死んで、もうすぐ十一年になる。ようやく、満足のいくものができた。
 お前のために、医術師の言う短刀を砥ぎあげる。それが、倉岡とかわした最後の言葉だった。その日の夜、穂香は一人で父親の最期を看取ったのだ。
 死んだ者にしてやれることなど、なにもない。
 倉岡は死んだ。それでも砥ぎ続けるのはなぜか、玄馬にもはっきりとした理由はわからなかった。それでも、友との約束だった。
 余人よじんに問われても、胸の内を明かすことはなかった。ただ砥石にのみ語りかけた。必ず砥ぎあげてみせると、ほとんど意地になっていたと言ってもいいのかもしれない。
 玄馬は短刀を砥ぎあげたときに、刀身に映る自分の顔を見て、はっとした。
 死んだ者のためになにかしてやろうとすることは、自分のためにすることとほとんど同じだった。そのことに気づいたのだ。
 腰にさげてきた酒を、ふたつの器に注ぐ。淡い色の器に、透き通った月桜酒げつおうしゅが揺れる。
 盃をひとつだけ持ち、逢英霊教の作法にならって玄馬はつぶやいた。
「我が供物くもつを受けよ、倉岡」
 一度、盃を額の前に持ちあげてから、口をつけた。
 呷った酒は、肚の底のわだかまりを灼き、染みこんでいくようだった。
 頭上で、笛のような音が響く。
 見あげると、晴れた空に一羽のとびが旋回していた。
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