砥石に語りて

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一 生業

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 汗が、滴っていた。
 そのことに気づいたのは、流れた汗が眼にしみたからだ。いつから流れているのか、知りはしなかった。
 兵藤玄馬げんまは、それでも手を休めなかった。
 強情な刀だった。無銘だが、悪くない。強情なのは、持ち主の気性を映しているのだと玄馬は思っていた。
 仕上げ。水を帯びるとぬめりを感じるような、滑らかな砥石といしだ。手入れは怠っていないので、砥石にはかすかな反りもない。
 玄馬はひとつ仕事を受けると、仕上がるまでその刀以外のことをほとんど考えなくなる。
 はじめは刀身をじっと見つめる。見つめ合う、いや互いを測り合うといってもいい。時には何日もそうしている。そのうち、語りかけると刀が答えるようになる。侮られればいつまでも答えない。あくまでも砥ぐ必要があれば、の話だ。自分に砥がれたがっていない刀は、手にした瞬間にわかる。
 抱くようにして眠り、寝ても覚めても、ひと振りの刀のことばかり考える。それはほとんど、その刀に恋をしているような状態なのだった。
 玄月げんのつきで、六十八になった。もう恋という歳ではない。それでも、刀との関係はそうだった。
 砥ぎ終え、持ち主が受け取りに来るまでの時間が、たまらなく嫌だった。離れがたいような気持ちになっているのだ。
 受け取りにやってくるまでは毎晩、裏庭に出て砥ぎあげた刀を構える。月の光を受ける刀身を見つめ、正眼でじっと構え続ける。もう、語りかけることはしない。そのころには言葉は必要なくなっている。
 一刻(約三十分)以上、構えたままじっとしていることもある。一度も振らず、鞘に収める。振りおろしたところで、闇を斬れはしない。
「先生、約竹やくたけの旦那様がお見えです」
 ちょうど作業を終えたところで、穂香ほのかが作業場を覗いて声をかけてきた。
 十七の小娘だが、器量はいい。玄馬が刀を砥いでいる最中は、来客があっても決して声をかけたりはしない。
 穂香が湿らせた布を持ってそばに来た。受け取って手を拭う。裏返して、顔と頭、首筋を拭いた。白髪頭を手で撫でつける。
「昼食も用意しました」
 湯の入った器を差し出しながら、微笑んだ穂香が言う。仕上げ砥に入ってから、なにも食べていない。いきなり食い物を口に入れず、まずは湯を飲んで胃袋にしらせてやったほうがいいのだろう。
 湯に口をつける。一度沸かしたものを、ぬるくなるまで冷ましてある。よく気の利く娘だった。
 友の娘。十年前、穂香を玄馬に預けて倉岡は死んだ。病だった。遠い昔のことのような気もするが、いまでも夢に見る。娘を頼む。倉岡が言うのは、決まってその言葉だった。
 着ているものを替え、約竹祥太が待つ部屋へ行った。
「待たせてすまんな、祥太」
「ちっともそんな顔をされてないようですが」
 祥太は、低い声で笑った。薬専やくせん術師として薬店を構えている男で、恰幅かっぷくがよく、躰を揺するようにして笑う。短く刈られた頭髪には、このところ白いものが目立つようになった。玄馬より十ほど歳下だったはずだ。倉岡が病にせっているころに知り合ったので、もう十年のつきあいになる。たまにこうして仕事の合間に世間話をしに来るのだ。
 卓を挟んで向かい合って座る。飾り気のない焼物の白皿に、穂香が用意した俵型の握り飯と胡瓜の漬物、開き干した真鰯まいわしを炙り焼いたものが、品よく並んでいる。祥太の前にも同じものが用意されているようだ。
 炙りの鰯は酒肴しゅこうに合いそうだが、いまは飯が食いたかった。穂香はそれもよくわかっている。本人にまだその気はないようだが、嫁げばいい女房になるだろう。
「領主のお誘いは、相変わらずですか」
「応じるつもりはない」
 祥太の顔から視線を外し、玄馬は握り飯を口に放りこんだ。祥太も、鰯に箸をつけはじめている。
「玄馬さんは、お店を大きくするおつもりがありませんからねえ」
 穂香にも、一度だけ言われたことがある。店を大きくして弟子も抱え、ひと月に受ける簡単な仕事を増やせば、いつも命を削るような仕事をする玄馬の負担を、いくらかでも和らげられるとでも思ったのだろう。
 もともと砥ぎ屋の看板すら掲げていないのだ。大きくするもなにもない。それが実際のところだ。
「この月桜国げつおうこくも、随分変わりました」
 祥太が話題を変えた。
「どう変わろうと、お前の売る薬が不要となることはないだろうさ」
「しかし、私どもの店であつかえる薬の種類は、いろいろと制約も増えてきましてな」
「そういうものか」
「このままでは薬専とは、名だけのものになるでしょう。お国の認めたものしか、薬専にはあつかわせてもらえない。そんな風向きになってきていますよ」
刀士とうしが剣の腕だけで生きる時代ではなくなっているように、か」
「私はそうは思いませんよ。薬専に関しては、あつかうものが薬という物ですから、それが手に入らなければどうしようもない。しかし剣というのは遣い手の腕ですから、なくなるわけではない」
「必要とされなければ、腕だけで生きてはいけんよ」
「玄馬さんの剣の腕は、大変なものだったと聞いております。なればこそ、いまのお仕事も極めて質の高いものとされておられる、私はそう思います。それに剣のほうが駄目になったかというと、そうではない。いまも玄馬さんは、ある意味では剣の腕で生きておられる。違いますか?」
「どうかな。庭で真剣を構えて立っているのがやっとだ」
「そういうときの理由に年齢を持ち出さないところが、いかにも玄馬さんらしい」
 祥太が膝を打ち、躰を揺すりながら声をあげる。口の端に飯粒がついたままだ。
 玄馬はなんとなく面倒になり、鰯を素手で掴んでかぶりついた。
 開け放った戸から、風が入る。近くを流れる小川のせせらぎが聞こえていることに気づいた。ずっと聞こえていたはずだが、玄馬には久しぶりに聞いたもののように感じられた。
 庭には、もう秋の気配が漂っている。
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