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第1話
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用事を済ませるために久川とは一旦別れ、落葉は天音の後を追って焦げ茶色の建物に入った。敷地内に住む人々の生活をサポートする役所と呼ばれる場所だ。
正面入口を抜けると住民に応対する窓口がいくつか並ぶ。窓口の奥の作業スペースでは、幅広い年齢の男女が最近普及してきたばかりのパソコンと向き合う。一様に難しい顔を浮かべるのは操作がわからないのか、単純に多忙なのか。パソコンを触ったことのない落葉には前者のように思えた。
天音の姿が見当たらず視線を右往左往していると、自販機の前にいた若い男と目が合った。男は敵意のない微笑を作り、紙コップを片手に歩み寄ってくる。
「もしかして、柊さん?」
「そうですが、どうしてボクの名前を?」
「紫のスーツを着た奇抜な若人がきたら案内しろって、さっき部長に頼まれましたから」
敵意のない笑みに、同情の色が混じる。
「別に趣味ではなくて、天音さんから着ろと言われているのですが……こういうときに目立つから都合がいいんでしょうね」
「部長ならありえますね。奇抜だろうが都合さえ良ければ構わないと判断する人ですから。柊さんを電撃スカウトしたのも、柊さんに芸人みたいな服装を強要したのも、あの人の感性がそうさせたんでしょうね。あぁ、別に柊さんの加入に反対ってわけじゃないですからね?」
誤解を心配して男は途中で声を小さくした。落葉は手を振って否定しつつ、彼が首から提げている職員証を見た。顔写真付きだとはわかっても、肝心の名前の部分が照明の反射で読めない。
加藤は落葉の視線に気づき、首から提げた職員証を落葉の見やすい位置で支えた。
「私は加藤っていいます。部長は奥の会議室で待っているそうですよ。通路を進んだ先の右側にあります。入口に書いてありますのでわかると思いますが、困ったら遠慮なく訊いてください」
〝加藤文彦〟と記載された職員証をおろして加藤もまたパソコンの設置されたデスクに腰をおろした。
落葉は案内された会議室に足を運ぶ。来客用ロビーも清潔感に溢れているが、来客の目が届かない職員用の通路にも整理整頓が行き届いている。
会議室のドアは開け放たれていた。慎重に顔を覗かせ、中の様子を窺う。
四つの長机が長方形に並べられた奥の一辺に天音が腰かけていた。書類の束を無造作に机に広げて真剣な眼差しで睨んでいる。落葉が対面に立ってようやく天音は顔を上げ、わざとらしい驚いた反応をした。
「失敬失敬、少々集中が過ぎたようだ。どうも俺は人見知りの傾向があるようでな。初対面の人とのコミュニケーションが苦手で、だからこうして勉強していたんだ。ほら、なかなか興味深い内容が書かれているんだぞ」
手元の資料を数枚手に取り、天音は身を乗り出して差し出す。何の話だと思いながら落葉が受け取ると〝初対面の相手が考えること!〟なんてタイトルがスーパーの安売り広告のごとく強調された書体で表紙を飾っている。
「ボクと初めて会った時、十年来の親友かのようにぺらぺらと喋っていませんでした?」
「だからそれが問題なんだ。どうも俺は初対面の人に軽薄そうだとか、胡散臭いだとか、そういったよろしくない評価を受けることが多くてな。見知ったつもりで初対面の人とも話してしまうのが駄目っぽいんだが、この本が言うには『馴れ馴れしいのは駄目』らしい。でも稼いでる商人は口が達者なもんだ。どうも書かれている内容が不思議でしょうがない」
「人見知りの解釈が一般的じゃないですが、わかってて言ってますね?」
「一般的かどうかなんて誰が決めた基準だ? 知ったつもりで話してしまうのも、単語にすれば〝人見知り〟だろ? この解釈に間違いはない」
「間違っていなければいいって話でもない気がしますが……」
返答に困る。ここへ来るまでの移動中も、車のなかで似たような奇怪な会話を何度もされた。そして、落葉が返答に詰まる度に話題が変えられた。
「わけのわからん話はこれくらいにしておこう。もっと有意義な話をしないとな」
今回もそうだった。自覚があるとしたら、天音敦規という目の前の男は相当な器だ。未だに掴めない天音の本性を想像して、落葉は畏怖に似た感情を胸中に抱く。一方で、いつか一度くらいは天音を論破してみたいと野望めいた感情も生まれる。
「久川楓を教育することがボクの役目なんですよね? 報告書は毎日必要ですか? 翌朝提出であれば、毎夜書くようにしますが」
「いいよそんなの、書かなくて。読まないといけなくなるだろ?」
「え? ですが、そうしないと家庭教師としてのボクの成果が……」
「そんな大層なものじゃなくていいんだよ。ここには学校だってあるんだし、真面目な教育はそこでやればいい。学びは学び屋とは言わないけど、時間が有限な以上は余計を省くべきだ。ま、彼女は学校に通ってないんだけど」
「学校を拒む彼女に個別で勉学を教えようとボクを連れてきたんですよね?」
「勉学を教えろとは言ってない。家庭教師をお願いしたが、勉強なんてどうでもいいんだよ。学校に通わないことでマイナスになるのはそこじゃない。同年代の異性と関わる機会が絶望的に激減するって以外にあるか?」
どうしてそんなことも分からないんだと、出来の悪い生徒に呆れているかのような失望。一理あるように思うが、勉学を差し置いて最重要とするほどには思えない。
「天音さんの主張はわかりましたが……なら、ボクは何を教えればいいんですか?」
「俺からは答えられん。何を教えてほしいかは、教育対象である久川くんが決めることだ」
「彼女に付きっ切りで、あるゆる質問に答えろと?」
「無理に答えなくてもいい。柊くんは特殊な環境で育ったとはいえ、まだ二十歳になったばかりだ。知らず回答に窮する質問もある。答えられなければ『自分で考えろ』とでも言っておけばいい」
いい加減な答えだ。
けれども、落葉に対して『自分で考えろ』とは返さずに明快な対応方法を示すあたりは天音らしい。曖昧ではなく細かく指示を出す白黒はっきりした天音の性格が、落葉は嫌いではなかった。いい加減に見えて、案外考えているタイプなのだ。
「付きっ切りで教育という内容はわかりました。質問ばかりで申し訳ないですが、『付きっ切り』とは何時から何時くらいを想定しているのですか?」
「細かいな。だいたい九時から十八時くらいでいいよ」
「付きっ切りにしては短いように思いますが、承知しました。彼女の相手を終えたら、ここへ戻ってくればよいですかね?」
「いや戻ってこなくていい。むしろ困るな、柊くんの席は用意してないし」
「え? では、ボクは彼女の教育だけを日々こなして直帰すればいいと?」
「それでいい。もしも教育時間が足りなければ彼女の家に泊まりこんで残業しても構わない。申請すれば残業代も出そう。宿泊先は確保しているが、使う使わないは君の自由だ」
「久川さんは何人家族で暮らしているんですか?」
「一人暮らしだ」
正面入口を抜けると住民に応対する窓口がいくつか並ぶ。窓口の奥の作業スペースでは、幅広い年齢の男女が最近普及してきたばかりのパソコンと向き合う。一様に難しい顔を浮かべるのは操作がわからないのか、単純に多忙なのか。パソコンを触ったことのない落葉には前者のように思えた。
天音の姿が見当たらず視線を右往左往していると、自販機の前にいた若い男と目が合った。男は敵意のない微笑を作り、紙コップを片手に歩み寄ってくる。
「もしかして、柊さん?」
「そうですが、どうしてボクの名前を?」
「紫のスーツを着た奇抜な若人がきたら案内しろって、さっき部長に頼まれましたから」
敵意のない笑みに、同情の色が混じる。
「別に趣味ではなくて、天音さんから着ろと言われているのですが……こういうときに目立つから都合がいいんでしょうね」
「部長ならありえますね。奇抜だろうが都合さえ良ければ構わないと判断する人ですから。柊さんを電撃スカウトしたのも、柊さんに芸人みたいな服装を強要したのも、あの人の感性がそうさせたんでしょうね。あぁ、別に柊さんの加入に反対ってわけじゃないですからね?」
誤解を心配して男は途中で声を小さくした。落葉は手を振って否定しつつ、彼が首から提げている職員証を見た。顔写真付きだとはわかっても、肝心の名前の部分が照明の反射で読めない。
加藤は落葉の視線に気づき、首から提げた職員証を落葉の見やすい位置で支えた。
「私は加藤っていいます。部長は奥の会議室で待っているそうですよ。通路を進んだ先の右側にあります。入口に書いてありますのでわかると思いますが、困ったら遠慮なく訊いてください」
〝加藤文彦〟と記載された職員証をおろして加藤もまたパソコンの設置されたデスクに腰をおろした。
落葉は案内された会議室に足を運ぶ。来客用ロビーも清潔感に溢れているが、来客の目が届かない職員用の通路にも整理整頓が行き届いている。
会議室のドアは開け放たれていた。慎重に顔を覗かせ、中の様子を窺う。
四つの長机が長方形に並べられた奥の一辺に天音が腰かけていた。書類の束を無造作に机に広げて真剣な眼差しで睨んでいる。落葉が対面に立ってようやく天音は顔を上げ、わざとらしい驚いた反応をした。
「失敬失敬、少々集中が過ぎたようだ。どうも俺は人見知りの傾向があるようでな。初対面の人とのコミュニケーションが苦手で、だからこうして勉強していたんだ。ほら、なかなか興味深い内容が書かれているんだぞ」
手元の資料を数枚手に取り、天音は身を乗り出して差し出す。何の話だと思いながら落葉が受け取ると〝初対面の相手が考えること!〟なんてタイトルがスーパーの安売り広告のごとく強調された書体で表紙を飾っている。
「ボクと初めて会った時、十年来の親友かのようにぺらぺらと喋っていませんでした?」
「だからそれが問題なんだ。どうも俺は初対面の人に軽薄そうだとか、胡散臭いだとか、そういったよろしくない評価を受けることが多くてな。見知ったつもりで初対面の人とも話してしまうのが駄目っぽいんだが、この本が言うには『馴れ馴れしいのは駄目』らしい。でも稼いでる商人は口が達者なもんだ。どうも書かれている内容が不思議でしょうがない」
「人見知りの解釈が一般的じゃないですが、わかってて言ってますね?」
「一般的かどうかなんて誰が決めた基準だ? 知ったつもりで話してしまうのも、単語にすれば〝人見知り〟だろ? この解釈に間違いはない」
「間違っていなければいいって話でもない気がしますが……」
返答に困る。ここへ来るまでの移動中も、車のなかで似たような奇怪な会話を何度もされた。そして、落葉が返答に詰まる度に話題が変えられた。
「わけのわからん話はこれくらいにしておこう。もっと有意義な話をしないとな」
今回もそうだった。自覚があるとしたら、天音敦規という目の前の男は相当な器だ。未だに掴めない天音の本性を想像して、落葉は畏怖に似た感情を胸中に抱く。一方で、いつか一度くらいは天音を論破してみたいと野望めいた感情も生まれる。
「久川楓を教育することがボクの役目なんですよね? 報告書は毎日必要ですか? 翌朝提出であれば、毎夜書くようにしますが」
「いいよそんなの、書かなくて。読まないといけなくなるだろ?」
「え? ですが、そうしないと家庭教師としてのボクの成果が……」
「そんな大層なものじゃなくていいんだよ。ここには学校だってあるんだし、真面目な教育はそこでやればいい。学びは学び屋とは言わないけど、時間が有限な以上は余計を省くべきだ。ま、彼女は学校に通ってないんだけど」
「学校を拒む彼女に個別で勉学を教えようとボクを連れてきたんですよね?」
「勉学を教えろとは言ってない。家庭教師をお願いしたが、勉強なんてどうでもいいんだよ。学校に通わないことでマイナスになるのはそこじゃない。同年代の異性と関わる機会が絶望的に激減するって以外にあるか?」
どうしてそんなことも分からないんだと、出来の悪い生徒に呆れているかのような失望。一理あるように思うが、勉学を差し置いて最重要とするほどには思えない。
「天音さんの主張はわかりましたが……なら、ボクは何を教えればいいんですか?」
「俺からは答えられん。何を教えてほしいかは、教育対象である久川くんが決めることだ」
「彼女に付きっ切りで、あるゆる質問に答えろと?」
「無理に答えなくてもいい。柊くんは特殊な環境で育ったとはいえ、まだ二十歳になったばかりだ。知らず回答に窮する質問もある。答えられなければ『自分で考えろ』とでも言っておけばいい」
いい加減な答えだ。
けれども、落葉に対して『自分で考えろ』とは返さずに明快な対応方法を示すあたりは天音らしい。曖昧ではなく細かく指示を出す白黒はっきりした天音の性格が、落葉は嫌いではなかった。いい加減に見えて、案外考えているタイプなのだ。
「付きっ切りで教育という内容はわかりました。質問ばかりで申し訳ないですが、『付きっ切り』とは何時から何時くらいを想定しているのですか?」
「細かいな。だいたい九時から十八時くらいでいいよ」
「付きっ切りにしては短いように思いますが、承知しました。彼女の相手を終えたら、ここへ戻ってくればよいですかね?」
「いや戻ってこなくていい。むしろ困るな、柊くんの席は用意してないし」
「え? では、ボクは彼女の教育だけを日々こなして直帰すればいいと?」
「それでいい。もしも教育時間が足りなければ彼女の家に泊まりこんで残業しても構わない。申請すれば残業代も出そう。宿泊先は確保しているが、使う使わないは君の自由だ」
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