エスメラルドの宝典

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第46話

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 階下に続く階段の手前に千奈美がいた。
 構えられた彼女のリボルバー。慧を狙う脅威に牙を向く。
 藤沢は慧に銃を突きつけたまま、視線だけで千奈美を見る。

「銃を向ける相手は、俺で合っているか?」
「撃ちたくない。ボス、お願いだから銃をおろして」
「俺も同じだ。ここで慧を殺したくなければ、千奈美も殺したくはない。もっと言えば、殺したいほど憎い人間なんていなかった。単に、生きるには殺すしかない」
「そんなことない。生きようと思えば方法はいくらでもある」
「フリーフロムの頭目が、捕まってもやり直せると思うか? 舐められたものだ」
「やり直せなくても、償いはできるはず」

 慧は口を挟まなかった。静かな舌戦を傍観する。
 彼は藤沢が何を思っているか、なんとなく察しがついていた。
 藤沢の握る拳銃が、照準を慧から千奈美に移す。
 凶器を向けられた彼女は怯む。だが、狙う獲物から目は逸らさない。

「大勢が俺を信じてついてきて、俺を生かすために散ってくれた。どの面をさげて償えと言う。俺に残された使命はあいつらの仇を討つ以外にない。千奈美、裏切ったのなら、お前から殺してやる」
「本当にそうするしかないの? ボスはもっと賢いはず」
「賢ければ、こんな生き方など選ばなかった」

 その言葉に後悔は感じられない。
 選んだ生き方に責任を持とうとする意志と、結末を受け入れる覚悟。それだけが声色に滲む。
 引き金にかけた藤沢の指が動く。千奈美に銃口を向けたまま、躊躇いもなく。
 彼女には彼の指の動作までは見えていない。
 しかし、狙われた側は撃たれる寸前にわかるものだ。当然それでは手遅れだが、反応できれば一発撃ち返すくらいの猶予はある。
 藤沢は目を細めた。
 狙いを定めるというより、己の過去を回顧するような瞳。銃弾がどこに飛んでいくかなど、昔を思い出すことに比べれば些事とでもいうように。

 銃声が響く。
 遅れて、もう一度響く。

 種類の異なる音色。深夜に反響した音は、夜気に溶けて鎮まった。
 己が生きるためには、相手を撃つしかなかった。
 障害となるならば、排除するしかない。
 どちらか片方しか選べないなんて状況はそこら中に転がっているものだ。
 今回も同じこと。
 藤沢は部下たちの無念を晴らすため、千奈美は過去に決着をつけるため。それを果たすために、互いを撃つしかなかったのだ。

 だというのに、銃弾は彼と彼女のどちらにも当たらなかった。
 口を半開きにして驚く千奈美。藤沢も似たような表情だ。慧はこれまで一度も、藤沢のそんな顔を見た覚えがなかった。
 辺りから硝煙の匂いが消えた。
 意識を取り戻し、藤沢は自嘲するような笑みをこぼす。

「滑稽だな。まさか、このような結末を迎えるとは」
「なんで私を殺さなかったの?」

 藤沢は手にしていた拳銃を放り投げた。

「慧にもそう訊いただろ? 俺を撃たなかった理由を言ってみろ」
「殺したくなかった。私は、それだけ」
「おもしろいものだ。子は親に似るというが、存外……」

 おかしそうに藤沢は喉を鳴らす。
 直後、その場で片膝をつく。支えきれない重荷に押し潰されるように、藤沢は横に倒れた。

「ボスっ!」

 千奈美が叫び駆け寄る。それに先んじて、より近くにいた慧が藤沢の前に屈み、様子を窺う。
 白髪を多く蓄えた歳相応に老けた顔が、少年と変わらない穏やかな寝息を立てていた。
 隣で立ち止まる千奈美。慧は彼女を見上げた。

「気絶しているだけのようだ。緊張の糸が切れたんだろ。十何年も心の休まらない生活をしてきたんだから、無理もない。あとのことは、警察にでも任せればいい」
 かつて自分を救った恩人の処分を決めると、慧は硬い床に仰向けに寝転んだ。
 千奈美だけが、どこか居心地が悪そうに佇立して俯く。

「ボスは、私に殺されようとしてた」
「ボスは俺たち孤児からすれば父親のような存在だった。自分の子供に裁かれようなど、まったく最低の行為だ。お前も似たようなものだがな。子が親に似るんだが、親が子に似るんだか。これほど興味の湧かない話もない」
「フリーフロムを裏切ったときから、こういう結末になるってわかってたの?」
「いや、想像もしなかった」

 千奈美を救うなら、藤沢は殺す。慧の頭にはその考え以外になかった。
 彼女をフリーフロムから解放するには、藤沢との決別は避けて通れない。数分前に屋上で藤沢と対峙したときでさえ、彼は考えを変えていなかった。
 千奈美の行動が、彼の描く計画に考慮されていなかったから。
 慧が決着をつけるのを待つのではなく、彼女自身が目の前の選択と向き合い協力してくれたから。

 ――おかしなものだ。

 両者が自分ではなく相手を選んだ結果、お互いが本当に望んでいた結末を迎えられたのだ。
 人は常に選択を迫られる。だが、どちらかを捨てなければならない状況になったとしても、手を取り合えば両方を得ることだって可能なのだ。
 独りでは困難だった目的を、慧が達成できたように。
 慧は腕に力を込めて身体を起こした。彼は千奈美ではなく、階段のある方角に目をやった。

「帰るぞ。あいつらが退屈してるだろうからな」
「帰るって……いったいどこに?」
「決まってるだろ。そのために、俺はこんな森の中にまでお前を迎えにきたんだ」

 千奈美にとって、藤沢のいるフリーフロムが唯一の居場所だった。
 しかし、それはもう過去の話。暗く深かった井戸の閉塞感から、彼女は解放されたのだ。
 慧は早く紹介したかった。
 世の中には、素晴らしい人たちがいるのだと。

「私も、変われるのかな?」

 不安げに囁く声。
 誰にも見えない位置で慧の口元が緩む。彼は随分と久しぶりに、両頬の重みが取れた気がしていた。
 その表情のまま、慧は大切な人に答えた。

「それは、千奈美が決めることだ」
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