エスメラルドの宝典

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第15話

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 橙色の小さな電球が照らす部屋で、藤沢は安価なパイプ椅子に腰かけていた。
 彼の対面には偵察部隊の生き残りが立っていた。千奈美と、運転手を務めていた男のふたりだ。
 偵察任務という点だけ評価するなら、千奈美たちの成果は申し分ない。けれども、二人の構成員が犠牲となった。裏切り者を始末できていればマシだったが、掠り傷すらも与えられなかった。
 藤沢の不満は底知れない。なんとか怒りを鎮めようと彼の拳は震えた。

「慧が裏切っていたか……逃げ出すだけなら慈悲を与えても良かったが、部下をやられておいて大人しく引き下がるのはいかんな」

 千奈美の報告を聞いた藤沢が、窓枠の奥に浮かぶ月を見据えて目を細めた。

「千奈美、お前だけでも無事でよかった。さすが、異能を使えるだけあるな」
「助かったのは、異能があったからじゃない」

 三階の窓枠から風が吹きぬける。藤沢が逃げた先の新たなアジトは、窓枠にガラスがはめられていなかった。
 千奈美は無機質な顔で眼下を眺めた。何人かの構成員が眩いライトを持って歩いている。歩哨を任された連中だ。
 不愉快そうな藤沢の眼光が、窓際に佇む千奈美を映す。

「見逃してもらったのか? アイツの頼みで、敵が手を引いてくれたのか?」
「そんなところかな。一人くらい倒せたかもしれないけど、敵は四人もいたから。奇襲が失敗した時点で撤退すべきだった。真相を確かめようと長居したのが間違いだった」
「しかし彼らの尊い犠牲は無駄にならなかった。幸いだったのは、慧が情けをかけてくれたことか。長年一緒にやってきた相手を、そう簡単には殺せなかったんだな。千奈美がアイツに、そうできなかったのと同じように」

 千奈美は答えない。藤沢が看破していたから、答える必要がない。
 異能を使えない慧ならば殺せたはず。そう思うのに、彼女は何もしなかった。
 藤沢は自分の膝に肘をのせた。

「これではっきりしたな。慧は俺を裏切った。いや、俺だけじゃない。仲間だと信じていたお前たちの気持ちも無視したわけだ。そのうえ俺たちを全員潰すつもりらしい。血気盛んなことだ」

 室内にいる千奈美ともうひとりを眺め、藤沢は高い天井を仰ぐ。

「許してやろうか。アイツは長い間、本当に役に立ってくれた。このアジトまで逃げてこられたのも、アイツが囮になってくれたおかげだ」
「ボス、本気っすか?」

 壁にもたれていた運転手の男が尋ねた。
 藤沢は彼のほうを向いた。

「もちろん冗談だ。試すようで悪かったが、お前たちが妙な気を起こしていないか気になってな」
「それなら、慧をどうするんすか?」
「始末する以外に選択の余地はない。今日の昼に、散り散りになってる奴らに召集をかけた。じきに、全戦力がここに集まる。金さえ払えば喜んで働く異能力使いも雇った。これならAMYサービスに万が一にも遅れをとったりしない」

 聞き耳を立てていた千奈美が、窓際で振り返った。まとめてあるだけの後ろ髪が舞う。

「戦力が充分なのはわかったけど、乗り込むの? 攻めやすい立地じゃなかったけど」
「連中の邸宅は外壁に囲まれているんだったか。壁を破壊して強行突破なりは可能だとしても、攻める側が不利になるのは必至だ。こちらから乗り込むのは避けたほうがいい」
「他に作戦があるの?」
「作戦ってほどじゃない。調べたところ、AMYサービスの構成員は頭目含めてもたったの四人だそうだ。慧を入れても五人。だったら簡単な話だ。順に消していけばいい」
「一人ずつおびき出すってこと? そんな簡単にいくとは思えない」
「簡単だ。手段を選ばない、という条件付きであれば」

 平然と言い放たれ、千奈美は息を呑んだ。
 藤沢が〝手段を選ばない〟と明言するときは、〝無関係の人を巻き込んでも構わない〟という意味だ。アジトの一つを容易く潰した敵を、彼が高く評価している証だった。
 訪れる沈黙。
 藤沢は待っているのだ。命令を完遂できるだけの自信のある者が、自ら名乗り出てくれることを。

 千奈美も即座には声をあげなかった。
 自信がないからではない。成功を確信できるだけの作戦を練っているのだ。
 けれども、そんな都合よくはいかない。
 具体的な案は思いつかないが、決して譲れない役目だ。考えることは後にして、彼女は藤沢に歩み寄る。

「ボス、そういう話なら、慧の相手は私が」
「――わりぃけど、そいつは俺にやらせろ」

 割り込む男の声。千奈美の足が止まる。
 薄闇に浮かぶ部屋の入口に、くせ毛の目立つ体幹の太い男が立っていた。声色や喋り方は乱暴ではあるが、盗賊組織であるフリーフロムの構成員にしては生真面目そうな顔立ちをしている。
 阿久津和久あくつかずひさ。慧より二歳年上で、今年で二〇になる。

「そういえば、お前も慧とよく一緒にいたな。傍目からしたら兄弟のようだと、何人かが言ってたか」
「俺もそう思ってたよ。片想いだったみてぇだけどな。敵になるってんなら、相手すんのは兄貴の俺以外にねぇだろ」
「千奈美の返答しだいだな。どうする? 阿久津はこう言ってるが」
「譲らない」

 この質問への千奈美の返答は早かった。

「お前に慧が殺せんのか? お前は慧のことが好きなんじゃねぇのかよ」
「裏切られたんだから、そんなのどうだっていい。そっちこそ、慧を本当の弟みたいにかわいがってたと思うけど、殺せるの?」
「本当の弟の〝よう〟ってだけで、血は繋がってねぇもんでな。いざってときに躊躇ってはやれねぇよ」
「手を引く気はなさそうだね」
「この役目だけは譲れねぇなぁ」

 固い表情の千奈美に、口元を緩めた阿久津が視線を返す。どちらかがこの場から消えない限り、平行線を辿ってしまいそうだ。
 落としどころをどうするか。
 そんなもの誰も考えていないかと思われたが、細めた目で事態を観察していた藤沢が口を挟んだ。

「決めれないか。それなら二人でいけばいい。手を組むでも交代でも、何でもいい」
「それがオッケーなら、俺に秘策があるぜ?」

 阿久津が得意気に言い放つ。千奈美も藤沢も、その内容には見当がつかない。確かめるように、藤沢は鋭利な瞳を阿久津に向けた。その視線に気づき、彼は藤沢に向き直る。
 そこで阿久津が話した内容は、たった一人だけを殺す作戦にしては不釣合いだった。
 だが藤沢は許可した。
 藤沢が良いというならば、千奈美も断るだけの理由はない。

 慧を殺すことだけを目的とした作戦が始まる。
 八年間をともに過ごした彼との別離。何故か千奈美の脳裏には、彼が生き残った未来の情景が浮かんだ。
 その未来に千奈美はいない。
 彼を囲むのはフリーフロムの面々ではなく、邸宅を襲撃した際に姿を見せた三人の男女の姿。

 ――慧は、どうして私の敵になることを選んだの?

 千奈美には嫌われるようなことをした覚えはない。恨まれるようなこともしていない。ただ毎日を一緒に過ごしていただけなのに。

 ――私には、慧と戦う理由がある。

 本来だったらとうに消えている命の灯火。藤沢がいたから、それが守られたのだ。彼だって救われた身であるはずなのに。

 ――信じたかったけど、現実を見てしまったから。

 千奈美が本心を伝えたことはない。
 けれどもずっと一緒だったのだから、勘付いていたはずだ。
 戦いたいわけがない。自分の選択が千奈美を苦しめると、彼は承知していたのだ。

 ――根拠はなかったけど、何年後も、何十年後も一緒にいると思ってた。

 そんな理想としていた未来は、砕かれた。
 千奈美が進むべき道はひとつ。
 そのために取るべき選択もまた、他にはない。

 ――私は、慧が好きだったのに。

 胸に抱き続けた強い想い。それがもたらしたのは、あまりにも残酷な使命。
 ならば、せめて――。

「慧は、私が殺す。誰にもその役割は譲らない」

 眼下の暗闇は夜空に浮かぶ満月さえも阻む。
 光のない景色を眺め、彼女は誰かに告げるように囁いた。

 いまの彼女には、そんな願いしか残っていなかった。
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