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第5章 聖地崩落編
12.北の極楽
しおりを挟む「ふう……」
カポーン、と広い浴場に澄んだ音が鳴り響いた。
『鹿殺し』などと物騒な名前を付けられたその仕掛けは、流れる水によって竹を動かして石にぶつけて音を鳴らすというシンプルなもので、はるか東国から伝わってきたらしい。
しかし、不思議と落ち着くその音色は自然と耳に入ってきて、身体の芯までしみこんでいくようだった。
「いい風呂だ。浴場が外にあるってのはどうかと思ったが、なかなか粋なもんじゃねえか」
俺は広い湯船に肩まで浸かりながらしみじみとつぶやいた。
東方辺境最北の町である交易都市リーブラは、山地の多い北方辺境と近いこともあって、東方では数少ない温泉地となっていた。
平地と低い山ばかりの東方ではあまり味わえない温泉に浸かっていると、身体が芯から洗われていくような清々しい気持ちになってしまう。
「お若いの、温泉は初めてかね?」
裸で露天風呂に浸かる俺へと同じく裸の老人が尋ねてきた。
「この町の温泉は初めてだな。ガキの頃に南のほうのには入ったことがあるが」
「ほほう、南方のご出身かね? ここではお仕事かい?」
「ま、そんなところだな」
話好きの老人の言葉に軽い相槌を返しながら、俺は湯に浸かったまま頭上へと目を向けた。
星空を観察して未来を予知するという星神教が聖地に定めるだけあって、この町から見る星空は驚くほどに澄んでいる。
(星を眺めて風呂に浸かれるとは贅沢だことだ)
これで隣にいるのが老人ではなく、若い女性ならばなおよかったのだが。
俺はエリザやサクヤの裸体を思い出して、やれやれと首を振った。
「はっ、あいつらと一緒じゃあ身体を清めるどころじゃなくなっちまうな。逆に汗をかいちまうぜ」
「おや、どうかされましたかのう?」
「いや、なんでもない。爺さんはこの町の生まれかい?」
「生まれは北のほうじゃよ。まあ、この町には何度も湯治に来ておるからどちらが故郷かわからんがの」
老人はほのぼのと両目を閉じた。ひょっとしたら、昔を思い出しているのかもしれない。
「この温泉は家内が生きているときに二人でよく来ておってのう。温泉に入った後は美味い地酒をたっぷりと飲んで朝までハッスルしたもんじゃわい。ほほっ、そういえば一番上の倅を授かったのもこの宿じゃったかの?」
「……その話は最後まで聞かなきゃダメか?」
「二人目を授かったのはここではなくてもう少し北の町での。あの町の温泉も見事じゃったわい。春じゃから花が見事に咲いていて湯船に白い花びらが浮かんでいてのう。真っ白な花が見える部屋でワシは家内を押し倒して……ありゃ、あれは三番目の愛人じゃったか?」
「……勘弁してくれよ」
誰がジジイの武勇伝など聞きたいというのだ。
俺はさりげなく湯船の端へ端へと移動していき、風呂から出るタイミングをうかがった。
しかし、老人の次の言葉に動きを止めた。
「そういえば……この温泉はもちろん良いが、やはりこの辺りで最高の湯はあの秘湯じゃな。脚が悪くなってからは行っておらんが、あれほどの湯は大陸中探してもめったにあるまい」
「秘湯?」
「うむ、知る人ぞ知る湯で、疲労回復に肩こり腰痛。男が入らば精力増強。女が入らば子宝に恵まれると言われておる。あの湯に入らずして温泉は語れまいて」
「ほう? そりゃ興味深いな。東方辺境に俺の知らない名所があったとはな」
勘違いしないで欲しいのだが、別に精力増強に引かれたわけではない。
そもそも精力は衰えていない。むしろ有り余っていることに困っているくらいだ。
しかし、この見るからに温泉を知り尽くした顔をしている老人がそこまで称賛する秘湯とやらには興味が引かれてしまう。
(そんな温泉があるのならエリザとサクヤを連れてきてやろうか? いっそ屋敷のメイド全員を連れてきて一緒に旅行をすれば、あいつらの機嫌も少しは収まるかもしれないな)
「それで? その秘湯とやらはどこにあるんだ?」
「ええっと、あれは……どこじゃったかのう?」
「おいおい、ここまできて忘れちまったとかやめてくれよ。さすがに興ざめだぜ?」
俺は濡れた髪をかき上げながら尋ねた。
老人はしばらくうんうんと唸っていたが、やがて記憶を引っ張り出すようにペシリと禿げ頭を叩いた。
「そうじゃ! あの場所はたしかこの近くの…………そう、アストライアー山じゃ!」
「はあ? アストライアー?」
「うむうむ、間違いない。あの山奥の温泉は見事じゃったのう!」
つい最近聞いたばかりの地名を耳にして、俺は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
そんな俺の困惑をよそに、老人はのんきな顔で若かりし頃の思い出話を語りはじめた。
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