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幕間 花咲く乙女
帝国の赤き薔薇⑦
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side ルクセリア・バアル
「ふああ・・・もうダメ・・・」
私の目の前で、新しく部下になったレイン・ハルファスという女性が目を回している。
湯殿でのぼせてしまった彼女は侍女の手によってバスローブへと着替えさせられ、今は私の自室のソファへと寝かせられていた。
信頼する部下だけが足を踏み入れることが許された皇帝の私室に知らぬ間に足を踏み入れてしまったと知れば、目を覚ました彼女はどんな顔をするだろうか?
(美人で、生真面目で、どこか可愛げがある。ディンギル様が好きそうですね。ああ、私ってば、また彼のことを考えてしまって・・・いけませんね)
ソファに横になって侍女に団扇であおがれているレインを見やり、私はついついそんなことを考えてしまった。
半年前に私を口説き落とし、小さな命を植えつけた愛しの男性。いつも油断をすると彼のことを考えてしまう。
(仕方がありませんね。彼と過ごしたのはわずかな期間ですが、すっかりのこの身と心の奥底まで存在を刻み込まれてしまったのですから)
私はそんなことを考えながら、膨らんだ腹部を手で撫でる。
ディンギル様のことが愛おしい。彼に会って胸に飛び込みたい。そんな女としての欲求は、常に私の精神を蝕んでいた。
もしもお腹の子供という彼の分身を宿していなければ、皇帝の椅子もなにもかもを放り出してランペルージ王国へ旅立ってしまったかもしれない。
「よろしかったのでしょうか、姫様。ハルファス女史にお腹の子供のことを話してしまって」
物思いにふける私へと、古い付き合いの侍女の一人が心配そうに声をかけてきた。
私は現実へと目を戻し、コクリと頷いた。
「こちらが信用してもらうためには、秘密を知ってもらうのが一番良いですからね。彼女はこれから先、この国に必要となる人材です。早くに信頼を得て取り込んでおくに越したことはありませんから」
私は執務机の上に置かれている論文の束に目を向ける。
この国の教育改革について書かれたその論文は、レイン・ハルファスが宮廷に勤める以前に書き上げたものである。
帝国が抱えている教育上の問題点として、識字率の低下がある。
この国において読み書きや計算ができるのは、一部の有力者と商人の子弟。あとは村々の村長と跡継ぎくらいのものである。識字率にいたっては二割を切っている。
そして、そんな文字を読むことができない者達を偽物の契約書でだまして、食い物にしている詐欺師まがいの商人が少なからず存在していた。
そんな現状を打破するための改革案がその論文には書かれてあった。
村落の一つ一つに無料で通うことができる『村学校』を設置して、子供たちに最低限の読み書きや計算などを教え込む。
そして――その子供たちの中から特に優秀な者は、自薦他薦により大きな町に設置された『高等学校』へと進学することができる。
さらに、『高等学校』で優秀な成績を収めた者は、未来の文官を育成するための『帝国学校』へと進学を許されて、卒業後は宮廷へと侍ることを許される。
これまでも文官が宮廷に仕えるための試験制度はあったものの、教育によって未来の人材を育成する制度は存在しなかった。
レイン・ハルファスが考えた構想を実現するためには、途方もない時間がかかるかもしれない。しかし、実現すれば市井に生まれて消えていくだけの才能をすくい上げて、帝国の未来のために生かすことができるだろう。
「なによりも重要なのは、彼女が考えた教育構想は男女に均等に教育の機会を与えていることですね。女性の社会進出、立場向上は私が目指しているものと同じです」
私は皇帝として、帝国に根づいている男尊女卑、女性蔑視の思想と真っ向から戦うつもりでいた。
若く優秀な女性文官であるレイン・ハルファスは、私の目的を達成するうえで右腕となりうる人物だろう。
「それに・・・すでに秘密を知っている者は他にもいるようですから、必要以上に隠す意味はありませんよ」
「・・・ダゴン侯爵様ですね」
侍女が沈痛な面持ちでその名前を口にする。
かつて帝国を混乱に陥れた次兄・グリード・バアルの部下であり、帝国貴族の中でも特に強い女性蔑視の思想を持っているあの男は、もっとも秘密がバレてはいけない人間の一人だろう。
「先ほどの会議の様子から見ても、ディンギル様のことをネタにして私を強請るつもりのようでしたね。早めに始末をつけませんと」
私はバスローブ姿のまま、窓際に置かれているテーブルへと近づいて行った。
テーブルの上には鳥籠が置かれてあり、中には大きな翼をもった立派な鷹がクルミを嘴で噛み砕いて中身を取り出している。
私は鳥籠を開けて、鷹の脚へ事前に書いておいた手紙を結び付ける。
「お仕事ですよ。よろしくお願いしますね?」
「クー」
指先でアゴの下を撫でてあげると、鷹が気持ちよさそうに目を細めて鳴く。
開かれた扉から顔を出して鳥籠の外へと出てきて、背伸びをするように大きく翼を広げた。
「いってらっしゃい。皆様によろしく」
「クーッ!」
鷹は両翼をはばたかせて大空へと飛んで行った。西に差し掛かった太陽に向けて飛んでいく鷹を見送り、私は窓を閉じた。
「鉄は熱いうちに。そして、敵は動き出す前に・・・」
「姫様・・・」
「この国を守るため。そして、愛しい我が子を守るためですから。心配しなくても、これくらいで気に病んだりはしませんよ」
気遣わしげに声をかけてくる侍女にそう返して、私は再びソファへと腰を落とした。
机を挟んで対面にあるソファでは、いまだにレインが顔を夕焼けのように赤くしてブツブツとうわごとをつぶやき続けている。
「はふう・・・へいかのおっぱい・・・おおきすぎる・・・」
「・・・どんな夢を見てるのかしら、この子」
彼女を秘密の共有者に選んだことは本当に正しかったのだろうか。
少しだけ不安に駆られて、私は眉尻を下げて溜息をついた。
「ふああ・・・もうダメ・・・」
私の目の前で、新しく部下になったレイン・ハルファスという女性が目を回している。
湯殿でのぼせてしまった彼女は侍女の手によってバスローブへと着替えさせられ、今は私の自室のソファへと寝かせられていた。
信頼する部下だけが足を踏み入れることが許された皇帝の私室に知らぬ間に足を踏み入れてしまったと知れば、目を覚ました彼女はどんな顔をするだろうか?
(美人で、生真面目で、どこか可愛げがある。ディンギル様が好きそうですね。ああ、私ってば、また彼のことを考えてしまって・・・いけませんね)
ソファに横になって侍女に団扇であおがれているレインを見やり、私はついついそんなことを考えてしまった。
半年前に私を口説き落とし、小さな命を植えつけた愛しの男性。いつも油断をすると彼のことを考えてしまう。
(仕方がありませんね。彼と過ごしたのはわずかな期間ですが、すっかりのこの身と心の奥底まで存在を刻み込まれてしまったのですから)
私はそんなことを考えながら、膨らんだ腹部を手で撫でる。
ディンギル様のことが愛おしい。彼に会って胸に飛び込みたい。そんな女としての欲求は、常に私の精神を蝕んでいた。
もしもお腹の子供という彼の分身を宿していなければ、皇帝の椅子もなにもかもを放り出してランペルージ王国へ旅立ってしまったかもしれない。
「よろしかったのでしょうか、姫様。ハルファス女史にお腹の子供のことを話してしまって」
物思いにふける私へと、古い付き合いの侍女の一人が心配そうに声をかけてきた。
私は現実へと目を戻し、コクリと頷いた。
「こちらが信用してもらうためには、秘密を知ってもらうのが一番良いですからね。彼女はこれから先、この国に必要となる人材です。早くに信頼を得て取り込んでおくに越したことはありませんから」
私は執務机の上に置かれている論文の束に目を向ける。
この国の教育改革について書かれたその論文は、レイン・ハルファスが宮廷に勤める以前に書き上げたものである。
帝国が抱えている教育上の問題点として、識字率の低下がある。
この国において読み書きや計算ができるのは、一部の有力者と商人の子弟。あとは村々の村長と跡継ぎくらいのものである。識字率にいたっては二割を切っている。
そして、そんな文字を読むことができない者達を偽物の契約書でだまして、食い物にしている詐欺師まがいの商人が少なからず存在していた。
そんな現状を打破するための改革案がその論文には書かれてあった。
村落の一つ一つに無料で通うことができる『村学校』を設置して、子供たちに最低限の読み書きや計算などを教え込む。
そして――その子供たちの中から特に優秀な者は、自薦他薦により大きな町に設置された『高等学校』へと進学することができる。
さらに、『高等学校』で優秀な成績を収めた者は、未来の文官を育成するための『帝国学校』へと進学を許されて、卒業後は宮廷へと侍ることを許される。
これまでも文官が宮廷に仕えるための試験制度はあったものの、教育によって未来の人材を育成する制度は存在しなかった。
レイン・ハルファスが考えた構想を実現するためには、途方もない時間がかかるかもしれない。しかし、実現すれば市井に生まれて消えていくだけの才能をすくい上げて、帝国の未来のために生かすことができるだろう。
「なによりも重要なのは、彼女が考えた教育構想は男女に均等に教育の機会を与えていることですね。女性の社会進出、立場向上は私が目指しているものと同じです」
私は皇帝として、帝国に根づいている男尊女卑、女性蔑視の思想と真っ向から戦うつもりでいた。
若く優秀な女性文官であるレイン・ハルファスは、私の目的を達成するうえで右腕となりうる人物だろう。
「それに・・・すでに秘密を知っている者は他にもいるようですから、必要以上に隠す意味はありませんよ」
「・・・ダゴン侯爵様ですね」
侍女が沈痛な面持ちでその名前を口にする。
かつて帝国を混乱に陥れた次兄・グリード・バアルの部下であり、帝国貴族の中でも特に強い女性蔑視の思想を持っているあの男は、もっとも秘密がバレてはいけない人間の一人だろう。
「先ほどの会議の様子から見ても、ディンギル様のことをネタにして私を強請るつもりのようでしたね。早めに始末をつけませんと」
私はバスローブ姿のまま、窓際に置かれているテーブルへと近づいて行った。
テーブルの上には鳥籠が置かれてあり、中には大きな翼をもった立派な鷹がクルミを嘴で噛み砕いて中身を取り出している。
私は鳥籠を開けて、鷹の脚へ事前に書いておいた手紙を結び付ける。
「お仕事ですよ。よろしくお願いしますね?」
「クー」
指先でアゴの下を撫でてあげると、鷹が気持ちよさそうに目を細めて鳴く。
開かれた扉から顔を出して鳥籠の外へと出てきて、背伸びをするように大きく翼を広げた。
「いってらっしゃい。皆様によろしく」
「クーッ!」
鷹は両翼をはばたかせて大空へと飛んで行った。西に差し掛かった太陽に向けて飛んでいく鷹を見送り、私は窓を閉じた。
「鉄は熱いうちに。そして、敵は動き出す前に・・・」
「姫様・・・」
「この国を守るため。そして、愛しい我が子を守るためですから。心配しなくても、これくらいで気に病んだりはしませんよ」
気遣わしげに声をかけてくる侍女にそう返して、私は再びソファへと腰を落とした。
机を挟んで対面にあるソファでは、いまだにレインが顔を夕焼けのように赤くしてブツブツとうわごとをつぶやき続けている。
「はふう・・・へいかのおっぱい・・・おおきすぎる・・・」
「・・・どんな夢を見てるのかしら、この子」
彼女を秘密の共有者に選んだことは本当に正しかったのだろうか。
少しだけ不安に駆られて、私は眉尻を下げて溜息をついた。
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