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10.邪神の気まぐれ
しおりを挟むウータと名乗った少年。
マリーが金を盗み、裏切った相手だった。
「どうしたんだい、何で泣いているのかな?」
「…………」
ウータが訊ねてくる。
優しく、落ち着いた声だったが……マリーにはそれが酷く恐ろしいものであるように感じられた。
「ごめん、なさい……」
「うん?」
「お金を、わたしてしまいました……あなたの、おかねを……」
「…………」
「あのお金で、お姉ちゃんを取り戻すはずだったんです……お父さんが作った借金のせいで連れていかれたお姉ちゃんを……」
マリーは泣きながら、自分が置かれている状況を口にする。
それは盗みを働いた言い訳をしているというよりも、教会で懺悔をしている心境だった。
父親が借金を残して逃げてしまったこと。
姉が借金の形として連れていかれたこと。
姉を取り戻すために、子供ながらに働いてお金を稼いでいたこと。
債権者である男達が目の前に現れて、マリーのことも連れていこうとしたこと。
姉が娼婦に落とされていて、客の暴力によって命を落としていたこと。
そのために、代わりにマリーを働かせようとしていること。
全て、一つ残らずマリーは白状した。
「どうして、どうして私は子供なの……?」
「…………」
「もっと大きかったら、お姉ちゃんを助けられたかもしれないのに。お姉ちゃんの身代わりになって、私が身体を売ることも出来たのに……どうして、どうして、私はこんなに小さくて弱いのよお……」
「そっか、辛いねえ」
うずくまって泣きじゃくるマリーの頭に、ウータが掌を載せる。
「辛いね。寂しいね。悲しいね。痛いね……怖かったねえ」
「う……えぐっ、えぐっ……わたし、あなたのおかねを……」
「大丈夫。君は間違っていない。家族は大事だもの。他人の財布よりもずっと大切だもの。君は正しいことしかしていないよ」
「そう、なの……?」
頭を撫でられながら見上げると、ウータは不思議なほど穏やかな顔をしていた。
優しい……というのとは少し違う。愛情や同情とも違う。
包み込むようでありながらも、決して寄り添うことはしない。相手を理解しようともしていない。
雲の上から小さな人間を見下ろして、愚かな過ちにやれやれと諦観混じりの情けを抱くようなその瞳。
それは『慈悲』と呼ばれるもの。
遥かなる高みに立っている超越者の慈しみが、ウータの両眼には宿っていた。
「とはいえ……君が罰を受けることを望んでいるのなら、僕はそれを与えよう」
「ッ……!」
「罰もまた罪人にとっては救済だよ。罰を受けることで人はまっさらな気持ちになって、人生をやり直すことができるんだから」
マリーの意識が遠ざかる。
もう二度と目覚めないのではないかと思うほど、深く深く沈んでいく。
「君は許された。新しい人生を、今度は自分のために生きるといいよ」
その言葉を最後に、ピシャリと目の前が真っ暗になる。
少女マリーは確かに、そこで命を落とした。
それはまぎれもない事実なのである。
〇 〇 〇
「まったく! あんなガキからこんな大金が取れるとはなあ!」
「親父の借金を返すには十分だよな! ギャハハハハッ!」
ギャングの拠点である建物の二階にて、数人の男達が笑い合っていた。
男達はいわゆるギャングと呼ばれる存在であり、ファーブニル王国の裏社会においてそれなりに力を持っている組織だった。
主な収入源は高利貸し、人身売買、売春斡旋。
いずれも阿漕な行為ではあるものの、ファーブニル王国の法においては規制されていない合法な商売だった。
ただし、それを考慮しても男達はやりすぎていた。悪人であることに疑いようはない。
あの少女……マリーの父親はクズだった。
ギャンブルのために借金をして、返済のためにまたギャンブルをして……その繰り返し。
最終的には、二人いる娘の一人を売ることにすらなってしまう。
男は責任を果たすことなく逃げ出し、今は行方知れずとなっていた。
残された下の娘……マリーは孤児となって、日雇いの仕事をして暮らしている。
金貸し達は上の娘を娼婦に落として、貸した金を返済させた。
しかし、全ての金を返済させるよりも先に、その娘は命を落としてしまった。
客の一人が乱暴に扱って、何度も何度も殴って殺したのだ。
もちろん、その客にはケジメを取らせたが……それはそうとして、足りない分の金は取り立てなければいけない。
そこで、男達はマリーに近づいたのだ。
彼女を攫って、売り飛ばすために。
「ハハッ! これだけあればお釣りが来るぜ! それにしても……あのガキ、こんな大金をどこで手に入れやがった!?」
「どっかでかっぱらってきたんだろ! まあ、俺達は金さえ手に入ればどうでもいいけどな!」
男達は大量の金貨を手に入れて、ホクホク顔。
やせっぽちの子供を売っても、高くても金貨十枚程度。
まさか、その十倍もの金額を手に入れてくるとは思わなかった。
「そういえば……俺達を転移させたガキ、どうしてやろうか?」
あの見知らぬ少年のせいで、二人の部下が死んでいる。
男もまた死にかけており、落とし前を付けずにはいられなかった。
「絶対に町から出すな。生かしたまま、俺の前に連れてこい」
「へい、わかりやした」
「フン……」
部下に命じて、男は手に入れた金貨の袋を手の中で弄ぶ。
自分達は狼だ。
人を襲い、喰らうケダモノだ。
そういう生き方を選んだ。そういう生き方しか選べなかった。
スラムで生まれ育った孤児に選べるのは、一生負け犬として生きていくことか、暴力で他人から奪うことだけなのだから。
「ん……?」
物思いにふけるギャングの男であったが……階下から騒ぐ音が聞こえてきた。
若い者達がケンカでもしているのだろうか。
「おい、何を騒いでやがる?」
「ちょっと、見てきやす」
部下が様子を見に行こうとするが……それよりも先に扉が外から開かれて、若い部下が飛び込んできた。
「大変です、兄貴! 殴り込みです!」
「あ? どこのどいつが……!?」
「僕だよー」
「あ……」
部屋に飛び込んできた部下が消えた。
一瞬で……まるで冗談のように、粉々に身体が砕け散る。
「どうもー、宅配ピザですー……なんちゃって」
部下の残骸、床に積み重なった塵を踏みつけて現れたのは、一人の少年である。
見覚えがある。先ほど話題に出していた……金貸しの男達を転移させた少年だった。
改めて見ると、本当に若い。
おそらく、年齢は十代半ばほどだろう。
黒髪黒目という、この国ではあまり見かけない容姿をしていた。
「テメエ……どうして、ここに……!」
「どうしてだと思う? 何でだろうねえ」
「……下に若いのがいたはずだ。そいつらをどうした?」
「殺した。みんな、塵にした」
「…………!」
一階にいたのは組織の若衆。
いずれも頭の悪い馬鹿ばかりだが、それなりに腕っぷしは立つ者達だった。
「それを殺しただと……テメエみたいなガキが、たった一人で……!」
「そう言っているんだけど……聞こえなかったのかな?」
「殺せ!」
男が命じた。
瞬間、部屋にいた部下たちが動き出す。
数人の部下が剣を抜いて、少年に斬りかかった。
いずれも手加減無しの一撃。殺しに慣れたギャングの剣。
「ああ……いいね」
しかし、少年は……ウータは動かない。
回避もしない。防御もしない。
それなのに……ウータに斬りかかった男達の武器が勝手にへし折れた。
「なっ……」
「いいね。そうやって殺しにかかって来てくれると、とても気が楽だよ。安心して殺せる」
へし折れた剣はいずれも黒ずんでおり、錆びついたクズ鉄になっていた。
まるで、手入れもせず塩水につけ続けていたような……いったい、どうやったら一瞬でこんなふうになるのだろう?
「それじゃ、反撃ね」
「あ……」
「がっ……」
ウータが軽いステップで床を蹴り、金貸しの部下達の身体に触れていく。
その度に彼らの身体が塵となり、床に散らばっていった。
「馬鹿な……いったい、何をしやがった……?」
最後に残された金貸しの男が呆然とつぶやく。
たった数秒で部下が死んだ。
階下にいる若衆も死んでいる。
もう誰も残っていない。男だけが残されている。
「テメエの能力……転移だけじゃなかったのか?」
「それもあるけどねー。別にそれだけじゃないよ?」
ウータの口調は軽い。
たった今、人を殺したとは思えないほどに軽い態度である。
「俺のことも殺すのか……」
「うん、殺すよ」
「……見逃してくれ」
「ん?」
「見逃してくれ。金は渡す。だから、俺だけは助けてくれ」
部下を殺した男に頭を下げる。
ようやく、ここまで成り上がったのだ。
スラムの孤児から成り上がった。
奪われる側から、奪う側になった。
それなのに……死にたくなんてない。積み上げたものを失いたくなんてない。
「うーん、ダメかな。やっぱり」
「どうしてだ……俺達に何の恨みがある。皆殺しにしなくちゃいけないようなことを、俺がお前にしたっていうのか……!」
「してないけどね、別に」
ウータの口調はあくまでも軽い。
そう……この男達は、ウータに対して別に何もしていない。
裏路地では殴られそうになったが、それだけだ。
殴られそうになったくらいで相手を殺そうとするほど、ウータは乱暴な性格ではなかった。
そして、男達が鏖殺されるほどの悪人だったかと聞かれると、それもやはり違う。
男達がやっている商売は、この国においてどれも合法。
暴力を使って取り立てをしているのは褒められたことではないが……少なくとも、官憲には見逃されている。
裏社会を支配するギャングといっても、所詮はそれだけ。
放っておいたところで国の害にはならないだろうと放置される程度の、小悪党でしかなかった。
「強いて理由を上げるのなら……不愉快だったからかな?」
「不愉快、だと……?」
「うん、そうだね」
ウータはのんびりとした口調で、怒りも悲しみも浮かんでいない顔で告げる。
「あの子が泣いているのを見て、いやーな気持ちになったから。お腹の奥が重くなって、ムカムカしたから。ご飯が美味しくなくなるような気がしたから……だから、殺すね?」
「そんな理由で……そんな理由で、テメエは人の命奪えるっていうのか……!?」
「そうだけど……何か、問題あったかな?」
「…………!」
平然と言ってのけるウータの顔を見て、ようやく男は悟った。
(この男……人間じゃねえ……!)
怒りや憎悪から人を殺す人間を、男は知っている。
金のため、あるいは快楽のために殺人に手を染める人間も知っている。
正義感のため、国や忠義のために人を殺す人間だって、知っているはずだった。
だが……ウータの瞳には何の感情もない。
部屋の汚れが気になるから掃除をする……その程度の気軽さで、十数人のギャングを殺害して、金貸しの男のことも殺そうとしていた。
(俺達は、触れてはならないものに関わっちまった……!)
男は人生で最大の恐怖に襲われた。
特に理由はないけど、気まぐれで人を助ける。
特に理由はないけど、気に入らないから人を殺す。
慈悲深く、冷酷で、寛容で、残虐で。
理屈など無視して、道徳を踏みにじって。
それはまさしく、邪神の所業。
人間の法や倫理の外側にいる神魔の在り方である。
「お話がこれで終わりだったら、そろそろ殺すね」
「まっ……」
「じゃあね」
これでお終い……紙芝居が終わるような調子で、ウータが男の人生に幕を下ろす。
男の肩に軽く触れると、その身体が粉々に砕けて塵となる。
「あ、僕のだ」
塵となった男の残骸……そこに埋もれた金貨の袋を拾って、ウータは嬉しそうに笑うのであった。
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