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第4章 『水とともに生きる:後編』

第13話 真相

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 努めて優しく、けれども何処か芯のある言い方に、マコトさんは思わずといった様子で言葉を呑み、そのまま黙り込んでしまった。
 まさか、そこまで分かる人がいるなんて、とそう言っているようだった。
 再び場を支配する静寂。代わりに言葉を発したのは、ジブリールさんだった。
 どういうことか、と。

「外江って、確かここの宿の管理者ですよね。それに、こまきって……」

「よく見てらっしゃいますね、つゆさん。しかしその外江さんとは正に、彼自身のことだったのですよ」

「え、っと……? ……すみません、詳しく教えてください」

 私が言うと、クリスさんは短く目を伏せ、空気を変えた。

「あくまで想像だということを念頭に置いておいてください」

 私とジブリールさんは頷き、続く言葉を待った。

「どういった理由かは分かりかねますが、マコトさん――いえ、コマキさんは、ご自身の名前をあまりよく思ってはいなかったのではないでしょうか。こまき、という名前はしばしば、女性らしい名前だと思われることが多いものですから」

「でも、だからって偽名を使ってまであのノートをっていうのは――」

「ええ、無理があります。そこで、これというわけです」

 クリスさんは、『もんて』と書かれたメモを裏返し、新しく何かを書き始めた。
 程なく、非常口の電光板等によくみられる、簡単な人の絵が出来上がった。

「ピクトグラム。視覚記号の一つで、公衆トイレ等といった公共空間で使われることが多くあります。色や形から、誰が見ても分かり易い絵のことですね。ピクトグラムとアナグラム――美術学科に多少なりとも造詣のある方なら、一度は通る道でしょう。コマキさんは美術学科の高校、あるいは大学に進学していた。だからそれらのことを知っていた。昔から、ピクトグラムやアナグラムに触れる機会があった。それだけでなく、言葉遊びや記号遊びが好きだったのでしょう。でなければ、看板を手掛けることを易々と請け負うこともありませんから。謎を入れるならそこだ、とも考え至ったことでしょう。近江八幡市、と大きな括りでの地元なら仕事も大変ですが、小さな孤島であるこの沖島だけを指して地元と言うのであれば、一人の手でも看板をこさえるには足ります。人の往来する区画も、自ずと限られてきますからね」

「でも、マコトさんはさっき、仕事に呼ばれたからって漁師さんの方へ……」

「誰も『漁の仕事に呼ばれた』とは言っていません。大方、漁師の方々からピクトグラムかチラシ等に使うイラスト作成の依頼でもされた、といったところでしょう。漁師の方々が漁の服を着て仕事をしている中、服装もラフなままでしたから。あの集団に与する仕事ではないだろう、ということは想像出来ました」

 クリスさんは続ける。

「先ほど話された内容の中に『両親の経営していた仕事』とありましたね。あれはこの旅館を指し、仕事が難航していたのは、美術科へと進み、ご両親の手伝いもしたことがないと仰られたことからもその方面の知識がなかったからですね?」

 マコトさん、いや、コマキさんは答えない。
 否定しないのであれば、沈黙とは即ち答えそのものだ。

「それだけではありません。これは偶然なのですが――外江こまきさん。あなたは過去、ピクトグラム製作のコンペで入賞なさっていませんでしたか?」

 尋ねられたコマキさんは、どうしてそれを、といった様子で俯いていた顔を上げた。

「こちらは本当に偶然のことなのですけれど。うちの祖母は毎朝、仕込みをしながら新聞を読むのが日課でしてね。その内容をよく教えられるんですよ。面白そうな記事を見つけては『おもろいやろ、すごいやろ』といった具合に。その中にある日、当時地元の高校生であった『トノエコマキ』という方の作品が載っていたことがありました。小さなコンペの優勝作品です。美術の授業でやったのかな、とも思いましたが、美術学科でない、必修科目としての美術授業中にピクトグラムを習うことなんて、まずありません。だから、もしかしたら美術学科の生徒さんなのかな、と邪推したことがございました。それに関しては、ここでお詫び申し上げます」

 そう言いながら頭まで下げるクリスさんを、コマキさんは慌てて制止した。

「それは別に構わないのですが……そうですか。クリスティ、と称される理由の一端を、本当の意味で垣間見た気がします」

「恐縮です。付け加えるなら、ここがあなたの家だと気が付いたのも、日常化し過ぎて誤魔化しきれていない料理スキルにありました。知り合いの経営する民宿であれば大方の物品配置等は知っていることも不思議はありませんが、それにしては手慣れ過ぎていましたから。手足のように複雑な調理を進める様子は、まるで答え合わせを見ているようでしたよ」

「そこまで……怖いお方だ」

「過分なお言葉です。しかし、まさかあの新聞記事が男性だったとは思いませんでした。他の方々も、名前は載っていても性別までは書かれていませんでしたから」

 クリスさんは、嫌味ではなくそう言った。
 クリス、というのは本名とは言え、名前を他の人物に準えて呼ばれることのあるクリスさんだからこそ、かもしれない。

「ごめんね、リル。僕はひどく多くの嘘を吐いていた。が、それもクリスさんの語ったことが全てだ」

「マコト……」

 それでもなお、ジブリールさんは彼のことをマコト、と呼んだ。
 しかし何を思ったのか、小さな声で何度か繰り返し、やがて『コマキ』と改めて口にした。

「リル、君は……」

「わたしにとってマコトはマコト、です。だから、名前かわって、何かかわるわけないです。あなたはあなた。わたしの大好きな、マコトです」

 溢れんばかりの笑顔で言うジブリールさんに、コマキさんの目が潤んだのが分かった。

「わたし、コマキって名前すき。いみは分からないけど、口にしていやじゃない。いい名前だね、コマキ」

「リル……ごめんね、嘘を言ってて」

 ジブリールさんは間髪入れず、首を横に振った。

「僕は昔から、名前のことでいじられることが多かった。字面はまだしも、響きが女みたい、って。それが嫌で嫌で仕方なくて、ある時に触れた美術の勉強から気付いた。僕の名前は、並び変えれば男っぽくなるのに、と。君にそっちで名乗ったのも、僕の持つコンプレックスからだった。でも今考えれば、君に名乗っても仕方なかったね。漢字も名前も、君は当時日本人という存在に触れるのが初めてだったんだから」

「はい。でも、たとえば知ってたでも、わたしはコマキという名前、すごくすてき思います。すぐにはむずかしいでも、コマキもじぶんの名前、好きになってほしい」

「……そうだね。越して来たっていうなら、これからも何度か顔を合わせることだろうし、僕も自分を偽る訳にはいかない。何より――」

 コマキさんは、クリスさんの方へと目を向けて、

「近江のクリスティが友人にいるのなら、何を繕ったところで意味を成さないだろうからね」

 心底まいったといった様子で深く息を吐いた。

「あらあら。ふふっ」

 悪戯に笑うクリスさんも、存外まんざらでもない様子だ。

「ありがとう、リル。僕の名前を好きだと言ってくれて。初めから偽らなければ、不快な思いをさせずに済んだのにね」

「それはちがいます、コマキ。『M note』がなければ、わたしはここにいません。いいえ、あのナゾを作ることもできてなかったでしょ? だから、いいんです。今、こうやってコマキに会えた。それだけでいい、ちがいますか?」

「――そうだね。ほんと、君には敵わないよ。これからは、その想いに応えられるよう、誠意を見せていくって約束するよ」

 苦笑いをしたその後で、

「おじさん、と呼ばれる年齢に片足を突っ込んでいる僕だけど――ティ・ヴァリォ・ベーネ、リル。今はまだ、ね。改めてこれからよろしく」

 そう口にしたコマキさんに、ジブリールさんは少し不服そうな、それでいてとても嬉しそうな、複雑な色をした笑みで頷いた。
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